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別離
07
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藤堂の病室をあとにし、病院を出た僕は表通りにあるバス停へと向かっていた。利用客が多いからなのか、病院前のバス停は十分に一本はバスがやって来る。いまも丁度よくバスが通りを曲がりこちらに近づいてきているところだった。
「あれ? ないな」
バスに乗るためにパスケースを取り出そうとした僕は、斜めがけにしている鞄の中を漁った。しかしいくら探してもパスケースが見つからない。行きにも使ってきたのでないはずがないのだが、どこかで落としただろうか。
そうこうしているうちにもバスはどんどん近づいてくる。乗る間際にもたつくのも迷惑になるだろう。仕方がないので小銭を出すべく僕は財布を手にした。
「失礼、これはあなたのではないですか」
「え?」
声が聞こえて振り返ると、男の人が身をかがめてなにかを拾い上げていた。その姿で先ほどかけられた言葉の意味を悟った僕は、慌ててその人の手元に視線を落とした。
「あ、それ僕のです」
黒い革手袋に包まれた手にあるのは見間違えようもない僕のパスケースだった。いま拾い上げたということは足元に落としていたということか。周りを見回したつもりでいたのに、灯台もと暗しとはこのことだ。
「ありがとう、ござ、います」
目の前に立つ男の人は拾い上げたパスケースを僕に差し出し優しげな眼差しで微笑んだ。その姿を見た瞬間、僕は置物のように固まって動けなくなってしまった。
彼はダークグレーのスーツに黒いロングコートを着ている。とても背が高くて表情を見るためには少し見上げなければいけない。黒い艶やかな髪は少し長めで頬にかかるほどだが、清潔感がある整った印象だ。僕を見つめる眼差しは優しく穏やかそうな感じがした。多分僕よりもいくつか年上なのだろう。
いや、そんな服装や年齢などいまは正直どうでもいい。僕が驚いているのはそこではない。
「どうかしましたか?」
不思議そうな顔で僕に問いかけられた声を改めて聞いて、僕はびくりと肩を跳ね上げてしまう。目の前に立つその人は、驚くほど藤堂に似ていた。いままで会った中で藤堂に似ていると言えば、生徒会にいる柏木くらいだったが、その比ではない。目の前の人は姿も似ているが声もそっくりだ。
藤堂がもう少し大人になったら間違いなくこの人のようになるのだろうなと、安易に想像できてしまうほど容姿が似ている。
「バス、来ましたよ」
驚きに固まっている僕に怪訝な顔一つせずに、その人は僕にパスケースを手渡してくれた。
「す、すみません」
「いえ、気をつけて帰ってください」
到着したバスは乗降口を開いたまま僕を待っている。早く動かなければと思うのに、僕の動きは鈍かった。終いには「乗らないんですか」と運転手に声をかけられる始末だ。しかし頭ではわかっているのに、足も動かず目も離せない。
「すみませんが、出発していただけますか」
「え?」
もたもたとして立ち尽くしているあいだに目の前にいる彼がバスの運転手に声をかけた。そしてしばらくすると背後でバスはゆっくりと発進し走り去っていった。
「気分でも悪いのですか?」
「あ、いえ、その」
どうやら具合が悪くて動けないのだと勘違いをされたようだ。慌てて首を振ったが遠慮していると受け取られたのか、近くのベンチまでそっと背中を押されてしまった。しかしここで立ち止まった理由を言えるはずもなく、大人しくベンチに座ることにした。
それにしてもこんなにも似ている人がいるのだなと、目の前に立つ彼を見上げてしまった。そういえば間宮の奥さんが僕にそっくりだった。世の中には似ている人間が三人はいるとよく言ったものだが、あながち嘘ではないのかもしれない。
「大丈夫ですか」
「は、はい、大丈夫です」
駄目だ。見た目も驚くほどに似ているが、声のトーンや話すテンポまで似過ぎていて、声をかけられると藤堂と話しているような気分になる。大人びた見た目と耳障りのいい優しい声音――視覚と聴覚のギャップで胸が変にざわめいてしまう。藤堂ではないと、違うとわかっているのに、僕は彼の雰囲気に飲まれそうになっていた。
「もしよければこちらをどうぞ」
「あ、すみません」
自分の落ち着きのなさに戸惑っていると、近くの自販機で買ったのか、缶のホットミルクティーを差し出される。慌ててそれを受け取ったら手のひらにじんわりと温かさが広がった。
「病院の帰りですか?」
「えっと、見舞いなんですけど」
「そうでしたか」
僕を見下ろすその人は、小さく首を振った僕を見て至極優しい微笑みを浮かべる。やはり病院帰りの患者と間違われていたかもしれない。そんなに僕は具合悪そうな顔をしているだろうか。しかし正直言うと少し藤堂のことで落ち込んでいたかもしれない。この先、万一にでも別れ話をされたらと、想像して一人勝手に寂しくなっていた。
「すみません紛らわしくて」
だから思わず立ち止まってしまったのだろうか。この人の声や眼差しがあまりにも優しいから、藤堂のことを重ねて、またこんな風に笑ってくれればと思ってしまったのかもしれない。
ああ、どうしよう――胸が痛い。思っている以上に藤堂のことを不安に思っていたのか。隣に立っているはずなのに見えない藤堂の心の中。それがわからなくて不安で仕方がなかったのか。自分がこんなにも弱っていたなんて思いもしなかった。
「見舞われてる方のお加減がよくないのですか?」
思わず泣きそうになってしまったが、心配げに覗き込まれてその目をじっと見つめ返してしまう。小さく首を傾げて僕を見つめる優しい瞳。その目に少し喉が熱くなったけれど、それを飲み込んで僕はゆるりと首を横に振った。
「いえ、怪我は順調に回復しているんですけど、少し色々ありまして」
「そうですか、入院中はナイーブになりがちだったりもしますしね」
「あ、お見舞いですか?」
なんだか感慨深げに語るその様子に首を傾げたら、ほんの少し困ったように彼は笑った。そして僕の隣に腰かけると肩を落としてため息をついた。
「実は兄の子がここに入院しているのですが、会ったばかりのせいもあってか警戒されているんです」
「会ったばかり?」
「最近になって兄からの手紙を預かりまして、息子がいるから会って欲しいと言われて日本に来たんです」
「そうなんですか」
どうやら話を聞くところによると、普段は海外に住んでいて滅多に日本へは来ないのだと言う。彼は外資系の食品メーカーに勤務していて、今回は仕事の関係で日本にやってきたらしい。せっかくのいい機会だからと甥に会いに来たものの、初めて会う彼はなかなか打ち解けてくれず警戒をされているようだ。
「橘、時雨さん」
挨拶代わりに名刺をもらった。視線を落としたそこに書かれている社名は有名な会社で、僕でも名前を知っていた。聞けば二人に一人は知っていそうなお菓子を取り扱っていて、確か美味しいと評判の洋菓子店がこの会社の系列だった気がする。
海外はもちろんのこと、日本にある支社もかなり大きな会社だった。
「どうぞ時雨と呼んでください。私は苗字で呼ばれるのはあまり好きではないので」
「時雨さん、僕は佐樹です。西岡佐樹」
海外の生活が長いと言うことはファーストネームで呼び合うことのほうが多いのかもしれない。勧められるままに名前を呼んだら、時雨さんは嬉しそうに目を細めて笑った。その笑みに思わず胸を高鳴らせてしまったのは、致し方ないところだろう。だけど自分の気の多さに少し呆れてしまった。
「あれ? ないな」
バスに乗るためにパスケースを取り出そうとした僕は、斜めがけにしている鞄の中を漁った。しかしいくら探してもパスケースが見つからない。行きにも使ってきたのでないはずがないのだが、どこかで落としただろうか。
そうこうしているうちにもバスはどんどん近づいてくる。乗る間際にもたつくのも迷惑になるだろう。仕方がないので小銭を出すべく僕は財布を手にした。
「失礼、これはあなたのではないですか」
「え?」
声が聞こえて振り返ると、男の人が身をかがめてなにかを拾い上げていた。その姿で先ほどかけられた言葉の意味を悟った僕は、慌ててその人の手元に視線を落とした。
「あ、それ僕のです」
黒い革手袋に包まれた手にあるのは見間違えようもない僕のパスケースだった。いま拾い上げたということは足元に落としていたということか。周りを見回したつもりでいたのに、灯台もと暗しとはこのことだ。
「ありがとう、ござ、います」
目の前に立つ男の人は拾い上げたパスケースを僕に差し出し優しげな眼差しで微笑んだ。その姿を見た瞬間、僕は置物のように固まって動けなくなってしまった。
彼はダークグレーのスーツに黒いロングコートを着ている。とても背が高くて表情を見るためには少し見上げなければいけない。黒い艶やかな髪は少し長めで頬にかかるほどだが、清潔感がある整った印象だ。僕を見つめる眼差しは優しく穏やかそうな感じがした。多分僕よりもいくつか年上なのだろう。
いや、そんな服装や年齢などいまは正直どうでもいい。僕が驚いているのはそこではない。
「どうかしましたか?」
不思議そうな顔で僕に問いかけられた声を改めて聞いて、僕はびくりと肩を跳ね上げてしまう。目の前に立つその人は、驚くほど藤堂に似ていた。いままで会った中で藤堂に似ていると言えば、生徒会にいる柏木くらいだったが、その比ではない。目の前の人は姿も似ているが声もそっくりだ。
藤堂がもう少し大人になったら間違いなくこの人のようになるのだろうなと、安易に想像できてしまうほど容姿が似ている。
「バス、来ましたよ」
驚きに固まっている僕に怪訝な顔一つせずに、その人は僕にパスケースを手渡してくれた。
「す、すみません」
「いえ、気をつけて帰ってください」
到着したバスは乗降口を開いたまま僕を待っている。早く動かなければと思うのに、僕の動きは鈍かった。終いには「乗らないんですか」と運転手に声をかけられる始末だ。しかし頭ではわかっているのに、足も動かず目も離せない。
「すみませんが、出発していただけますか」
「え?」
もたもたとして立ち尽くしているあいだに目の前にいる彼がバスの運転手に声をかけた。そしてしばらくすると背後でバスはゆっくりと発進し走り去っていった。
「気分でも悪いのですか?」
「あ、いえ、その」
どうやら具合が悪くて動けないのだと勘違いをされたようだ。慌てて首を振ったが遠慮していると受け取られたのか、近くのベンチまでそっと背中を押されてしまった。しかしここで立ち止まった理由を言えるはずもなく、大人しくベンチに座ることにした。
それにしてもこんなにも似ている人がいるのだなと、目の前に立つ彼を見上げてしまった。そういえば間宮の奥さんが僕にそっくりだった。世の中には似ている人間が三人はいるとよく言ったものだが、あながち嘘ではないのかもしれない。
「大丈夫ですか」
「は、はい、大丈夫です」
駄目だ。見た目も驚くほどに似ているが、声のトーンや話すテンポまで似過ぎていて、声をかけられると藤堂と話しているような気分になる。大人びた見た目と耳障りのいい優しい声音――視覚と聴覚のギャップで胸が変にざわめいてしまう。藤堂ではないと、違うとわかっているのに、僕は彼の雰囲気に飲まれそうになっていた。
「もしよければこちらをどうぞ」
「あ、すみません」
自分の落ち着きのなさに戸惑っていると、近くの自販機で買ったのか、缶のホットミルクティーを差し出される。慌ててそれを受け取ったら手のひらにじんわりと温かさが広がった。
「病院の帰りですか?」
「えっと、見舞いなんですけど」
「そうでしたか」
僕を見下ろすその人は、小さく首を振った僕を見て至極優しい微笑みを浮かべる。やはり病院帰りの患者と間違われていたかもしれない。そんなに僕は具合悪そうな顔をしているだろうか。しかし正直言うと少し藤堂のことで落ち込んでいたかもしれない。この先、万一にでも別れ話をされたらと、想像して一人勝手に寂しくなっていた。
「すみません紛らわしくて」
だから思わず立ち止まってしまったのだろうか。この人の声や眼差しがあまりにも優しいから、藤堂のことを重ねて、またこんな風に笑ってくれればと思ってしまったのかもしれない。
ああ、どうしよう――胸が痛い。思っている以上に藤堂のことを不安に思っていたのか。隣に立っているはずなのに見えない藤堂の心の中。それがわからなくて不安で仕方がなかったのか。自分がこんなにも弱っていたなんて思いもしなかった。
「見舞われてる方のお加減がよくないのですか?」
思わず泣きそうになってしまったが、心配げに覗き込まれてその目をじっと見つめ返してしまう。小さく首を傾げて僕を見つめる優しい瞳。その目に少し喉が熱くなったけれど、それを飲み込んで僕はゆるりと首を横に振った。
「いえ、怪我は順調に回復しているんですけど、少し色々ありまして」
「そうですか、入院中はナイーブになりがちだったりもしますしね」
「あ、お見舞いですか?」
なんだか感慨深げに語るその様子に首を傾げたら、ほんの少し困ったように彼は笑った。そして僕の隣に腰かけると肩を落としてため息をついた。
「実は兄の子がここに入院しているのですが、会ったばかりのせいもあってか警戒されているんです」
「会ったばかり?」
「最近になって兄からの手紙を預かりまして、息子がいるから会って欲しいと言われて日本に来たんです」
「そうなんですか」
どうやら話を聞くところによると、普段は海外に住んでいて滅多に日本へは来ないのだと言う。彼は外資系の食品メーカーに勤務していて、今回は仕事の関係で日本にやってきたらしい。せっかくのいい機会だからと甥に会いに来たものの、初めて会う彼はなかなか打ち解けてくれず警戒をされているようだ。
「橘、時雨さん」
挨拶代わりに名刺をもらった。視線を落としたそこに書かれている社名は有名な会社で、僕でも名前を知っていた。聞けば二人に一人は知っていそうなお菓子を取り扱っていて、確か美味しいと評判の洋菓子店がこの会社の系列だった気がする。
海外はもちろんのこと、日本にある支社もかなり大きな会社だった。
「どうぞ時雨と呼んでください。私は苗字で呼ばれるのはあまり好きではないので」
「時雨さん、僕は佐樹です。西岡佐樹」
海外の生活が長いと言うことはファーストネームで呼び合うことのほうが多いのかもしれない。勧められるままに名前を呼んだら、時雨さんは嬉しそうに目を細めて笑った。その笑みに思わず胸を高鳴らせてしまったのは、致し方ないところだろう。だけど自分の気の多さに少し呆れてしまった。
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