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予感
01
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まだ夢うつつな意識の片隅で微かに感じる遠くの気配。そして眠りから揺り起こすかのように漂うバターの甘い香りと珈琲の芳ばしい香り。
奥底にしまい込んだ記憶がまた浮上しかけた。
――おはよう、佐樹くん
重たい瞼の裏側に、懐かしい姿が浮かんだ。声を思い出すことはあっても、その姿が浮かぶのは本当に久しぶりだった。けれどそんなことよりも、いまはっきりと見えた姿に僕は焦りを感じた。彼女の背後に立つその後ろ姿に――。
「……藤堂っ」
自分の声で目が覚めた。その瞬間、吹き出した冷や汗に僕の心臓は早鐘を打つ。
こちらを振り向いた藤堂が見せた、どこか傷ついたような寂しげな表情が頭にこびりついて離れない。
「やな夢」
意識が現実に戻ると、僕は潜り込んでいた布団から這い出て頭上の時計を確認した。どうやらいつも起きる時間より十五分ほど早く目が覚めたようだ。
「もう一回寝たら絶対寝過ごすな」
いまだ動悸がする身体をゆっくりと起こして、大きく伸びをした。すると運動不足の身体が微妙にミシミシと音を立てそうになった。
「最近やたらと事務仕事が多いしな」
軽く背中や腰を動かしストレッチすれば徐々に頭がすっきりとし始め、さらに人の気配を強く感じた。リビングと部屋を仕切る戸を引いてその向こうを見ると、キッチンに立つその人が顔を上げる。
「あら、さっちゃんおはよう。起こしちゃった?」
「あー、もう起きる時間だから、大丈夫」
人の顔を見るなり驚いた顔をして、母の時子が首を傾げた。そしてその反応に僕が口を曲げると、部屋の中に小さな笑い声が響いた。
「顔洗ってきたら? ……どうしたの、まだ寝てる?」
そういえば昨日の夜からいるんだったと、ぼんやり母を眺めていたら今度はほんの少し呆れたように笑われた。
「なんか、朝起きてそこに人がいるのはやっぱりいいなぁと思って」
「あっ……そうね」
ぽつりと呟いた僕の言葉に目を丸くし、母は戸惑ったように笑って視線を落とした。
「顔、洗ってくる」
どことなく気まずい雰囲気がお互いのあいだに流れ、僕は洗面所へ逃げ込んだ。
「我ながら余計なこと言った」
寝起きの頭が一気に覚めた気がする。
最近は藤堂がよく来るようになっていたので、僕にとってはなんの違和感もない言葉だったのだが――あれから随分経つが、いまだ亡くなった彼女のことは僕の前では禁句、というのが西岡家の暗黙の了解になっていた。それなのにいきなり僕の口からあんなことを言われては、戸惑うしかないだろう。
「このままじゃマズいよな」
母親に対しても勿論だが、このあいだのように彼女の件で藤堂に心配させるようなことはもう絶対したくはない。しかしそれは目の前で勢いよく流れる水のように、そう簡単に洗い流してしまえるものでもない。結婚していたのは事実だし、生まれでることはなかったけれど子供がいたのも――彼女のことを大切に想っていたことも事実だ。
「けど、これから先あんな夢で目覚めるのは絶対に嫌だしな」
さまざまな過去の記憶が頭をよぎるが、すでに僕の中では藤堂を想う気持ちのほうが何倍も強くなっている。藤堂を悲しませたり傷つけたり、そんなことにならないようにしなければ。せっかく藤堂を繋ぎ止めることができたんだ、自分の弱さで彼を二度と失いたくはない。
いまは一つずつ片をつけて、確実に二人の時間を歩いて行きたいと心から思う。
「ねぇ、さっちゃんちの冷蔵庫に物が入ってて、お母さんびっくりしたの」
「は?」
リビングに戻ると、母は開口一番のんびりとした声音でそう呟いた。そんな彼女の言葉に僕は眉をひそめて首を捻る。
「だって去年ここに来た時は、お水と牛乳しか入ってなかったのよ」
「そ、それはたまたま」
「お母さん本当に心配したんだから」
キッチンからカウンターへ腕を伸ばし皿を並べると、母は口ごもった僕を見て少しとがめるように目を細めた。
「最近は朝ごはんもちゃんと食べてるの?」
「ん、まあ」
毎朝珈琲で済ませていたところに、ハムエッグとトーストが加わっただけだが。
「容器に入ってるお惣菜は、さっちゃんが作ったなんてことないわよね」
「ああ、んー、まあ無理だろうな」
それは藤堂が毎日のように持たせてくれる晩ご飯だ。昨日の夜に母が突然やってきたので、食べぬまま片付けるのを忘れていた。
「そうよね。さっちゃんは精々カップラーメンにお湯注ぐのが限度よね」
「それ言い過ぎだろ。目玉焼きくらいは作れます」
「くらいしか作れないの間違いでしょ?」
「うっ……そうですね」
悪気などひとかけらも感じさせぬ顔でそう言い切られると、肯定しか答えがないような気がしてきた。のんびりとした雰囲気で一見天然ぽいとよく言われる母だが、無自覚に突っ込みが激しいところがある。
口先で勝った例しがない母親にこれ以上なにを言っても無駄な気がして、僕は新聞を手にカウンターに並べられた皿の前で椅子を引いた。
「いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
ハムとチーズをたっぷり挟んだホットサンドと、色味が鮮やかなサラダの前で両手を合わせれば、母は満面の笑みを浮かべた。
「お味はいかが?」
「ん、美味いよ」
首を傾げた母にそう答えれば嬉しそうに頬を緩める。答えるまでもなく彼女の料理は基本的に外れがないのだが。
「さっちゃん」
「なに?」
「イイ人できたの?」
「う……ん? な、なに?」
なに気ない調子で話しかける母に思わず返事をしかけて、僕は慌てて言葉を飲み込んだ。片手に掴んだ新聞がぐしゃりと音を立てる。
「冷蔵庫のお惣菜のこともそうだけど。さっちゃんが寝ぼけてでもあんなこと言うなんて、いままでじゃありえなかったでしょ。気持ちの整理はついたの?」
慌てふためく僕とは対照的に、やけに落ち着いた様子で母は僕をじっと見る。そしてその視線に僕は、一瞬言葉が喉奥に詰まってしまった。
「完全ってわけじゃないけど」
近頃は藤堂との距離が少しずつ縮まるにつれ、押し込んでいたものが溢れてくる。それは時折辛い記憶だったりもするけれど、なかったことにしてしまおうと蓋をしていた思い出は少しずつ整理でき始めていた。
「そう、でもいいと思うのよ。誰か別の人好きになって。ずっと言えなかったけど、もういいと思うの。向こうのご両親にはこんなこと言えないけど……忘れてしまっても、お母さんはいいと思う」
「……」
本当にずっと言えなかったのだろう。僕を見るその目には嘘はなくて、その気持ちが優しくて泣きそうになる。
「今年も、もうすぐだけど行くの?」
「ん、行く……でも、今年で終わりにする」
彼女が亡くなった日を毎年毎年、重たい気持ちで過ごしてきたけれど、それももう今年で終わりにするのだ。
「そう」
僕の言葉に小さく頷いた母の目からこぼれ落ちたものに、胸が痛んだ。
「ごめん」
あの日、ひたすらに頭を下げ続けた母の小さな背中が脳裏を掠める。この小さな身体に、肩に、どれほどのものを僕は背負わせて来たんだろうか。そう思うほどに鼻の奥がツンとして、つられるように目頭が熱くなった。
「なに謝ってるの。お母さん、さっちゃんが選んだ人ならなにも言わないわよ」
「ん、いまはまだ無理だけど。いつかちゃんと紹介するよ」
「そう、ありがとう」
嬉しそうに笑う母の顔にほっとした。でも少しだけ胸も詰まった。相手が同性だと――藤堂なのだと、知ったらどう思うだろう。それでもいまみたいに笑ってくれるのだろうかと、隠しているいまが後ろめたい。
でもこの人にだけは、笑って欲しいと思う。
「あら、やだ。さっちゃんそろそろ仕事行かないと。ごめんなさい、余計な話で遅くなっちゃった」
「やば、着替えてくる」
急にトーンが高くなった母の声に僕が目を丸くすると、カウンターを叩き時計を指差された。その時間に僕は慌てて立ち上がり部屋に走り込んだ。
「さっちゃーん」
「なにっ?」
慌ただしく着替えをしていると、戸の向こうから間延びした声が聞こえる。
「今日お部屋掃除してもいい? 恥ずかしいものは隠してないわよね」
「一体いつの話だよっ」
「じゃあ、いいのね?」
「勝手に」
念を押す声に勝手にしろと言いかけて、僕は自分でも驚くくらいの速さで後ろを振り返った。そして掴んだものを机の引き出しへ押し込めて、そこに鍵をかける。
鍵を探して漁った箱が棚から落ちてものすごい音を立てたが、そんなことも気にならないくらいの勢いで。
「大丈夫?」
「なんでもないっ。……危なかった」
心配げな声に返事をした僕は、急に押し寄せてきた疲れにため息をついてそれと共に肩を落とした。
「これがここにあるのはマズいよな」
引き出しの中で微笑んでいるであろう藤堂の姿を思い浮かべて、再び僕は大きなため息をついた。
奥底にしまい込んだ記憶がまた浮上しかけた。
――おはよう、佐樹くん
重たい瞼の裏側に、懐かしい姿が浮かんだ。声を思い出すことはあっても、その姿が浮かぶのは本当に久しぶりだった。けれどそんなことよりも、いまはっきりと見えた姿に僕は焦りを感じた。彼女の背後に立つその後ろ姿に――。
「……藤堂っ」
自分の声で目が覚めた。その瞬間、吹き出した冷や汗に僕の心臓は早鐘を打つ。
こちらを振り向いた藤堂が見せた、どこか傷ついたような寂しげな表情が頭にこびりついて離れない。
「やな夢」
意識が現実に戻ると、僕は潜り込んでいた布団から這い出て頭上の時計を確認した。どうやらいつも起きる時間より十五分ほど早く目が覚めたようだ。
「もう一回寝たら絶対寝過ごすな」
いまだ動悸がする身体をゆっくりと起こして、大きく伸びをした。すると運動不足の身体が微妙にミシミシと音を立てそうになった。
「最近やたらと事務仕事が多いしな」
軽く背中や腰を動かしストレッチすれば徐々に頭がすっきりとし始め、さらに人の気配を強く感じた。リビングと部屋を仕切る戸を引いてその向こうを見ると、キッチンに立つその人が顔を上げる。
「あら、さっちゃんおはよう。起こしちゃった?」
「あー、もう起きる時間だから、大丈夫」
人の顔を見るなり驚いた顔をして、母の時子が首を傾げた。そしてその反応に僕が口を曲げると、部屋の中に小さな笑い声が響いた。
「顔洗ってきたら? ……どうしたの、まだ寝てる?」
そういえば昨日の夜からいるんだったと、ぼんやり母を眺めていたら今度はほんの少し呆れたように笑われた。
「なんか、朝起きてそこに人がいるのはやっぱりいいなぁと思って」
「あっ……そうね」
ぽつりと呟いた僕の言葉に目を丸くし、母は戸惑ったように笑って視線を落とした。
「顔、洗ってくる」
どことなく気まずい雰囲気がお互いのあいだに流れ、僕は洗面所へ逃げ込んだ。
「我ながら余計なこと言った」
寝起きの頭が一気に覚めた気がする。
最近は藤堂がよく来るようになっていたので、僕にとってはなんの違和感もない言葉だったのだが――あれから随分経つが、いまだ亡くなった彼女のことは僕の前では禁句、というのが西岡家の暗黙の了解になっていた。それなのにいきなり僕の口からあんなことを言われては、戸惑うしかないだろう。
「このままじゃマズいよな」
母親に対しても勿論だが、このあいだのように彼女の件で藤堂に心配させるようなことはもう絶対したくはない。しかしそれは目の前で勢いよく流れる水のように、そう簡単に洗い流してしまえるものでもない。結婚していたのは事実だし、生まれでることはなかったけれど子供がいたのも――彼女のことを大切に想っていたことも事実だ。
「けど、これから先あんな夢で目覚めるのは絶対に嫌だしな」
さまざまな過去の記憶が頭をよぎるが、すでに僕の中では藤堂を想う気持ちのほうが何倍も強くなっている。藤堂を悲しませたり傷つけたり、そんなことにならないようにしなければ。せっかく藤堂を繋ぎ止めることができたんだ、自分の弱さで彼を二度と失いたくはない。
いまは一つずつ片をつけて、確実に二人の時間を歩いて行きたいと心から思う。
「ねぇ、さっちゃんちの冷蔵庫に物が入ってて、お母さんびっくりしたの」
「は?」
リビングに戻ると、母は開口一番のんびりとした声音でそう呟いた。そんな彼女の言葉に僕は眉をひそめて首を捻る。
「だって去年ここに来た時は、お水と牛乳しか入ってなかったのよ」
「そ、それはたまたま」
「お母さん本当に心配したんだから」
キッチンからカウンターへ腕を伸ばし皿を並べると、母は口ごもった僕を見て少しとがめるように目を細めた。
「最近は朝ごはんもちゃんと食べてるの?」
「ん、まあ」
毎朝珈琲で済ませていたところに、ハムエッグとトーストが加わっただけだが。
「容器に入ってるお惣菜は、さっちゃんが作ったなんてことないわよね」
「ああ、んー、まあ無理だろうな」
それは藤堂が毎日のように持たせてくれる晩ご飯だ。昨日の夜に母が突然やってきたので、食べぬまま片付けるのを忘れていた。
「そうよね。さっちゃんは精々カップラーメンにお湯注ぐのが限度よね」
「それ言い過ぎだろ。目玉焼きくらいは作れます」
「くらいしか作れないの間違いでしょ?」
「うっ……そうですね」
悪気などひとかけらも感じさせぬ顔でそう言い切られると、肯定しか答えがないような気がしてきた。のんびりとした雰囲気で一見天然ぽいとよく言われる母だが、無自覚に突っ込みが激しいところがある。
口先で勝った例しがない母親にこれ以上なにを言っても無駄な気がして、僕は新聞を手にカウンターに並べられた皿の前で椅子を引いた。
「いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
ハムとチーズをたっぷり挟んだホットサンドと、色味が鮮やかなサラダの前で両手を合わせれば、母は満面の笑みを浮かべた。
「お味はいかが?」
「ん、美味いよ」
首を傾げた母にそう答えれば嬉しそうに頬を緩める。答えるまでもなく彼女の料理は基本的に外れがないのだが。
「さっちゃん」
「なに?」
「イイ人できたの?」
「う……ん? な、なに?」
なに気ない調子で話しかける母に思わず返事をしかけて、僕は慌てて言葉を飲み込んだ。片手に掴んだ新聞がぐしゃりと音を立てる。
「冷蔵庫のお惣菜のこともそうだけど。さっちゃんが寝ぼけてでもあんなこと言うなんて、いままでじゃありえなかったでしょ。気持ちの整理はついたの?」
慌てふためく僕とは対照的に、やけに落ち着いた様子で母は僕をじっと見る。そしてその視線に僕は、一瞬言葉が喉奥に詰まってしまった。
「完全ってわけじゃないけど」
近頃は藤堂との距離が少しずつ縮まるにつれ、押し込んでいたものが溢れてくる。それは時折辛い記憶だったりもするけれど、なかったことにしてしまおうと蓋をしていた思い出は少しずつ整理でき始めていた。
「そう、でもいいと思うのよ。誰か別の人好きになって。ずっと言えなかったけど、もういいと思うの。向こうのご両親にはこんなこと言えないけど……忘れてしまっても、お母さんはいいと思う」
「……」
本当にずっと言えなかったのだろう。僕を見るその目には嘘はなくて、その気持ちが優しくて泣きそうになる。
「今年も、もうすぐだけど行くの?」
「ん、行く……でも、今年で終わりにする」
彼女が亡くなった日を毎年毎年、重たい気持ちで過ごしてきたけれど、それももう今年で終わりにするのだ。
「そう」
僕の言葉に小さく頷いた母の目からこぼれ落ちたものに、胸が痛んだ。
「ごめん」
あの日、ひたすらに頭を下げ続けた母の小さな背中が脳裏を掠める。この小さな身体に、肩に、どれほどのものを僕は背負わせて来たんだろうか。そう思うほどに鼻の奥がツンとして、つられるように目頭が熱くなった。
「なに謝ってるの。お母さん、さっちゃんが選んだ人ならなにも言わないわよ」
「ん、いまはまだ無理だけど。いつかちゃんと紹介するよ」
「そう、ありがとう」
嬉しそうに笑う母の顔にほっとした。でも少しだけ胸も詰まった。相手が同性だと――藤堂なのだと、知ったらどう思うだろう。それでもいまみたいに笑ってくれるのだろうかと、隠しているいまが後ろめたい。
でもこの人にだけは、笑って欲しいと思う。
「あら、やだ。さっちゃんそろそろ仕事行かないと。ごめんなさい、余計な話で遅くなっちゃった」
「やば、着替えてくる」
急にトーンが高くなった母の声に僕が目を丸くすると、カウンターを叩き時計を指差された。その時間に僕は慌てて立ち上がり部屋に走り込んだ。
「さっちゃーん」
「なにっ?」
慌ただしく着替えをしていると、戸の向こうから間延びした声が聞こえる。
「今日お部屋掃除してもいい? 恥ずかしいものは隠してないわよね」
「一体いつの話だよっ」
「じゃあ、いいのね?」
「勝手に」
念を押す声に勝手にしろと言いかけて、僕は自分でも驚くくらいの速さで後ろを振り返った。そして掴んだものを机の引き出しへ押し込めて、そこに鍵をかける。
鍵を探して漁った箱が棚から落ちてものすごい音を立てたが、そんなことも気にならないくらいの勢いで。
「大丈夫?」
「なんでもないっ。……危なかった」
心配げな声に返事をした僕は、急に押し寄せてきた疲れにため息をついてそれと共に肩を落とした。
「これがここにあるのはマズいよな」
引き出しの中で微笑んでいるであろう藤堂の姿を思い浮かべて、再び僕は大きなため息をついた。
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