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日常
Feeling02
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バスを降りてなに気なく空を見上げると、すっかり日は落ちて月が顔を出し始めていた。
「……っ」
いつまでもぼんやりとそれを眺めていたら、軽いクラクションを鳴らしてバスは背後を通り過ぎていく。走り去ったバスの風圧で辺りに風が舞い起こり、散った埃に思わず俯いて目をすがめた。
「どうしたセンセ」
前を歩く峰岸が、立ち尽くしていた僕に気がつき振り返る。しんと静まり返った空間に峰岸の声がよく響く。
「あ、悪い……」
立ち止まった峰岸に慌てて走り寄ると、なぜかいきなり肩を抱き寄せられた。
「キス一回で許してやる」
「馬鹿かお前は」
明らかにからかいを含んだ笑みを浮かべる峰岸の頭を叩けば、小さく笑って肩に回された手が離れていった。
「それにしても、よくここでOK出たな。確かに、桁は多かったが」
久しぶりに見る厳かなホテルを見上げると、思わずため息が出てしまう。何度見ても立派だ。経理へ提出する際、書類に記入したゼロの数に今更ながら頷ける。
「まあ、まともに掛け合ったら無理だろうな。コネだよコネ」
呆けたまま上を向いている僕に苦笑いを浮かべながら、峰岸は肩をすくめ躊躇うことなくホテルの脇へ歩を進めた。
「コネ?」
「そ、身内のコネ」
首を傾げる僕に目を細め、ゆるりと片頬を持ち上げた峰岸に、ますます頭の上で疑問符が飛んだ。しかしその疑問もすぐに解消される。峰岸は裏口へ入り、窓口にいた守衛に軽く手を上げると、その前を通り過ぎてさらに奥の扉を躊躇いなく引いた。
「誰かいるか」
扉の向こうへ峰岸が頭を突っ込み、その奥へ声をかけると、大きな声が返ってきた。
「あっれぇ、一真くん? 久しぶりだね」
「よお、ミキティ相変わらずでけぇな」
「一真くんあのさぁ、そのあだ名もうやめようよ」
峰岸の笑い声と共に少し情けない声が聞こえてくる。その様子に首を傾げていると、ふいに手を引かれて扉の奥へ連れ込まれた。入ったそこは更衣室だろうか、長椅子やロッカーなどが隙間なく配置されている。
「ん、あれ? こちらは」
聞こえてきた声につられて顔を持ち上げれば、不思議そうな顔をして僕を見下ろす青年が一人。コックコートを着たその彼は、峰岸が言ったとおり随分と背が高い。自分の周りでは三島が一番背が高いと思っていたが、恐らくそれよりも高いのだろう。後ろに反れた首が痛い。
「ああ、この人はうちの学校のセンセ」
「そうなんだ。じゃあ優哉くんの先生でもあるんだね。はじめまして、俺は三木瑛冶って言います、よろしく」
「あ、はじめまして西岡、佐樹です」
人懐っこい笑みで差し伸べられた彼の手を取ると、いきなりそれを勢いよく縦に振られる。しかし驚きつつそれを見つめていたら、その動きを遮るように峰岸の手が上に重ねられた。
「おい、センセの腕がもげるだろうが」
「ごめんごめん。あ、マネージャーに用だよね?」
目を細めた峰岸に対し軽快な笑い声を上げ、三木さんは僕の手を離し部屋にあるもう一つの扉を開けて大声で叫んだ。
「マネージャー! 一真くん!」
「瑛冶うるせぇ、用があるならこっち来い」
「やべ、久我さんがキレた」
声が響いた途端、間髪入れずに返ってきた声に三木さんは肩を跳ね上げて苦笑いを浮かべる。そして困ったように頭をかきながら僕と峰岸に目配せすると、彼は手招きをして先ほど開いた扉を示す。
「うちの料理長、おっかないから。ちょっといま忙しいっぽい」
「相変わらず、めんどくせぇジイさんだな」
三木さんの言葉にため息をつくものの、峰岸はさして気にした様子もなく扉の奥へ入っていった。状況が飲み込めずにいる僕は、仕方なくそのあとへ続く。峰岸は廊下を一本挟み、さらに向かいにある開け放たれた入り口へ消えた。
「大丈夫、別に捕って喰われないから」
にこにこと笑みを浮かべる三木さんに促されながら足を踏み入れれば、そこは調理場のようで、三木さんと同じようなコックコートを着た人たちが慌ただしく動き回っていた。そしてその中でよく見慣れた背中も見つけた。
「よお、一真。いいとこに来たな。ちょっと手伝っていけよ」
「ああ? 誰がそんな面倒くさいことするか」
「バイト代は出すって……あ、れ? こちらはどちらさん?」
ぼんやりと背中を見ていると、峰岸と話をしていた男の人がこちらに気がついたのか、目を丸くしながら近づいて来た。
少し長めの明るい茶髪に、ストライプのスーツが細身の身体つきによく似合う。一瞬どこのホストかと目を疑ったが、よくよく見れば誰かに似ている。
「峰岸の、お兄さん……ですか?」
「ん? そうですけど。ああ、もしかして西岡先生?」
訝しげに僕を見下ろしていた峰岸の兄は、なにを思い出したのか急に僕を指差しにやりと片頬を上げた。その笑った顔は峰岸とそっくりだった――さすがは兄弟。
「そうか、そうか。どうも、うちの可愛い妹と愚弟がお世話になってます。兄の拓真です」
差し出された手を取ると、彼は両手で僕の手を握り、至極機嫌のよさそうな表情を浮かべる。訝しげな顔で首を傾げれば、さらに綺麗な微笑みを返された。
「珍しく一真が気に入った先生がいるって、真帆からよく聞いてます」
「え? は、はあ」
曖昧な返事をしながら、生徒の顔と名前を思い返す。彼の言う真帆というのは恐らく一年の峰岸真帆だろう。同じ峰岸で気になってはいたが、やはりここは兄妹だったのか。
「瑛冶さんちょっと代わって」
「え、優哉くん?」
握られたままの手をどうしようかと考えあぐねていると、急に重なっていた手が弾かれ別の手に腕を引かれた。
「藤堂?」
驚く間もなく半ば引きずられるように調理場を出れば、更衣室へは向かわず左手に折れて非常階段の踊り場に押し込められた。藤堂の背後で鉄製の扉が鈍い音を立てて閉まる。
「え、っと、藤堂?」
俯いたまま身動き一つしない藤堂に恐る恐る声をかければ、肩で大きくため息を吐かれた。
「すみません。少し取り乱しました」
ぽつりとそう呟き前髪をかき上げた藤堂の顔を覗き込むと、ふいに目をそらされ微かに染まった頬だけが目に留まる。
「ん、悪かったな。急に来て」
「いえ、こちらこそ。いきなり引っ張り出してしまってすみません」
ぼそぼそと小さく呟く藤堂の様子に、どうしても頬が緩んで仕方ない。しかし俯いた頭をそっと梳いて撫でれば、少し眉をひそめた顔が持ち上がった。
「佐樹さん?」
「なんだろうな、藤堂といるとほっとする」
「なにか、ありましたか」
「え?」
ふいに藤堂の視線が鋭くなり、髪を撫でていた手を取られた。その手を掴む強さに驚いていると、腰へ回された腕に抱き寄せられる。
「あ、の、藤堂……」
戸惑いながらも彼を見上げれば、目尻と頬へ柔らかな唇が落ちてきた。
「な、なにもない。ただちょっと、実感しただけと言うか。峰岸はあんな性格だし、一緒にいて気を使わなくいいから、楽だと思ってた、けど……やっぱり、藤堂といるのが一番安心するなぁ、って」
「本当にそれだけですか」
「あ、ああ。それ、だけ」
慌てふためく僕に表情を曇らせた藤堂は、小さく首を傾げてこちらをじっと見下ろす。そしてそれに込められた意味がわからず、僕が藤堂の腕を掴むと、両腕で強く抱き締められた。
「なにもないなら、いいです。ただ、佐樹さんは俺に触れたがる時はいつも、どこか不安があるみたいなので、少し心配になっただけです」
「あ……」
藤堂の言葉にほんの少し、まるで針で刺したかのように胸がチクリと痛んだ。自分でも気づかずにいた裏側の気持ちが、その言葉で胸の底から浮上した。
「あのさ。こんなこと、聞くのおかしいとはわかってるんだけどな」
「なんですか」
心配そうに僕を見下ろす藤堂の目が、ひどく優しい。こんなこと聞かなければいいのに、気持ちとは裏腹に口が動いてしまう。
「藤堂は、峰岸のこと……どう思ってた?」
ずっと傍にいて、彼の気持ちには気づいていた?
「……っ」
いつまでもぼんやりとそれを眺めていたら、軽いクラクションを鳴らしてバスは背後を通り過ぎていく。走り去ったバスの風圧で辺りに風が舞い起こり、散った埃に思わず俯いて目をすがめた。
「どうしたセンセ」
前を歩く峰岸が、立ち尽くしていた僕に気がつき振り返る。しんと静まり返った空間に峰岸の声がよく響く。
「あ、悪い……」
立ち止まった峰岸に慌てて走り寄ると、なぜかいきなり肩を抱き寄せられた。
「キス一回で許してやる」
「馬鹿かお前は」
明らかにからかいを含んだ笑みを浮かべる峰岸の頭を叩けば、小さく笑って肩に回された手が離れていった。
「それにしても、よくここでOK出たな。確かに、桁は多かったが」
久しぶりに見る厳かなホテルを見上げると、思わずため息が出てしまう。何度見ても立派だ。経理へ提出する際、書類に記入したゼロの数に今更ながら頷ける。
「まあ、まともに掛け合ったら無理だろうな。コネだよコネ」
呆けたまま上を向いている僕に苦笑いを浮かべながら、峰岸は肩をすくめ躊躇うことなくホテルの脇へ歩を進めた。
「コネ?」
「そ、身内のコネ」
首を傾げる僕に目を細め、ゆるりと片頬を持ち上げた峰岸に、ますます頭の上で疑問符が飛んだ。しかしその疑問もすぐに解消される。峰岸は裏口へ入り、窓口にいた守衛に軽く手を上げると、その前を通り過ぎてさらに奥の扉を躊躇いなく引いた。
「誰かいるか」
扉の向こうへ峰岸が頭を突っ込み、その奥へ声をかけると、大きな声が返ってきた。
「あっれぇ、一真くん? 久しぶりだね」
「よお、ミキティ相変わらずでけぇな」
「一真くんあのさぁ、そのあだ名もうやめようよ」
峰岸の笑い声と共に少し情けない声が聞こえてくる。その様子に首を傾げていると、ふいに手を引かれて扉の奥へ連れ込まれた。入ったそこは更衣室だろうか、長椅子やロッカーなどが隙間なく配置されている。
「ん、あれ? こちらは」
聞こえてきた声につられて顔を持ち上げれば、不思議そうな顔をして僕を見下ろす青年が一人。コックコートを着たその彼は、峰岸が言ったとおり随分と背が高い。自分の周りでは三島が一番背が高いと思っていたが、恐らくそれよりも高いのだろう。後ろに反れた首が痛い。
「ああ、この人はうちの学校のセンセ」
「そうなんだ。じゃあ優哉くんの先生でもあるんだね。はじめまして、俺は三木瑛冶って言います、よろしく」
「あ、はじめまして西岡、佐樹です」
人懐っこい笑みで差し伸べられた彼の手を取ると、いきなりそれを勢いよく縦に振られる。しかし驚きつつそれを見つめていたら、その動きを遮るように峰岸の手が上に重ねられた。
「おい、センセの腕がもげるだろうが」
「ごめんごめん。あ、マネージャーに用だよね?」
目を細めた峰岸に対し軽快な笑い声を上げ、三木さんは僕の手を離し部屋にあるもう一つの扉を開けて大声で叫んだ。
「マネージャー! 一真くん!」
「瑛冶うるせぇ、用があるならこっち来い」
「やべ、久我さんがキレた」
声が響いた途端、間髪入れずに返ってきた声に三木さんは肩を跳ね上げて苦笑いを浮かべる。そして困ったように頭をかきながら僕と峰岸に目配せすると、彼は手招きをして先ほど開いた扉を示す。
「うちの料理長、おっかないから。ちょっといま忙しいっぽい」
「相変わらず、めんどくせぇジイさんだな」
三木さんの言葉にため息をつくものの、峰岸はさして気にした様子もなく扉の奥へ入っていった。状況が飲み込めずにいる僕は、仕方なくそのあとへ続く。峰岸は廊下を一本挟み、さらに向かいにある開け放たれた入り口へ消えた。
「大丈夫、別に捕って喰われないから」
にこにこと笑みを浮かべる三木さんに促されながら足を踏み入れれば、そこは調理場のようで、三木さんと同じようなコックコートを着た人たちが慌ただしく動き回っていた。そしてその中でよく見慣れた背中も見つけた。
「よお、一真。いいとこに来たな。ちょっと手伝っていけよ」
「ああ? 誰がそんな面倒くさいことするか」
「バイト代は出すって……あ、れ? こちらはどちらさん?」
ぼんやりと背中を見ていると、峰岸と話をしていた男の人がこちらに気がついたのか、目を丸くしながら近づいて来た。
少し長めの明るい茶髪に、ストライプのスーツが細身の身体つきによく似合う。一瞬どこのホストかと目を疑ったが、よくよく見れば誰かに似ている。
「峰岸の、お兄さん……ですか?」
「ん? そうですけど。ああ、もしかして西岡先生?」
訝しげに僕を見下ろしていた峰岸の兄は、なにを思い出したのか急に僕を指差しにやりと片頬を上げた。その笑った顔は峰岸とそっくりだった――さすがは兄弟。
「そうか、そうか。どうも、うちの可愛い妹と愚弟がお世話になってます。兄の拓真です」
差し出された手を取ると、彼は両手で僕の手を握り、至極機嫌のよさそうな表情を浮かべる。訝しげな顔で首を傾げれば、さらに綺麗な微笑みを返された。
「珍しく一真が気に入った先生がいるって、真帆からよく聞いてます」
「え? は、はあ」
曖昧な返事をしながら、生徒の顔と名前を思い返す。彼の言う真帆というのは恐らく一年の峰岸真帆だろう。同じ峰岸で気になってはいたが、やはりここは兄妹だったのか。
「瑛冶さんちょっと代わって」
「え、優哉くん?」
握られたままの手をどうしようかと考えあぐねていると、急に重なっていた手が弾かれ別の手に腕を引かれた。
「藤堂?」
驚く間もなく半ば引きずられるように調理場を出れば、更衣室へは向かわず左手に折れて非常階段の踊り場に押し込められた。藤堂の背後で鉄製の扉が鈍い音を立てて閉まる。
「え、っと、藤堂?」
俯いたまま身動き一つしない藤堂に恐る恐る声をかければ、肩で大きくため息を吐かれた。
「すみません。少し取り乱しました」
ぽつりとそう呟き前髪をかき上げた藤堂の顔を覗き込むと、ふいに目をそらされ微かに染まった頬だけが目に留まる。
「ん、悪かったな。急に来て」
「いえ、こちらこそ。いきなり引っ張り出してしまってすみません」
ぼそぼそと小さく呟く藤堂の様子に、どうしても頬が緩んで仕方ない。しかし俯いた頭をそっと梳いて撫でれば、少し眉をひそめた顔が持ち上がった。
「佐樹さん?」
「なんだろうな、藤堂といるとほっとする」
「なにか、ありましたか」
「え?」
ふいに藤堂の視線が鋭くなり、髪を撫でていた手を取られた。その手を掴む強さに驚いていると、腰へ回された腕に抱き寄せられる。
「あ、の、藤堂……」
戸惑いながらも彼を見上げれば、目尻と頬へ柔らかな唇が落ちてきた。
「な、なにもない。ただちょっと、実感しただけと言うか。峰岸はあんな性格だし、一緒にいて気を使わなくいいから、楽だと思ってた、けど……やっぱり、藤堂といるのが一番安心するなぁ、って」
「本当にそれだけですか」
「あ、ああ。それ、だけ」
慌てふためく僕に表情を曇らせた藤堂は、小さく首を傾げてこちらをじっと見下ろす。そしてそれに込められた意味がわからず、僕が藤堂の腕を掴むと、両腕で強く抱き締められた。
「なにもないなら、いいです。ただ、佐樹さんは俺に触れたがる時はいつも、どこか不安があるみたいなので、少し心配になっただけです」
「あ……」
藤堂の言葉にほんの少し、まるで針で刺したかのように胸がチクリと痛んだ。自分でも気づかずにいた裏側の気持ちが、その言葉で胸の底から浮上した。
「あのさ。こんなこと、聞くのおかしいとはわかってるんだけどな」
「なんですか」
心配そうに僕を見下ろす藤堂の目が、ひどく優しい。こんなこと聞かなければいいのに、気持ちとは裏腹に口が動いてしまう。
「藤堂は、峰岸のこと……どう思ってた?」
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