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時計の文字盤は五時を指していた。私は身体を起こし、着なれたジャージに身を包んだ。青と白の配色が為されたこれは私のお気に入りだった。家族はまだ寝てる。音が軋まないように気を付けて私はそのまま家の外に出た。施錠するための鍵だけは一応持ってきている。
スニーカーを履いて外に出ると、まだ薄闇だった。街灯がないから少しばかりの一等星が空に煌めいている。どこかで一番鳥が鳴いた。
少しばかり暗いが、好都合だ。丸山には農家も多い。そしてその大半が早起きである。遠めで分からないような薄闇はありがたい。陸上部のジャージにしたのも不審に思われないための格好だ。誰も彼もが顔見知りの小さな集落。当然私の顔だって知れ渡っている。陸上部にいたことも怪我したことも、誰だって知っている。ちょっとリハビリがてらの朝のジョギング。どこにも不審なところはない。
私はゆっくりと歩く。エンジンを暖気させるみたいなものだ。そうやって太ももにふくらはぎに、踵にまで血流が巡ったことを意識しながら、そのまま軽く走る。腱こそ切れてしまったけど、それも一応くっついてはいた。再発の可能性はあるけど、そんなことどうでもいい。
気持ちよく走る。それだけのことを、なんで一回腱を切ってしまったくらいで辞めてしまったんだろう。
地面は荒れ気味のアスファルトで、時折足元を見ないとどうしようもないくらいに凸凹している。それでも前さえ向いていれば何秒後かのつま先に穴があるかどうかくらいは分かった。
「はっ……はっ……」
呼吸が段々と早くなる。走っているときに大事なのは、一回でどれだけ吸って吐くかの呼吸よりも一定数のテンポを維持できるかどうかだ。守るべきことを守っていれば、必ず早くなる。どれだけ遅くても努力次第ではかなりのところまで行ける。それも一生続けられる娯楽。私がいままでやってきた陸上。それも中長距離の駅伝やマラソンで言える長所はこれくらいだ。
アスファルトが途切れてあぜ道に差しかかる。霜を含んでやわらかくなった地面に足を取られないように一歩一歩踏みしめる。やや東の空が明るくなっていた。もうすぐ夜明けだ。それは私のやったことを白日にさらす絶望の朝日だった。
朝日に向かって走った私は、やがてその山のふもとにある登山口にたどり着く。木々が上空で重なり合っていてそれが日光を遮る。そのせいか、湿気が増える夏場の雨の翌日には少しぬかるむ。それでも道として機能するのは山向こうに丸山よりも小規模な集落、平沢があるからだ。日常的にここを通る何人かが道を踏みしめるおかげで道と呼べるだけの通路が出来上がっている。
そういえば。
ここを通る何人かの人間、それは真奈美に気付かなかったのだろうか。私のあやふやな記憶、だからだろうか、私は突き飛ばした後の記憶がほとんどすっぽ抜けていた。突き飛ばしたとほとんど同時に山道にへたり込んでいた。だから彼女の末期の声や、死ぬ瞬間は見ていない。それを見る余裕もなかった。
私が見たのは、太い枝が真奈美の胴体を突き破り、そこに血が滴っていたところ。顔はうかがえなかった。とてもじゃないが見ることなどできなかった。
今も、それは変わらないはずだ。なにせ私が一瞥しただけで死んでいるとわかる。そうしたある種のわかりやすい場所で彼女は死んでいたはずだ。だったらなぜ、日常的にここを通る住民がそれを見つけられないのか。それが分からなかった。
「いるの?」
誰にも聞こえないその声は、私の口からぽつりと漏れた呻きだった。
いてほしい、と思う。
自己満足でもいい、贖罪の機会をくれ。
家族を巻き込んでしまうし、何もかもをぶち壊してしまうかもしれない。だけれど、死人と認識したはずの真奈美が今も動いてにこやかに笑っている。そんな地獄絵図よりはよほどましな気がした。
朝日が昇る。そのおかげで足元がはっきり認識できた。一応山道は薄暗いのだが、日光のあるなしはかなりの違いがある。
夏の前だ。落ち葉はなく、土が丸出しだった。どこだったかを思い出す。たった一週間前だが、山道は木々くらいしか目印がないせいで、どこがどこだかわかりづらい。ただそれでも、何かに導かれているような感じがある。
曲がりくねった山道、そしてその中でも木々が重なり合い、一番日光が当たらない場所。そこには見覚えがあった。そして、印象も一番強かった。
そうだ、ここだ。ここに違いない。
だれに言われたわけでもない。だけど、私には確証があった。証拠もなにもないけれど、ここに違いないっていう確信。
私は山道から少しだけ身を乗り出した。記憶が正しければ、そこの下。五メートルか一〇メートルかは分からないが、とにかくかなり下の方。折れた倒木が重なり合った場所の上。まるで木々を布団代わりにした格好で、真奈美は永遠の眠りについているはずだった。
身体を這いつくばらせ、私は下を覗く。
いない。
覗く前に分かっていた。湿気のある場所で、気温の上昇が顕著な五月末だ。それなのに彼女の死体が発するだろう死臭がせず、それにたかるはずの蠅もいない。ああ、いないんだ。その程度の感想だった。
いないなら、なんで。
真奈美からすれば私は裏切り者のはずだ。信頼されていた。だからこの山奥まで連れられ、ぽつりとある小屋にいったのだ。
私を、どうするつもりだ。
スニーカーを履いて外に出ると、まだ薄闇だった。街灯がないから少しばかりの一等星が空に煌めいている。どこかで一番鳥が鳴いた。
少しばかり暗いが、好都合だ。丸山には農家も多い。そしてその大半が早起きである。遠めで分からないような薄闇はありがたい。陸上部のジャージにしたのも不審に思われないための格好だ。誰も彼もが顔見知りの小さな集落。当然私の顔だって知れ渡っている。陸上部にいたことも怪我したことも、誰だって知っている。ちょっとリハビリがてらの朝のジョギング。どこにも不審なところはない。
私はゆっくりと歩く。エンジンを暖気させるみたいなものだ。そうやって太ももにふくらはぎに、踵にまで血流が巡ったことを意識しながら、そのまま軽く走る。腱こそ切れてしまったけど、それも一応くっついてはいた。再発の可能性はあるけど、そんなことどうでもいい。
気持ちよく走る。それだけのことを、なんで一回腱を切ってしまったくらいで辞めてしまったんだろう。
地面は荒れ気味のアスファルトで、時折足元を見ないとどうしようもないくらいに凸凹している。それでも前さえ向いていれば何秒後かのつま先に穴があるかどうかくらいは分かった。
「はっ……はっ……」
呼吸が段々と早くなる。走っているときに大事なのは、一回でどれだけ吸って吐くかの呼吸よりも一定数のテンポを維持できるかどうかだ。守るべきことを守っていれば、必ず早くなる。どれだけ遅くても努力次第ではかなりのところまで行ける。それも一生続けられる娯楽。私がいままでやってきた陸上。それも中長距離の駅伝やマラソンで言える長所はこれくらいだ。
アスファルトが途切れてあぜ道に差しかかる。霜を含んでやわらかくなった地面に足を取られないように一歩一歩踏みしめる。やや東の空が明るくなっていた。もうすぐ夜明けだ。それは私のやったことを白日にさらす絶望の朝日だった。
朝日に向かって走った私は、やがてその山のふもとにある登山口にたどり着く。木々が上空で重なり合っていてそれが日光を遮る。そのせいか、湿気が増える夏場の雨の翌日には少しぬかるむ。それでも道として機能するのは山向こうに丸山よりも小規模な集落、平沢があるからだ。日常的にここを通る何人かが道を踏みしめるおかげで道と呼べるだけの通路が出来上がっている。
そういえば。
ここを通る何人かの人間、それは真奈美に気付かなかったのだろうか。私のあやふやな記憶、だからだろうか、私は突き飛ばした後の記憶がほとんどすっぽ抜けていた。突き飛ばしたとほとんど同時に山道にへたり込んでいた。だから彼女の末期の声や、死ぬ瞬間は見ていない。それを見る余裕もなかった。
私が見たのは、太い枝が真奈美の胴体を突き破り、そこに血が滴っていたところ。顔はうかがえなかった。とてもじゃないが見ることなどできなかった。
今も、それは変わらないはずだ。なにせ私が一瞥しただけで死んでいるとわかる。そうしたある種のわかりやすい場所で彼女は死んでいたはずだ。だったらなぜ、日常的にここを通る住民がそれを見つけられないのか。それが分からなかった。
「いるの?」
誰にも聞こえないその声は、私の口からぽつりと漏れた呻きだった。
いてほしい、と思う。
自己満足でもいい、贖罪の機会をくれ。
家族を巻き込んでしまうし、何もかもをぶち壊してしまうかもしれない。だけれど、死人と認識したはずの真奈美が今も動いてにこやかに笑っている。そんな地獄絵図よりはよほどましな気がした。
朝日が昇る。そのおかげで足元がはっきり認識できた。一応山道は薄暗いのだが、日光のあるなしはかなりの違いがある。
夏の前だ。落ち葉はなく、土が丸出しだった。どこだったかを思い出す。たった一週間前だが、山道は木々くらいしか目印がないせいで、どこがどこだかわかりづらい。ただそれでも、何かに導かれているような感じがある。
曲がりくねった山道、そしてその中でも木々が重なり合い、一番日光が当たらない場所。そこには見覚えがあった。そして、印象も一番強かった。
そうだ、ここだ。ここに違いない。
だれに言われたわけでもない。だけど、私には確証があった。証拠もなにもないけれど、ここに違いないっていう確信。
私は山道から少しだけ身を乗り出した。記憶が正しければ、そこの下。五メートルか一〇メートルかは分からないが、とにかくかなり下の方。折れた倒木が重なり合った場所の上。まるで木々を布団代わりにした格好で、真奈美は永遠の眠りについているはずだった。
身体を這いつくばらせ、私は下を覗く。
いない。
覗く前に分かっていた。湿気のある場所で、気温の上昇が顕著な五月末だ。それなのに彼女の死体が発するだろう死臭がせず、それにたかるはずの蠅もいない。ああ、いないんだ。その程度の感想だった。
いないなら、なんで。
真奈美からすれば私は裏切り者のはずだ。信頼されていた。だからこの山奥まで連れられ、ぽつりとある小屋にいったのだ。
私を、どうするつもりだ。
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