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予感
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生徒たちから逃れ廊下へ出ると、階段の傍で背後から声をかけられた。聞き覚えのあるその声に振り返れば、三年の学年主任である新崎先生がにこにこと笑みを浮かべ立っていた。
「西岡先生お疲れ様」
「お疲れ様です」
自然と横に並んだ新崎先生に僕が会釈を返すと、お互いのんびりと階下へと歩を進める。いつも絶えない柔和な笑みと温和な眼差しそのままの、穏やかな性格の新崎先生。彼は自分の親に近い歳のせいか一緒にいるといい意味で気が抜ける。
思い返せばここへ赴任してから、ずっとお世話になりっぱなしの先生だ。
「最近調子はどうですか」
「悪くはないです」
「そう、それはよかった」
僕の短い返答に小さく何度も頷きながら、新崎先生はさらに目元のしわを増やし笑みを深くした。でもそれは自分と先生にとっては相変わらずのやり取りだった。僕がここに来たばかりの時も、結婚した時も、彼女を亡くした時も――変わらぬ調子でそう聞いてくれた。
新崎先生は昔から変わらず温かい人で、本当にしみじみするくらいのいい先生だ。昔といま、変わったところがあるとすれば少し増えた白髪くらいか。
「西岡先生が元気だと、生徒たちも元気ですね」
「え? そうですか?」
思い出し笑いのように肩を震わせた新崎先生に首を傾げれば、再び何度も頷きますます楽しげな表情で僕を見つめた。
「三年生は教科担当から西岡先生が外れたのを随分、残念がっていましたよ。二年生は授業がわかりやすくて楽しいと、一年生は先生が一番親しみやすいと言っているそうです」
「あ、ありがとうございます」
思いがけない賛辞の言葉にうろたえる僕よりも、新崎先生のほうが自分のことのように至極嬉しそうな顔をする。言われた僕はなんともむず痒く、照れくさい気持ちで胸がいっぱいになった。
「それに、うちのツートップ」
「ツートップ?」
「峰岸と藤堂がよく懐いてるようで」
「そ、そうでしょうか」
新崎先生の口から出てきた名前に少し心臓の辺りがひやりとした。けれど動揺した僕を知ってか知らずか、どもる僕に新崎先生は優しげな視線をくれる。
「峰岸は生徒会に入ってから少し性格が円くなりましたが、最近はさらに角がなくなりましたよ。藤堂もいままではあまり人に意見を求めるタイプではなかったけれど、近頃は進路の相談をちゃんと持ちかけてくれるようになりました」
「……」
しみじみと語る新崎先生はいま藤堂のクラス担任で、一年の頃は藤堂と峰岸の担任だった。ふと思い返せば数ヶ月前の二人を僕はよく知らない。いまでこそなんの違和感もなく話をし笑いあう藤堂も峰岸も、僕はほんの少し前までよく知らなかった。
「来年辺り、またクラス持ってみませんか?」
「え? あ……考えて、おきます」
「はい、そうしてください」
久しぶりに聞いたその言葉にほんの少しはっとした。学校に慣れ始めた頃にそう言ってくれたのも、そういえば新崎先生だ。でもここ数年その言葉をほかの先生から言われることがあっても、新崎先生から聞くことはなかった。それがいまこうしてまたその言葉をくれるということは、多分きっと僕は新崎先生から見てもわかるくらい、藤堂や峰岸のように変わったのだろう。
「じゃあ、また」
ふいに足を止めた新崎先生は、立ち尽くしていた僕を振り返り片手をあげた。横に小さく振られるその手のひらを見つめ、我に返った僕はそこが中二階――準備室へと続く廊下の手前であることにやっと気がついた。
「ありがとうございました」
思考が戻った途端、思わず口からついて出た言葉と共に、僕はなぜか反射的に深々と頭を下げた。そんな僕の行動に新崎先生は小さく笑い、こちらに背を向け歩き出した。
「ああ、それと」
「……」
しばらく下げたままだった頭を声に弾かれるよう持ち上げれば、新崎先生は一階に降り立ち僕を振り仰いでいた。その姿にわけもわからず首を傾げていると、ゆるりと口の端を持ち上げて新崎先生が笑った。
「先日の連休に実家へ帰った飯田先生が、お土産のお菓子持ってきていました。たまにはお茶しにいらっしゃい。みんな、寂しがっていますよ。もちろん、私もね」
黙って立ち尽くす僕に再び手を振って、新崎先生は職員室へと向かって歩き出した。その後ろ姿が見えなくなると、僕は無意識のまま早足に準備室へ向かった。そして駆け込むように準備室に入り後ろ手でその戸を閉めれば、抑える間もなく僕の目から涙が溢れ出した。堪え切れない嗚咽に喉が痛くなる。
「全然、気づいてなかった」
周りの優しさにひどく胸が痛くなった。あの事故以来、人の存在や感情がわずらわしくて、職員室へ向く足が徐々に少なくなり先生たちとの会話も減った。殻に閉じこもるようにいつの間にかこの場所が自分の居場所になっていた。そしてそれを黙って見つめ、時折気遣い声を投げてくれていた周りの気持ちを考えることをしてこなかった。
「そういや、おめでとう言ってない」
唯一の同期である飯田が今年の初めに結婚したと、なんとなく耳にしていた。でもきっと本人もほかの先生たちも、一線を引く僕にそれを直接伝えることができなかったのだろう。綺麗な少し年上の彼女が自慢だと言っていた飯田は、きっと以前なら真っ先に僕へ報告していたに違いない。でもそんな些細なことさえも躊躇わせてしまう、空気を僕が作ってきたんだ。
「なにやってんだ僕は」
いままでまったく見えていなかったものが、聞こえていなかった声が、最近よく聞こえるようになった気がする。知らず知らずのうちに背を向けていたものに向き直り始めている自分に気づいた。
「西岡先生お疲れ様」
「お疲れ様です」
自然と横に並んだ新崎先生に僕が会釈を返すと、お互いのんびりと階下へと歩を進める。いつも絶えない柔和な笑みと温和な眼差しそのままの、穏やかな性格の新崎先生。彼は自分の親に近い歳のせいか一緒にいるといい意味で気が抜ける。
思い返せばここへ赴任してから、ずっとお世話になりっぱなしの先生だ。
「最近調子はどうですか」
「悪くはないです」
「そう、それはよかった」
僕の短い返答に小さく何度も頷きながら、新崎先生はさらに目元のしわを増やし笑みを深くした。でもそれは自分と先生にとっては相変わらずのやり取りだった。僕がここに来たばかりの時も、結婚した時も、彼女を亡くした時も――変わらぬ調子でそう聞いてくれた。
新崎先生は昔から変わらず温かい人で、本当にしみじみするくらいのいい先生だ。昔といま、変わったところがあるとすれば少し増えた白髪くらいか。
「西岡先生が元気だと、生徒たちも元気ですね」
「え? そうですか?」
思い出し笑いのように肩を震わせた新崎先生に首を傾げれば、再び何度も頷きますます楽しげな表情で僕を見つめた。
「三年生は教科担当から西岡先生が外れたのを随分、残念がっていましたよ。二年生は授業がわかりやすくて楽しいと、一年生は先生が一番親しみやすいと言っているそうです」
「あ、ありがとうございます」
思いがけない賛辞の言葉にうろたえる僕よりも、新崎先生のほうが自分のことのように至極嬉しそうな顔をする。言われた僕はなんともむず痒く、照れくさい気持ちで胸がいっぱいになった。
「それに、うちのツートップ」
「ツートップ?」
「峰岸と藤堂がよく懐いてるようで」
「そ、そうでしょうか」
新崎先生の口から出てきた名前に少し心臓の辺りがひやりとした。けれど動揺した僕を知ってか知らずか、どもる僕に新崎先生は優しげな視線をくれる。
「峰岸は生徒会に入ってから少し性格が円くなりましたが、最近はさらに角がなくなりましたよ。藤堂もいままではあまり人に意見を求めるタイプではなかったけれど、近頃は進路の相談をちゃんと持ちかけてくれるようになりました」
「……」
しみじみと語る新崎先生はいま藤堂のクラス担任で、一年の頃は藤堂と峰岸の担任だった。ふと思い返せば数ヶ月前の二人を僕はよく知らない。いまでこそなんの違和感もなく話をし笑いあう藤堂も峰岸も、僕はほんの少し前までよく知らなかった。
「来年辺り、またクラス持ってみませんか?」
「え? あ……考えて、おきます」
「はい、そうしてください」
久しぶりに聞いたその言葉にほんの少しはっとした。学校に慣れ始めた頃にそう言ってくれたのも、そういえば新崎先生だ。でもここ数年その言葉をほかの先生から言われることがあっても、新崎先生から聞くことはなかった。それがいまこうしてまたその言葉をくれるということは、多分きっと僕は新崎先生から見てもわかるくらい、藤堂や峰岸のように変わったのだろう。
「じゃあ、また」
ふいに足を止めた新崎先生は、立ち尽くしていた僕を振り返り片手をあげた。横に小さく振られるその手のひらを見つめ、我に返った僕はそこが中二階――準備室へと続く廊下の手前であることにやっと気がついた。
「ありがとうございました」
思考が戻った途端、思わず口からついて出た言葉と共に、僕はなぜか反射的に深々と頭を下げた。そんな僕の行動に新崎先生は小さく笑い、こちらに背を向け歩き出した。
「ああ、それと」
「……」
しばらく下げたままだった頭を声に弾かれるよう持ち上げれば、新崎先生は一階に降り立ち僕を振り仰いでいた。その姿にわけもわからず首を傾げていると、ゆるりと口の端を持ち上げて新崎先生が笑った。
「先日の連休に実家へ帰った飯田先生が、お土産のお菓子持ってきていました。たまにはお茶しにいらっしゃい。みんな、寂しがっていますよ。もちろん、私もね」
黙って立ち尽くす僕に再び手を振って、新崎先生は職員室へと向かって歩き出した。その後ろ姿が見えなくなると、僕は無意識のまま早足に準備室へ向かった。そして駆け込むように準備室に入り後ろ手でその戸を閉めれば、抑える間もなく僕の目から涙が溢れ出した。堪え切れない嗚咽に喉が痛くなる。
「全然、気づいてなかった」
周りの優しさにひどく胸が痛くなった。あの事故以来、人の存在や感情がわずらわしくて、職員室へ向く足が徐々に少なくなり先生たちとの会話も減った。殻に閉じこもるようにいつの間にかこの場所が自分の居場所になっていた。そしてそれを黙って見つめ、時折気遣い声を投げてくれていた周りの気持ちを考えることをしてこなかった。
「そういや、おめでとう言ってない」
唯一の同期である飯田が今年の初めに結婚したと、なんとなく耳にしていた。でもきっと本人もほかの先生たちも、一線を引く僕にそれを直接伝えることができなかったのだろう。綺麗な少し年上の彼女が自慢だと言っていた飯田は、きっと以前なら真っ先に僕へ報告していたに違いない。でもそんな些細なことさえも躊躇わせてしまう、空気を僕が作ってきたんだ。
「なにやってんだ僕は」
いままでまったく見えていなかったものが、聞こえていなかった声が、最近よく聞こえるようになった気がする。知らず知らずのうちに背を向けていたものに向き直り始めている自分に気づいた。
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