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穏やかな時間

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 まだ夏の暑さが残る九月の半ば。
 夕焼け空を眺めながら、天音は駅前に立っていた。今日は仕事が休みで、恋人の誠と、ここで待ち合わせをしているのだ。

「もう授業は終わったかな?」

 鞄に入れていたスマートフォンを手に取ると、タイミング良くメッセージを受信した。すぐさま表示すれば、「もうすぐ着くよ」と表示される。

 ――僕はもう着いたよ
 ――改札で待ち合わせだよね?
 ――うん。待ってるね

 待ち遠しい気持ちを隠すことなく、天音は笑みを浮かべ、スマートフォンを胸に引き寄せる。そして電車がついて人が流れてくるたびに、背伸びをして人混みの中を見つめた。

「……来た!」

 先ほどのメッセージが届いてから、十分くらい過ぎた頃、再び人の流れが増えて、改札の向こうに彼の姿が見えた。

「天音さん?」

 駅構内に視線を巡らせた誠は、天音を見つけるとすぐさま歩み寄ってくる。傍までやって来ると、彼の笑顔は驚きに変わった。

「誠くん、おかえり」

「……髪、切ったんだね」

「うん、もう長くする必要がなくなったから。変、かな?」

 胸元まであった天音の髪は、耳が出るほどのショートカットになっていた。前髪は長めに残してあり、緩く頬にかかるほどあるが、襟足はうなじが良く見えるくらいに短い。

「短くても似合ってる」

「良かった」

 天音の笑みに頬を緩めた誠は、物珍しいものを見るかのように、色々な角度から見つめてくる。ひとしきり眺め、ようやく正面に立つと、今度は指先ですっきりとした襟足を撫でた。

「すごいバッサリ切ったね。髪型が違うだけなのに、うなじがやけに色っぽい」

「くすぐったいよ」

「あ、ごめん。触りすぎた」

 頬を赤らめた誠はぱっと手を離すが、まだそわそわした様子を見せる。じっと天音が見上げると、照れくさそうに目を伏せた。

「うん、すごく可愛いよ」

「ありがとう。そろそろ、帰ろっか」

「そう、だね」

 視線が泳いで落ち着かない恋人の手に、そっと指先を絡めたら、ぎゅっと力強く握り返された。少しばかり汗を掻いている手のひらに気づき、天音は口元を緩める。

「次の休み、どこか行こうか?」

「月に何度かはデートしよう。なるべく静かなところ選ぶから。天音さんは人が多く出入りするところ、声が多くて苦手だったよね」

「そのこと、なんだけど」

「ん? どうかしたの?」

 隣を歩く誠は、天音の真剣味を帯びた声を聞き、不思議そうに目を瞬かせる。見つめてくる視線から、話の続きを待っているのが伝わってきた。
 息をつき呼吸を整えてから、天音は言いかけた言葉の先を紡ぐ。

「実はもう、ほとんど周りの声が聞こえなくなったんだ」

「え?」

「髪を切ったのも、それがあって」

 ずっと天音が長く髪を伸ばしていたのには、理由がある。長い髪には力が宿ると、昔語りでもよく耳にするが。天音の場合は、髪が人の声を吸収するような、スポンジに似た役割があった。

 気づいたのは中学に上がる際に、髪を短く切った時だ。その当時、わずかばかりコントロールできていた力が、まったく抑えることができなくなった。

「――で、それからはなるべく、髪を伸ばしてたんだけど。いまはその心配がなくなったから、切ることにしたんだ」

「なんで急に、聞こえなくなったの?」

「うーん、たぶんいまは、誠くんが僕のスポンジになってるのかも」

「俺?」

「ほら、僕の力が移ったでしょう? あれって移ったというか、吸収してくれてるんじゃないかと思って」

「俺のほうはまだ聞こえるから、天音さんの力がなくなったわけじゃない?」

「うん。僕もまだ君の声は聞こえるよ。主にものを介してだけど。でも誠くんの声しか聞こえなくなった感じ」

 時折耳をかすめることはあっても、以前のようにはっきりとした言葉を聞かなくなった。それだけでも天音にしては大きなことだ。幼い頃から人の声に振り回されて、親しい友人すら作れなかった。

 聞こえなくなった分だけ、不安に思うこともあるかもしれないけれど、その代わりまっすぐに、人と向き合える気がする。
 いきなりフレンドリーに、とはいかないだろうが、少しずつ変えていこうと思えた。

「役に立てるのは嬉しいよ。天音さんはこれからもずっと俺といたらいい」

「末永く一緒にいてくれたら、いいなって思ってる」

「もちろんだよ」

 伸ばされた手に頭を撫でられて、天音は頬を緩め、はにかむように笑った。優しい誠の手はいつも温かく、愛情が伝わってくる。触れられると心の中に、好きという気持ちが溢れていく。

「というか、天音さんが嫌って言っても、俺は離してあげられそうにない」

「僕が誠くんを嫌になるなんて、考えられない。傍にいてこんなに幸せだなって思える人、ほかにいない。誠くんには僕の気持ち、全部わかるでしょう?」

「天音さんの声は、まっさらで正直で、嘘が一つもないよね」

 最近の誠は力が馴染んだのか、音だけではなく、声もはっきりと拾うようになってきた。しかし他人には作用しないので、天音限定で発揮される力だ。

「天音さんの声は、してる時が一番素直かも。無防備とでも言うのかな。めちゃくちゃ可愛くて、毎回理性が焼き切れそうになる」

「そういうのは内緒にしてて! する時に思い出して恥ずかしくなる」

「思い出すかな? 天音さんは気持ちいいこと好きだから、すぐに頭の中、真っ白になっちゃうよね?」

「もう! ほんとに恥ずかしいんだから!」

 からかい楽しんでいるのが、一目でわかる誠の表情。にやにやとする彼の肩を叩くけれど、まだなにか言おうと口を開く。天音はとっさにその口を、自分の手のひらで塞いだ。

「可愛い」

「もうなにも言わないで」

「怒った天音さんも可愛いよ」

 まったく反省した様子を見せない誠に、天音の頬が膨らむ。だがそれはますます彼を、楽しませることにしかならなかった。
 照れくさくなって足を速めるけれど、誠はすぐに追いついてくる。小さな攻防の末、諦めて天音は彼の隣を歩いた。

「誠くん、最近よく笑うようになったよね」

「そう?」

「うん」

 図書館で見かけているだけの頃は、にこりとしたところを一度も見ることがなかった。話をするようになってからも、わずかに微笑む程度で、いまのようにわかりやすい笑顔ではない。
 変化はいつ頃からだったろうかと、天音は記憶を巻き戻す。

「天音さんと一緒にいると、癒やされるし、楽しいからかな」

「風邪を引いたあとくらい?」

「なにが?」

「誠くんが笑顔を見せてくれたの」

「そうだった?」

「そんな気がする」

 図書館に誠が迎えに来てくれた時、表情がとても明るかった。珍しい笑顔を見て、胸がときめいたことが思い出される。彼がイケメンだった、と感じたのも、表情に柔らかさがあったからだ。

「天音さんのことが好きだなって、本当に自覚したのが看病してくれたあと、だからかな?」

「そうなの?」

「うん、あの日、傍にいてくれてすごく嬉しくて、この人の隣にずっといられる存在に、なりたいなって思った。好きな人がいないって知って、踊り出しそうなくらい嬉しかった。だからいつまでも宙ぶらりんではいられないなって」

 足を止めた天音を優しく見つめる誠は、頬にかかる前髪を指先で梳いて、顔を近づけてくる。その仕草に誘われるままに、天音は瞳を閉じた。

 やんわりと触れた彼の唇から熱が伝わり、天音の心にまで広がる。ついばむキスを繰り返して、濡れたリップ音が響いた。

「天音さん、好きだよ」

「僕も、好き」

 額を合わせて見つめ合えば、自然とまた唇が引き寄せられる。しかし後ろからやって来た自転車に気づいて、二人は慌てて身を離した。

「外、だったね」

「う、うん。早く、おうちに帰ろう」

「だね」

 そわそわと視線を泳がせ、頬を染めながらも、二人でそっと手を伸ばす。ぎゅっと握り合わせれば、幸せが染み渡った。
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