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別離
03
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どのくらい眠っていただろう。重たいまぶたを持ち上げると、目の前には白い天井が見えた。明るい室内の様子から推測するといまは朝か昼頃だろうか。静かな室内には心拍計の規則的な音が聞こえる。あれから一晩経ったのか、そう思って彼のことを思い出した。
「痛っ」
身体を無意識に起こそうとして腹部に痛みが走った。思った以上に不自由な状況になったなと、重い痛みに身体の力を抜く。あの状況ではナイフを払い落とすのも間に合わなかった。それに下手に手を伸ばしてヤケを起こしていた男が暴れだしても厄介だった。しかしこれしか思い浮かばなかったとはいえ、あとのことを考えれば彼に心配をかけるだけだったかもしれない。ずっと俺の手を握っていた彼の手は震えていた。
いったいどれが正解だったのか、もはやそれさえもわからないが、あの人があれ以上傷つかない方法であれば正直どれでもよかった。そういえば彼も怪我をしていたがあれからどうなったのだろう。あの傷、痕が残るんじゃないだろうか。
頭に浮かぶのは彼のことばかりだ。いますぐにでも確かめたい。この目で見て、手で触れて確かめたい。
「佐樹さん」
しばらくぼんやりと記憶を反芻していたが、このままじっとしているのも落ち着かない。もし治療を受けたのがこの病院なら、なにか知っている人もいるかもしれない。そう思ってナースコールのボタンに腕を伸ばしたところで部屋の戸をノックする音が聞こえた。
「あら、藤堂優哉くん。目が覚めたのね。気分が悪いとかないかしら」
引き戸を開けて入ってきたのは病院の看護師だった。俺が起きていることに気がつくと、笑みを浮かべてこちらへやって来る。そして俺がもの言いたげな視線を向けると、少しだけベッドの高さを変えてくれた。
「あの、すみません。昨日の晩に腕を怪我した人はこの病院にきましたか」
「腕を怪我した人? んー、どうかしら」
こちらの問いかけに彼女は一瞬首を傾げた。その反応を見たところ、もしかしたら日勤交代などで夜のことは知らないのかもしれない。それならばほかに知っている人を探すよりも、連絡を取って本人に聞いたほうが早そうだ。しかしそう思っていたら、なにかを思い出したように彼女はベッド脇にあるサイドボードに手を伸ばした。
「……あ、関係あるかわからないけど、昨日の術後にあなたを見舞っていた人がこれをね、置いていったらしいわよ。はい、これ」
差し出されたのは折りたたまれた紙だ。手帳かなにかを切り離したものだろう。四つ折りになったそれを開くと短い文章が綴られていた。その文面を読むと先ほどからずっと落ち着かなかった気持ちが、少しだけ収まった気がした。
紙には佐樹さんは腕の治療を受けて無事であること、近いうちに見舞いにくることが書かれている。確か彼は利き腕を怪我していたので、これは誰かが代筆して書いたものだろう。とりあえずの無事が確認できた。あとは声でも聞けばもっと安心できるかもしれない。
「どのくらいで退院できますか」
「あとで先生から詳しい話を聞くと思うけど、少なくともひと月は様子見ることになると思うわよ」
「ひと月、ですか」
容態次第では早く退院できるだろうか。いつまでもこんなところで寝ているわけにはいかないだろう。怪我人が二人も出たのだからこれは事件として扱われる。それに警察が部屋にあった写真を見ていれば、あいつの事件と佐樹さんの事件の関連性も疑われるに違いない。このままでは佐樹さんの身の回りになにか影響が出る可能性もある。俺との関係が明るみに出れば警察にも学校にも追求される。彼から周りの意識を引き剥がせる方法はあるだろうか。
「あの、電話をかけたいんですが構いませんか」
「ちょっとだけよ? まだ絶対安静なんですからね。はい、これ充電あるかしらね」
サイドボードの上にあった携帯電話を俺に渡すと、看護師は検温などを済ませ部屋を出ていった。目が覚めたことを医師に伝えに戻るのだろう。じきに医師が経過を見るためにやって来る。その前に電話を済ませようと携帯電話を開こうとしたら、ノックもなく部屋の扉が開いた。突然の来訪に驚いて顔を上げると、恰幅のいい五、六十代くらいの男が入り口に立っていた。覚えのない男だ。
コートやスーツは仕立てがよくオーダーメイドの品を身につけている。貴金属や時計、帽子も質のいいものだろうというのが見て取れた。身なりにいと目をつけないおそらく随分な資産家なのだろう。上流階級特有なのだろうか、こちらを見る視線は他人を優劣つけて見下ろす視線だと思った。そこまで観察してなんとなくその男が誰なのか気がついた。電話で一度しか話したことはないが、父方の兄である川端だろう。
「目が覚めたようだね。具合はどうかな」
一見すると甥の見舞いに来た親切な伯父なのだろうが、俺は言葉を交わす気にはなれなかった。俺の予想に間違いがなければ、今回の、いやいままでの佐樹さんに対する仕打ちはこの男の手によるものだ。不定期に送られてきていた写真、他人を使っての事故工作。あの女が望んでいたことなのかもしれないが、それを行うだけの行動力も精神力もなかったはずだ。それなのに助長し手を加えていた。
この男がいなければこんなことにはならなかった。そしてあいつも馬鹿な真似などできはしなかっただろう。
「いま先生に話を聞いてきたよ。順調に回復すればあと一ヶ月で退院できそうだということじゃないか。安心したよ」
部屋に入ってきた川端の後ろには背の高い男が控えていた。この男は見覚えがある。確かあいつについた後任の弁護士だ。
「彩香さんも入院したよ」
「精神鑑定にかけて情状酌量か」
精神異常で罪には問わないというシナリオか。馬鹿馬鹿しい、ここまでしてなにが欲しいと言うのだ。頭のイカれた女を一人手に入れるのにこんな手の込んだ真似をして、よほどそいつの頭のほうがどうにかしている。
警察はこの男の存在には気がつかないのだろうか。
「ようやく彩香さんも離婚に頷いてくれたよ」
「あんたは最低の人間だ。自分の物欲のために他人を傷つけることも厭わない」
「隆道は君に対する親権は放棄するそうだ。君を引き取る気はないらしい。彩香さんはしばらくは入院生活だろう。そんな君がこれからどこへ行くのか、頭のいい君ならわかるだろう?」
川端の言葉に胃が引き絞られるような思いがした。こんなにも人が憎らしいと思ったのは初めてかもしれない。淡々と言葉を吐き出す川端に視線を向ければ、どこか薄笑いを浮かべるようなそんな顔で俺を見ていた。
普通に考えて精神衰弱状態のあいつに俺を育てる力はなく、親権が渡ることはないだろう。けれど父親が俺を引き受けることを拒否している以上、離婚が成立しない。しかし父親は早い離婚を望んでいるのだろう。そしてこの状況下で俺の行く先と言えば、目の前に一つしかない。
だが、それに頷くことはいまの俺にはできそうにない。この男は佐樹さんを陥れ傷つけた人間だ。そして他人を人とは思わない腹の黒い男だ。
「帰ってください」
「結果は一つしかないと思うといい。君が選ぶ権利はないのだよ」
「帰ってください!」
声を上げた俺にやれやれとでも言いたげに肩をすくめた川端はこちらに背を向けた。
「入院の保証人には私がなった。これから彩香さんの代わりは私が務めるからそのつもりでいるといい。早くよくなってくれよ」
どこまで人を追い詰めれば気が済むのだろうか。自分の無力さ加減に腹が立って仕方がない。なぜ自分はまだ子供なのだろう。悔しいという感情が胸の中を支配する。しかしいまここで毒づいていても仕方がない。なにか別な方法はないか考えてみよう。
閉じられた扉を見つめながら手の中にある携帯電話を強く握りしめた。
「痛っ」
身体を無意識に起こそうとして腹部に痛みが走った。思った以上に不自由な状況になったなと、重い痛みに身体の力を抜く。あの状況ではナイフを払い落とすのも間に合わなかった。それに下手に手を伸ばしてヤケを起こしていた男が暴れだしても厄介だった。しかしこれしか思い浮かばなかったとはいえ、あとのことを考えれば彼に心配をかけるだけだったかもしれない。ずっと俺の手を握っていた彼の手は震えていた。
いったいどれが正解だったのか、もはやそれさえもわからないが、あの人があれ以上傷つかない方法であれば正直どれでもよかった。そういえば彼も怪我をしていたがあれからどうなったのだろう。あの傷、痕が残るんじゃないだろうか。
頭に浮かぶのは彼のことばかりだ。いますぐにでも確かめたい。この目で見て、手で触れて確かめたい。
「佐樹さん」
しばらくぼんやりと記憶を反芻していたが、このままじっとしているのも落ち着かない。もし治療を受けたのがこの病院なら、なにか知っている人もいるかもしれない。そう思ってナースコールのボタンに腕を伸ばしたところで部屋の戸をノックする音が聞こえた。
「あら、藤堂優哉くん。目が覚めたのね。気分が悪いとかないかしら」
引き戸を開けて入ってきたのは病院の看護師だった。俺が起きていることに気がつくと、笑みを浮かべてこちらへやって来る。そして俺がもの言いたげな視線を向けると、少しだけベッドの高さを変えてくれた。
「あの、すみません。昨日の晩に腕を怪我した人はこの病院にきましたか」
「腕を怪我した人? んー、どうかしら」
こちらの問いかけに彼女は一瞬首を傾げた。その反応を見たところ、もしかしたら日勤交代などで夜のことは知らないのかもしれない。それならばほかに知っている人を探すよりも、連絡を取って本人に聞いたほうが早そうだ。しかしそう思っていたら、なにかを思い出したように彼女はベッド脇にあるサイドボードに手を伸ばした。
「……あ、関係あるかわからないけど、昨日の術後にあなたを見舞っていた人がこれをね、置いていったらしいわよ。はい、これ」
差し出されたのは折りたたまれた紙だ。手帳かなにかを切り離したものだろう。四つ折りになったそれを開くと短い文章が綴られていた。その文面を読むと先ほどからずっと落ち着かなかった気持ちが、少しだけ収まった気がした。
紙には佐樹さんは腕の治療を受けて無事であること、近いうちに見舞いにくることが書かれている。確か彼は利き腕を怪我していたので、これは誰かが代筆して書いたものだろう。とりあえずの無事が確認できた。あとは声でも聞けばもっと安心できるかもしれない。
「どのくらいで退院できますか」
「あとで先生から詳しい話を聞くと思うけど、少なくともひと月は様子見ることになると思うわよ」
「ひと月、ですか」
容態次第では早く退院できるだろうか。いつまでもこんなところで寝ているわけにはいかないだろう。怪我人が二人も出たのだからこれは事件として扱われる。それに警察が部屋にあった写真を見ていれば、あいつの事件と佐樹さんの事件の関連性も疑われるに違いない。このままでは佐樹さんの身の回りになにか影響が出る可能性もある。俺との関係が明るみに出れば警察にも学校にも追求される。彼から周りの意識を引き剥がせる方法はあるだろうか。
「あの、電話をかけたいんですが構いませんか」
「ちょっとだけよ? まだ絶対安静なんですからね。はい、これ充電あるかしらね」
サイドボードの上にあった携帯電話を俺に渡すと、看護師は検温などを済ませ部屋を出ていった。目が覚めたことを医師に伝えに戻るのだろう。じきに医師が経過を見るためにやって来る。その前に電話を済ませようと携帯電話を開こうとしたら、ノックもなく部屋の扉が開いた。突然の来訪に驚いて顔を上げると、恰幅のいい五、六十代くらいの男が入り口に立っていた。覚えのない男だ。
コートやスーツは仕立てがよくオーダーメイドの品を身につけている。貴金属や時計、帽子も質のいいものだろうというのが見て取れた。身なりにいと目をつけないおそらく随分な資産家なのだろう。上流階級特有なのだろうか、こちらを見る視線は他人を優劣つけて見下ろす視線だと思った。そこまで観察してなんとなくその男が誰なのか気がついた。電話で一度しか話したことはないが、父方の兄である川端だろう。
「目が覚めたようだね。具合はどうかな」
一見すると甥の見舞いに来た親切な伯父なのだろうが、俺は言葉を交わす気にはなれなかった。俺の予想に間違いがなければ、今回の、いやいままでの佐樹さんに対する仕打ちはこの男の手によるものだ。不定期に送られてきていた写真、他人を使っての事故工作。あの女が望んでいたことなのかもしれないが、それを行うだけの行動力も精神力もなかったはずだ。それなのに助長し手を加えていた。
この男がいなければこんなことにはならなかった。そしてあいつも馬鹿な真似などできはしなかっただろう。
「いま先生に話を聞いてきたよ。順調に回復すればあと一ヶ月で退院できそうだということじゃないか。安心したよ」
部屋に入ってきた川端の後ろには背の高い男が控えていた。この男は見覚えがある。確かあいつについた後任の弁護士だ。
「彩香さんも入院したよ」
「精神鑑定にかけて情状酌量か」
精神異常で罪には問わないというシナリオか。馬鹿馬鹿しい、ここまでしてなにが欲しいと言うのだ。頭のイカれた女を一人手に入れるのにこんな手の込んだ真似をして、よほどそいつの頭のほうがどうにかしている。
警察はこの男の存在には気がつかないのだろうか。
「ようやく彩香さんも離婚に頷いてくれたよ」
「あんたは最低の人間だ。自分の物欲のために他人を傷つけることも厭わない」
「隆道は君に対する親権は放棄するそうだ。君を引き取る気はないらしい。彩香さんはしばらくは入院生活だろう。そんな君がこれからどこへ行くのか、頭のいい君ならわかるだろう?」
川端の言葉に胃が引き絞られるような思いがした。こんなにも人が憎らしいと思ったのは初めてかもしれない。淡々と言葉を吐き出す川端に視線を向ければ、どこか薄笑いを浮かべるようなそんな顔で俺を見ていた。
普通に考えて精神衰弱状態のあいつに俺を育てる力はなく、親権が渡ることはないだろう。けれど父親が俺を引き受けることを拒否している以上、離婚が成立しない。しかし父親は早い離婚を望んでいるのだろう。そしてこの状況下で俺の行く先と言えば、目の前に一つしかない。
だが、それに頷くことはいまの俺にはできそうにない。この男は佐樹さんを陥れ傷つけた人間だ。そして他人を人とは思わない腹の黒い男だ。
「帰ってください」
「結果は一つしかないと思うといい。君が選ぶ権利はないのだよ」
「帰ってください!」
声を上げた俺にやれやれとでも言いたげに肩をすくめた川端はこちらに背を向けた。
「入院の保証人には私がなった。これから彩香さんの代わりは私が務めるからそのつもりでいるといい。早くよくなってくれよ」
どこまで人を追い詰めれば気が済むのだろうか。自分の無力さ加減に腹が立って仕方がない。なぜ自分はまだ子供なのだろう。悔しいという感情が胸の中を支配する。しかしいまここで毒づいていても仕方がない。なにか別な方法はないか考えてみよう。
閉じられた扉を見つめながら手の中にある携帯電話を強く握りしめた。
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