26 / 44
極甘彼氏を喜ばせる方法
恋する二人の今日は花丸?
しおりを挟む
採光の明るい広いフロアに、整然と並ぶデスク。そこではキーボードを叩く音や、電話に応対する声が聞こえている。
まだ記憶に新しいその場所――幸島ファイナンスのオフィスを横目に、天希は前を歩く人の背中についていく。息子に背中で語ると言わしめるだけあって、隙のない広い背中だ。
普段の着物姿も貫禄があるが、スーツ姿もなかなか迫力がある。
オフィスの一角。社長室に入ると、彼は革張りのソファにどっかりと腰かけ、早々に煙草に火をつけた。その様子だけで、かなりのチェーンスモーカーなのがわかる。
部屋の扉が閉まれば、室内には天希と志築の二人きりだ。いくらか慣れてはきたが、やはりこの男と対峙すると、緊張感が湧く。
「しばらくはうちに出入りはするな。あいつのお迎えが来るまで、お前はここで大人しく仕事をしていろ」
「別に、俺はまっすぐ家に帰ったって」
今日は講義を終えてキャンパスを出たところに、黒塗りの高級車が止まっていて、肝が冷えた。伊上の場合は迎えに来ても、大学前に車を止めたりはしない。
人の目、というものをしっかり考慮してくれていた。
志築にしてみれば、天希などにそんな気遣いする必要もないのだが。またこんなことがあると、さすがに変な噂が立ちそうだ。
「悪いがそんなところまで面倒は見きれない。このあいだのように痛い目を見たくなかったら、黙って庇護下に治まれ」
「まあ、伊上にあんまり迷惑かけたくねぇし」
「あいつにいくら迷惑をかけようが、どうしようが関係ない。お前たちは周りに迷惑をかけるな。まったく、だから別れろって言ったんだ」
一方的な言われように、文句を言い返したくなるところだが、言っていることが正論過ぎて、さすがに天希も言葉が出ない。
あの一件以来、二ノ宮は少しピリピリしたムードになっていた。
表向きは身内同士のもめ事、ではあるのだが。奥を覗けば二ノ宮と敷島、組同士のいざこざでもある。
丸く収まったように見えても、二ノ宮は泥を引っかけられたような状況だ。力の大きさ的にはあちらのほうが優位でも、こちらにもプライドというものがある、と先ほど車の中で説教された。
さらには親を引っ張り出す羽目になり、そちらに借りを作る形にもなった。二ノ宮としては天希を抱えて、大損をさせられている、というわけだ。
「伊上はこれまで一分の隙もなかったんだ。別れる気がないなら、お前がどれほど大きな風穴を開けているか、しっかり頭に入れておけ」
煙る紫煙の向こうで目を細められ、天希は背筋が伸びる。いままで付け入る場所がなかった伊上だから、自分を盾に取られた。
なにも言われなくとも、そのくらいは天希にもわかる。
あの時、桂崎が現れなかったら――伊上は膝をつかされたか、もしくは敷島に手を上げていたかのどちらかだ。
どこに転んでも最悪な結果しか想像できない。だからこそ志築まで動かされた。
「このたびは本当に、ご迷惑をおかけしました」
「お前はあそこでも相当な口を利いたそうじゃないか」
「うっ、申し訳ありません」
「口には気をつけろと言っただろう」
「はい、……反省してます」
口から先に生まれた、とはよく言うものだ。自分でも本当にその通りだと、天希はがっくりとうな垂れる。
「次にこんなことがあったら、あいつが泣いてすがっても、別れてもらうからな」
「これって俺が気をつけて、なんとかなるもんなのか?」
「危機感を持てという意味だ。それができないなら、いますぐ別れろ」
「気をつけます」
「……もういい、仕事へ行け」
ふっと興味が削がれたように視線が離れ、天希は逡巡したが黙って部屋を出た。外には強面の男が二人立っていて、入れ違いに中へと入っていく。
しばらく閉まった扉を見つめていたが、立ち止まっていても仕方がないと、天希は人が集まるオフィスのほうへ足を向けた。
「新庄くん、さっそくだけどこれお願いね」
「はい」
以前も使っていたデスクで、パソコンを立ち上げる。仕事内容は前と変わらず、データの打ち込みだ。
足元のラックにファイルが積み重なっていて、随分と仕事が溜まっている。思えば今日は大型連休明けだった。やることはかなり多そうだ。鞄から取り出した眼鏡を装着すると、天希は画面と向き合った。
「でも別れろって簡単に言うけど、別れられないよなぁ、あの様子じゃ」
二ノ宮が緊迫ムードの中、いまのところ二人のあいだで、別れるという話は上がっていない。どころか、その三文字を口にしようものなら、伊上が本気でキレ出す。
少し前に天希が、別れなくちゃいけない日も来るかも、と弱音を吐いただけで、その時は一緒に死んでくれるんだよね? ――と、真顔で言われた。
「伊上ってわりとヤンデレっぽい」
小さなため息を吐きつつ、天希は指先でテンキーを叩く。
スペックからいっても、初心者にハードルが高い人なのだが、自分しか駄目なんだなと思うと、急に距離が縮まり許せてしまうのが不思議だ。
「あー、これ、DVを受けてる人の思考かも」
なんでも許容しようとしてしまう、自分に苦笑いが浮かぶ。しかし彼は天希を傷つけることはないし、天希のためなら傷つくことも厭わない人だ。
そんな人に溺愛されているのだから、幸せというもの。
「ん? ……あ、今日もご機嫌だな」
数字と向き合ってしばらく――机の上に置いていたスマートフォンが震えて、天希はそれを表に返す。届いたメッセージは、現在も恋真っ只中の成治からだ。
最近の彼は、前にも増してキラキラしている。だがそれもそのはず。
――今日は田島さんとハンバーガーを食べてきました!
ウキウキした気持ちと、ハートマークが飛び出してきそうな文章だ。天希は画面の向こうを想像して、ふっと笑みをこぼした。
――次はパンケーキだな。
――頑張ります!
なぜあの堅物の田島が、成治とハンバーガーを食べているのか。それは志築の言っていた処分、が影響している。
元より志築付きの運転手をしていたようなのだが、あの件でお役御免となり、いまは成治の世話役を任されていた。
完全に親としての甘さが表れている処分に思える。おそらく伊上の前に飛び出すほどの、成治の気持ちに動かされたのだろう。
天希としては最悪の結果にならず、ほっとしていた。
「あまちゃん」
「……っ! びびった」
「仕事中なのに、誰に気を取られてたの?」
ふい耳元で声が聞こえて、天希は大げさなほど肩を跳ね上げた。慌てて横を向くと、少しばかり拗ねた様子の恋人がいる。突然の登場はまったく予想していなかった。
それはほかの面々も同じなのか、フロア内に少し緊張感が走った、ように思えるのは、気のせいではない。
「成治、成治だよ。ほら、田島とデートしたって」
「ふぅん、僕はあまちゃんとデートする暇もないのに」
やり取りの画面を向けると、伊上はひどくつまらなさそうな顔をした。その表情に、天希はスマートフォンを裏返して机に戻す。
彼の忙しさは相変わらずだが、その忙しさの原因の八割は天希だった。他人に執着しない伊上が、珍しく本気で囲っている恋人がいると、あちらの界隈で噂は持ちきりだったらしく。
周りが興味津々に見せろと騒ぎ立て、断る代わりに普段しない仕事を引き受けている、と志築が言っていた。
敷島の一件は、噂への興味と伊上への嫌がらせが、度を超した結果だろう、と言われている。
うるさい周りは、桂崎の言葉でほぼ収まったようなのだが、腹いせのようにいまもまだ仕事をさせられているらしい。
これは伊上を顎で使えるまたとないチャンス、なのだとも聞いた。そんな状況を知らされ、天希はあの弱音を吐いてしまったわけだ。
「まだ仕事?」
「いや、今日は終わらせてきた」
「マジで!」
「うん」
無意識に声が大きくなって、天希はとっさに自分の口を押さえるけれど、やんわりと微笑んだ伊上に頭を撫でられ、頬が緩む。
日の明るい時間に、彼が仕事を終わらせてくるのは、かなり珍しいことだ。
一体なんの仕事をしているのか、それはさっぱりわからないが、知ったところでどうなるわけでもない。
こうして迎えに来てくれるだけで、天希は十分だった。
「俺も一通り終わらせるな。もうちょっと待ってて」
「なんだか随分と忙しそうだね」
「大丈夫だって」
「アルバイトの子にこんなに振るほど、みんな忙しいのかな?」
デスクに手をついた伊上が、天希の足元を見て不機嫌そうに眉を寄せた。さらにはわざとらしく、視線をフロア内に走らせる。
その瞬間、顔色を変えた周りの社員たちが、一斉に立ち上がった。
「新庄くん! 俺、手が空いてる」
「私いま超暇だから!」
「え?」
わっとデスクに群がってきた彼らは、あっという間にラックのファイルをさらっていく。空になったそこを見て、天希があ然とした顔をすれば、伊上がデスクに残ったファイルも手に取る。
そうすると小走りに近づいてきた社員が、それも持っていってしまった。
「あまちゃん、仕事ないなら帰ろっか」
満面の笑みで職権乱用した恋人は、この上ないくらい機嫌が良さそうだ。そんな彼を見て、天希は思わず吹き出すように笑ってしまった。
やってることは大人げないのに、あまりにも得意気で腹を抱える。
「もう、あんたはずるいな」
「今日はなにを食べに行く?」
「……いや、今日はあんたの家がいい」
「またなにか作ってくれるの?」
「うん。それとこれ、使いたくて」
「なに?」
不思議そうに首を傾げた伊上に、天希は鞄と一緒に引き出しに入れていた、紙袋を差し向ける。だが中身がわからない彼は、ますます訝しそうな表情を浮かべた。
「誕生日に買ったカップ、割れちゃっただろ。あれ在庫がずっと切れてて、入荷待ちしてたんだ。昨日取りに行ってさ。ほら、いい色だろう。こっちのブルーグレーがあんたので、青いほうが俺の。刻印が一つずつ違うんだけど、これはペアなんだ」
木箱に入っていたマグカップを、二つ取り出して机に並べると、天希は満足そうに笑う。
有名な工房の一点物で、前回とまったく同じ色ではないのだが、それでも独特の風合いは渋くて格好いい。
「……」
「こういうのは、やっぱりあんまり興味ねぇ?」
プレゼントなど、いらないと言われていた。これまで高価なものを腐るほどもらって来ただろう伊上には、つまらないものだったかもしれない。
ふいに沈黙が訪れて、天希は窺うように恋人の顔を見た。
「可愛いが過ぎるって、ほんと罪だよね」
「え? なに?」
「うん、ご飯より前に、君が食べたいな」
「は? またそれ、か……っ」
極上の笑みを浮かべた恋人は、戸惑う天希の顎を掴むなり、躊躇いなく唇を塞いでくる。さらには触れた熱に天希は肩を跳ね上げても、周りがどよめいても、気に留めることがない。
抵抗しようと天希が目いっぱい肩を叩くけれど、まったく離れようとはせず、それどころかたっぷりと口の中を撫でられる。
ようやく唇が離れた時には、天希の顔は茹で上げられたようになった。
「あんた、ほんと馬鹿じゃねぇの!」
それからしばらく、大学生の恋人に懇々と説教をされる副社長の話は、噂のタネになったとかならないとか。
結局のところ二人の関係は、蓋を開ければ天希のほうが手綱を握っている、と言うのは過言ではない。
Sweet☆Sweet
~極甘彼氏を喜ばせる方法/end
まだ記憶に新しいその場所――幸島ファイナンスのオフィスを横目に、天希は前を歩く人の背中についていく。息子に背中で語ると言わしめるだけあって、隙のない広い背中だ。
普段の着物姿も貫禄があるが、スーツ姿もなかなか迫力がある。
オフィスの一角。社長室に入ると、彼は革張りのソファにどっかりと腰かけ、早々に煙草に火をつけた。その様子だけで、かなりのチェーンスモーカーなのがわかる。
部屋の扉が閉まれば、室内には天希と志築の二人きりだ。いくらか慣れてはきたが、やはりこの男と対峙すると、緊張感が湧く。
「しばらくはうちに出入りはするな。あいつのお迎えが来るまで、お前はここで大人しく仕事をしていろ」
「別に、俺はまっすぐ家に帰ったって」
今日は講義を終えてキャンパスを出たところに、黒塗りの高級車が止まっていて、肝が冷えた。伊上の場合は迎えに来ても、大学前に車を止めたりはしない。
人の目、というものをしっかり考慮してくれていた。
志築にしてみれば、天希などにそんな気遣いする必要もないのだが。またこんなことがあると、さすがに変な噂が立ちそうだ。
「悪いがそんなところまで面倒は見きれない。このあいだのように痛い目を見たくなかったら、黙って庇護下に治まれ」
「まあ、伊上にあんまり迷惑かけたくねぇし」
「あいつにいくら迷惑をかけようが、どうしようが関係ない。お前たちは周りに迷惑をかけるな。まったく、だから別れろって言ったんだ」
一方的な言われように、文句を言い返したくなるところだが、言っていることが正論過ぎて、さすがに天希も言葉が出ない。
あの一件以来、二ノ宮は少しピリピリしたムードになっていた。
表向きは身内同士のもめ事、ではあるのだが。奥を覗けば二ノ宮と敷島、組同士のいざこざでもある。
丸く収まったように見えても、二ノ宮は泥を引っかけられたような状況だ。力の大きさ的にはあちらのほうが優位でも、こちらにもプライドというものがある、と先ほど車の中で説教された。
さらには親を引っ張り出す羽目になり、そちらに借りを作る形にもなった。二ノ宮としては天希を抱えて、大損をさせられている、というわけだ。
「伊上はこれまで一分の隙もなかったんだ。別れる気がないなら、お前がどれほど大きな風穴を開けているか、しっかり頭に入れておけ」
煙る紫煙の向こうで目を細められ、天希は背筋が伸びる。いままで付け入る場所がなかった伊上だから、自分を盾に取られた。
なにも言われなくとも、そのくらいは天希にもわかる。
あの時、桂崎が現れなかったら――伊上は膝をつかされたか、もしくは敷島に手を上げていたかのどちらかだ。
どこに転んでも最悪な結果しか想像できない。だからこそ志築まで動かされた。
「このたびは本当に、ご迷惑をおかけしました」
「お前はあそこでも相当な口を利いたそうじゃないか」
「うっ、申し訳ありません」
「口には気をつけろと言っただろう」
「はい、……反省してます」
口から先に生まれた、とはよく言うものだ。自分でも本当にその通りだと、天希はがっくりとうな垂れる。
「次にこんなことがあったら、あいつが泣いてすがっても、別れてもらうからな」
「これって俺が気をつけて、なんとかなるもんなのか?」
「危機感を持てという意味だ。それができないなら、いますぐ別れろ」
「気をつけます」
「……もういい、仕事へ行け」
ふっと興味が削がれたように視線が離れ、天希は逡巡したが黙って部屋を出た。外には強面の男が二人立っていて、入れ違いに中へと入っていく。
しばらく閉まった扉を見つめていたが、立ち止まっていても仕方がないと、天希は人が集まるオフィスのほうへ足を向けた。
「新庄くん、さっそくだけどこれお願いね」
「はい」
以前も使っていたデスクで、パソコンを立ち上げる。仕事内容は前と変わらず、データの打ち込みだ。
足元のラックにファイルが積み重なっていて、随分と仕事が溜まっている。思えば今日は大型連休明けだった。やることはかなり多そうだ。鞄から取り出した眼鏡を装着すると、天希は画面と向き合った。
「でも別れろって簡単に言うけど、別れられないよなぁ、あの様子じゃ」
二ノ宮が緊迫ムードの中、いまのところ二人のあいだで、別れるという話は上がっていない。どころか、その三文字を口にしようものなら、伊上が本気でキレ出す。
少し前に天希が、別れなくちゃいけない日も来るかも、と弱音を吐いただけで、その時は一緒に死んでくれるんだよね? ――と、真顔で言われた。
「伊上ってわりとヤンデレっぽい」
小さなため息を吐きつつ、天希は指先でテンキーを叩く。
スペックからいっても、初心者にハードルが高い人なのだが、自分しか駄目なんだなと思うと、急に距離が縮まり許せてしまうのが不思議だ。
「あー、これ、DVを受けてる人の思考かも」
なんでも許容しようとしてしまう、自分に苦笑いが浮かぶ。しかし彼は天希を傷つけることはないし、天希のためなら傷つくことも厭わない人だ。
そんな人に溺愛されているのだから、幸せというもの。
「ん? ……あ、今日もご機嫌だな」
数字と向き合ってしばらく――机の上に置いていたスマートフォンが震えて、天希はそれを表に返す。届いたメッセージは、現在も恋真っ只中の成治からだ。
最近の彼は、前にも増してキラキラしている。だがそれもそのはず。
――今日は田島さんとハンバーガーを食べてきました!
ウキウキした気持ちと、ハートマークが飛び出してきそうな文章だ。天希は画面の向こうを想像して、ふっと笑みをこぼした。
――次はパンケーキだな。
――頑張ります!
なぜあの堅物の田島が、成治とハンバーガーを食べているのか。それは志築の言っていた処分、が影響している。
元より志築付きの運転手をしていたようなのだが、あの件でお役御免となり、いまは成治の世話役を任されていた。
完全に親としての甘さが表れている処分に思える。おそらく伊上の前に飛び出すほどの、成治の気持ちに動かされたのだろう。
天希としては最悪の結果にならず、ほっとしていた。
「あまちゃん」
「……っ! びびった」
「仕事中なのに、誰に気を取られてたの?」
ふい耳元で声が聞こえて、天希は大げさなほど肩を跳ね上げた。慌てて横を向くと、少しばかり拗ねた様子の恋人がいる。突然の登場はまったく予想していなかった。
それはほかの面々も同じなのか、フロア内に少し緊張感が走った、ように思えるのは、気のせいではない。
「成治、成治だよ。ほら、田島とデートしたって」
「ふぅん、僕はあまちゃんとデートする暇もないのに」
やり取りの画面を向けると、伊上はひどくつまらなさそうな顔をした。その表情に、天希はスマートフォンを裏返して机に戻す。
彼の忙しさは相変わらずだが、その忙しさの原因の八割は天希だった。他人に執着しない伊上が、珍しく本気で囲っている恋人がいると、あちらの界隈で噂は持ちきりだったらしく。
周りが興味津々に見せろと騒ぎ立て、断る代わりに普段しない仕事を引き受けている、と志築が言っていた。
敷島の一件は、噂への興味と伊上への嫌がらせが、度を超した結果だろう、と言われている。
うるさい周りは、桂崎の言葉でほぼ収まったようなのだが、腹いせのようにいまもまだ仕事をさせられているらしい。
これは伊上を顎で使えるまたとないチャンス、なのだとも聞いた。そんな状況を知らされ、天希はあの弱音を吐いてしまったわけだ。
「まだ仕事?」
「いや、今日は終わらせてきた」
「マジで!」
「うん」
無意識に声が大きくなって、天希はとっさに自分の口を押さえるけれど、やんわりと微笑んだ伊上に頭を撫でられ、頬が緩む。
日の明るい時間に、彼が仕事を終わらせてくるのは、かなり珍しいことだ。
一体なんの仕事をしているのか、それはさっぱりわからないが、知ったところでどうなるわけでもない。
こうして迎えに来てくれるだけで、天希は十分だった。
「俺も一通り終わらせるな。もうちょっと待ってて」
「なんだか随分と忙しそうだね」
「大丈夫だって」
「アルバイトの子にこんなに振るほど、みんな忙しいのかな?」
デスクに手をついた伊上が、天希の足元を見て不機嫌そうに眉を寄せた。さらにはわざとらしく、視線をフロア内に走らせる。
その瞬間、顔色を変えた周りの社員たちが、一斉に立ち上がった。
「新庄くん! 俺、手が空いてる」
「私いま超暇だから!」
「え?」
わっとデスクに群がってきた彼らは、あっという間にラックのファイルをさらっていく。空になったそこを見て、天希があ然とした顔をすれば、伊上がデスクに残ったファイルも手に取る。
そうすると小走りに近づいてきた社員が、それも持っていってしまった。
「あまちゃん、仕事ないなら帰ろっか」
満面の笑みで職権乱用した恋人は、この上ないくらい機嫌が良さそうだ。そんな彼を見て、天希は思わず吹き出すように笑ってしまった。
やってることは大人げないのに、あまりにも得意気で腹を抱える。
「もう、あんたはずるいな」
「今日はなにを食べに行く?」
「……いや、今日はあんたの家がいい」
「またなにか作ってくれるの?」
「うん。それとこれ、使いたくて」
「なに?」
不思議そうに首を傾げた伊上に、天希は鞄と一緒に引き出しに入れていた、紙袋を差し向ける。だが中身がわからない彼は、ますます訝しそうな表情を浮かべた。
「誕生日に買ったカップ、割れちゃっただろ。あれ在庫がずっと切れてて、入荷待ちしてたんだ。昨日取りに行ってさ。ほら、いい色だろう。こっちのブルーグレーがあんたので、青いほうが俺の。刻印が一つずつ違うんだけど、これはペアなんだ」
木箱に入っていたマグカップを、二つ取り出して机に並べると、天希は満足そうに笑う。
有名な工房の一点物で、前回とまったく同じ色ではないのだが、それでも独特の風合いは渋くて格好いい。
「……」
「こういうのは、やっぱりあんまり興味ねぇ?」
プレゼントなど、いらないと言われていた。これまで高価なものを腐るほどもらって来ただろう伊上には、つまらないものだったかもしれない。
ふいに沈黙が訪れて、天希は窺うように恋人の顔を見た。
「可愛いが過ぎるって、ほんと罪だよね」
「え? なに?」
「うん、ご飯より前に、君が食べたいな」
「は? またそれ、か……っ」
極上の笑みを浮かべた恋人は、戸惑う天希の顎を掴むなり、躊躇いなく唇を塞いでくる。さらには触れた熱に天希は肩を跳ね上げても、周りがどよめいても、気に留めることがない。
抵抗しようと天希が目いっぱい肩を叩くけれど、まったく離れようとはせず、それどころかたっぷりと口の中を撫でられる。
ようやく唇が離れた時には、天希の顔は茹で上げられたようになった。
「あんた、ほんと馬鹿じゃねぇの!」
それからしばらく、大学生の恋人に懇々と説教をされる副社長の話は、噂のタネになったとかならないとか。
結局のところ二人の関係は、蓋を開ければ天希のほうが手綱を握っている、と言うのは過言ではない。
Sweet☆Sweet
~極甘彼氏を喜ばせる方法/end
8
お気に入りに追加
474
あなたにおすすめの小説
完結・虐げられオメガ側妃なので敵国に売られたら激甘ボイスのイケメン溺愛王が甘やかしてくれました
美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!
生粋のオメガ嫌いがオメガになったので隠しながら詰んだ人生を歩んでいる
はかまる
BL
オメガ嫌いのアルファの両親に育てられたオメガの高校生、白雪。そんな白雪に執着する問題児で言動がチャラついている都筑にとある出来事をきっかけにオメガだとバレてしまう話。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
はじまりの恋
葉月めいこ
BL
生徒×教師/僕らの出逢いはきっと必然だった。
あの日くれた好きという言葉
それがすべてのはじまりだった
好きになるのに理由も時間もいらない
僕たちのはじまりとそれから
高校教師の西岡佐樹は
生徒の藤堂優哉に告白をされる。
突然のことに驚き戸惑う佐樹だが
藤堂の真っ直ぐな想いに
少しずつ心を動かされていく。
どうしてこんなに
彼のことが気になるのだろう。
いままでになかった想いが胸に広がる。
これは二人の出会いと日常
それからを描く純愛ストーリー
優しさばかりではない、切なく苦しい困難がたくさん待ち受けています。
二人は二人の選んだ道を信じて前に進んでいく。
※作中にて視点変更されるシーンが多々あります。
※素敵な表紙、挿絵イラストは朔羽ゆきさんに描いていただきました。
※挿絵「想い03」「邂逅10」「邂逅12」「夏日13」「夏日48」「別離01」「別離34」「始まり06」
【完結】嘘はBLの始まり
紫紺
BL
現在売り出し中の若手俳優、三條伊織。
突然のオファーは、話題のBL小説『最初で最後のボーイズラブ』の主演!しかもW主演の相手役は彼がずっと憧れていたイケメン俳優の越前享祐だった!
衝撃のBLドラマと現実が同時進行!
俳優同士、秘密のBLストーリーが始まった♡
※番外編を追加しました!(1/3)
4話追加しますのでよろしくお願いします。
次男は愛される
那野ユーリ
BL
ゴージャス美形の長男×自称平凡な次男
佐奈が小学三年の時に父親の再婚で出来た二人の兄弟。美しすぎる兄弟に挟まれながらも、佐奈は家族に愛され育つ。そんな佐奈が禁断の恋に悩む。
素敵すぎる表紙は〝fum☆様〟から頂きました♡
無断転載は厳禁です。
【タイトル横の※印は性描写が入ります。18歳未満の方の閲覧はご遠慮下さい。】
12月末にこちらの作品は非公開といたします。ご了承くださいませ。
近況ボードをご覧下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる