はじまりの恋

葉月めいこ

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夏日

04

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 自分の名前を言い当てられたのが予想外だったのか、月島は驚いた表情を浮かべたままあずみを見つめる。少しだけ警戒の色を見せたその反応に、あずみは慌てたように声を上げた。

「西岡先生からお話は聞いてます! えっと、私、写真部の部長してる片平あずみって言います。で、こっちも部員の三島弥彦」

「あ、そうなんだ。ふぅん、そっか。佐樹ちゃんが俺のこと話してるってことは、君たちも佐樹ちゃんと
親しいんだね」

「秘密厳守してますっ」

 至極嬉しそうに笑みを浮かべながら、あずみは人差し指を唇に当てて片目をつむった。そんなあずみの姿に月島はふっと微笑むと、上着の内側に手を差し込んだ。

「佐樹ちゃんのお墨付きなら、いいか。月島渉です。よろしくね」

 胸元から取り出したカードケースから名刺を抜くと、月島はそれをあずみと弥彦に手渡した。

「ありがとうございます」

「あ、じゃあ私も」

 頭を下げた弥彦の隣であずみは慌ただしく鞄を開くと、ラインストーンで煌く名刺入れを取り出した。そして自分の電話番号やメールアドレスが印刷された名刺を月島に差し出す。さすがにこの展開は想像していなかったのだろう。月島は目を丸くしてその名刺を見つめている。

「あ、ご迷惑でしたか?」

「いや、ううん。ありがとう。でもよく知らない男にこんな名刺渡していいの?」

 様子を窺うように見つめるあずみの視線に、月島は声を上げて笑い差し出された名刺を受け取った。

「大丈夫です。月島さんは西岡先生のお友達だって聞いてるし、西岡先生は私の信用できる大人の三本の指に入ってますっ」

「あはは、そうなんだ。さすが佐樹ちゃんだね」

 得意げに指を三本突き出したあずみに肩を震わせ笑う月島の姿を、俺だけが冷えた視線で見つめていた。そしてそんな俺の視線に気づいた月島がこちらを見て、ゆるりと口の端を持ち上げる。

「一人だけ寝耳に水って感じだね」

「え?」

 からかいを含んだ月島の言葉に、あずみと弥彦が驚きをあらわにして俺を振り返った。

「これから三人でデート? 少し時間、あるかな?」

「……」

 首を傾げてまっすぐに俺を見つめる月島の視線に、あずみと弥彦はなにかを察したように顔を見合わせる。そして四人のあいだに奇妙な沈黙が広がった。けれどその沈黙は長く続かなかった。道の先から低いエンジン音を響かせバスが近づいてくる。

「優哉?」

 そっと手を握り、あずみは心配げな目で見上げてくる。けれどその視線には振り向かず、俺は握られた手を解くように黙ったまま足を踏み出した。そしてそれと同時か、バス停にバスが停車する。開いた乗降口を通り過ぎて立ち止まった自分の背中に視線を感じたが、それでも俺は振り向かなかった。

「あっちゃん、行こう」

 弥彦に促されあずみはバスに乗り込んでいく。しばらくするとドアが閉まるブザーが鳴り響き、バスは横を通り過ぎていった。

「邪魔しちゃったかな?」

「……」

 また歩き始めた俺の背中を追い、走り寄ってきた月島は前を向く俺の顔を覗き込む。けれど返事をしない俺に諦めたのか、口を閉ざし前を向いた。

「夏休み、一日だけ写真部の校外部活動に付き合う約束したんだよね。今日はスケジュール確認、を言い訳に佐樹ちゃんに会いに来たわけ」

 しばらく沈黙のまま並び歩いていたが、まったく口を開かない俺を見かねたのか、ぽつりぽつりと月島が話し出す。ちらりとこちらへ視線を向けて俺の反応を窺っているようだが、いまの俺にはそんな視線すら受け止める余裕がなかった。

「あのさぁ、怒ってるのー? 俺に? 佐樹ちゃんに? ねぇ、そろそろ返事しなよ。なにをそんなに警戒してるわけ?」

 ふいに目の前に立った月島は、呆れたようにため息を吐きながら俺にまっすぐと視線を向けてくる。けれど目の前に立ちはだかった月島に歩みを止められた俺は、その視線から目をそらした。

「警戒される意味がわかんないんだけど。俺はさぁ、きっぱりはっきり振られた身なんだよねぇ。悔しいけど勝者は君。もっとさ、どっしり構えてていいんじゃないの? それともまた俺が現れて怖いの? ねぇ、それって馬鹿馬鹿しくない?」

 余裕さえ感じさせるような態度で指先を俺へと向ける月島の姿に、俺はなにも言えずに拳を握りしめた。言われた言葉は最もだ。あの人は間違いなくいまは俺のものなのだから、誰が現れようとも怯える必要などない。けれど不安は押し寄せてくる。

「佐樹ちゃんのこと、信じてないの?」

 信じている。いまは俺だけだと言ってくれたその言葉も気持ちも疑いはしない。それでも――どうしても心の中にこびりついた不安が消えていかない。

「見た目は大人と変わらないけど、やっぱりまだまだ君も子供だね」

 言い淀んでいる俺に肩をすくめて、月島は煙草を取り出し咥えるとそれに火を灯した。ゆっくりと吐き出された紫煙が目の前でゆらりと揺れる。その先に苦笑する歪んだ唇が見えた。

「そんなに佐樹ちゃんに好意を寄せて近づく人間が怖い? でもさ、大人の世界って広いんだよ。君の知らない佐樹ちゃんはいて当たり前。いつどこで誰と会ったか、そんなことまで気にして付き合っていくの? それって重くない?」

「……そんなことは、言われなくても、わかってるっ」

 突きつけられる言葉はどれも胸に深く突き刺さる。吐き出した言葉は掠れて、握りしめ過ぎた拳は震えて白くなった。
 信じているのに、信じているはずなのに、心の片隅で俺は彼を信じきれていないんだろうか。いや、やはり自分に自信が持てないからかもしれない。彼を確かに繋ぎ留めるだけの強さがない自分に不安になるのだ。

「君がそんなだから、佐樹ちゃんは簡単なことさえ伝えられないでいるんだよ。腹は立つけど、俺と彼はなにもないただの付き合いが長い友人。その友人に頼まれごとをしたから聞いてあげただけ。ほかになにがあるっていうのさ」

「でも、あんたはまだ佐樹さんに未練がある」

 ぽつりと呟いた俺の言葉に、まっすぐと向けられていた目が一瞬だけ揺れて伏せられた。けれど煙草を吸い、長く息が吐き出されると再び力強い瞳が俺の目を見据える。

「未練? あるに決まってるでしょ。何年一緒にいたと思ってるのさ。女ならまだ我慢ができた。けどいきなり横から現れた男に持って行かれそうになって、引き止めたくて、焦って告白するくらい好きだったよ」

「そんなに好きだったなら、なんで友達でいることを選んだんだ」

「はっ……君さ、ほんとにムカつくね。君に聞かれると余計腹が立つよ」

 苛立たしげに髪をかき上げると、月島は舌打ちをして俺の制服のネクタイを鷲掴み強く引いた。

「俺じゃ無理だったからだよ。どんなに好きでも、彼の気持ちは傾かない、それがわかっていたから、俺は少しでも長く一緒に居られるポジションを選んだ。それが理由だよ。なんか文句ある?」

「……」

「ないでしょ? あるわけない。君は自分でもわかってる。君は佐樹ちゃんのこれ以上ないくらいの特別だ。それなのに、なんでそんなに君のほうが不安そうな顔するんだよっ」

 握りしめられていたネクタイがはらりと手の内から落ちると、肩口を強く拳で叩かれた。俯いた月島の表情は窺い知れないが、肩口に置かれた拳が小さく震えていた。

「ほんとにムカつく」

 そう呟いて大きく肩で息をすると、月島は顔を上げて俺を睨みつけてきた。けれどその視線に返す言葉が見つからなかった。そんな怒気を孕んだ目を黙ったまま見つめ返せば、月島は俺の肩を突き放しふいと顔をそらしてこちらに背を向ける。そしてゆっくりと前へ数歩進み、短くなった煙草を口にして紫煙を吐き出すと、立ち止まって指から落とされた煙草を足で捻り消した。

「君でしょ」

 しばらく俯いていた月島が顔を上げて離れた俺に声を投げかける。けれどその意味がわからず、俺は返事もできずに首を傾げた。すると月島は左手を持ち上げて薬指を指差した。

「俺は長いこと傍で見てきた。だから断言できる。佐樹ちゃんが装飾品の類を身につけたのは結婚指輪と、君が贈った指輪だけだよ」

「え?」

「その意味、よく考えてみれば?」

 そう言って上げたままの左手をひらひらと振ると、月島は再び歩を進めた。俺はその遠ざかる後ろ姿を見つめたまま、しばらく身動きもせず立ち尽くしていた。
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