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第3章 飛び降り続ける霊
第27話 いつか、そのときまで一緒に
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自宅マンションに戻ってきた千夏と元気。
元気は玄関で靴を脱ぐと、部屋に上がった。別にそのまま入っても実体のない彼が部屋を汚すことはないのに、相変わらず脱がないと気持ちが悪いようだ。
千夏も、彼の後をついてリビングへいく。
あのあとずっと、気になっていたことがあった。気になっていたけど、聞けないでいた。
マンションで悪霊に落とされそうになった、あのとき。
(助けてくれたとき。元気は、確かに私の身体を掴んでいたよね……?)
そのあと、千夏の無事を喜んで抱きしめてくれたときもそうだった。今もあのときの感触を身体が覚えている。幽霊である元気には触《さわ》ることはできないはずなのに、あのとき確かにお互い触れあっていたのだ。
もしかして夢か幻覚を見ていたのかもしれない。それとも、そうだったらいいなと願うあまりそう見えてしまっただけだったのだろうか。
もしかして元気は私に触《さわ》れるの? 私は元気に触れるの? なんで? いままで触れなかったのに。本当は触ろうと思えば触れたの? そのことを、もしかしたら元気は知っていたの?
ずっとそんな疑問が頭の中を渦巻いていた。
意を決して、千夏は元気の背中に問いかける。
「……ねぇ、元気。さっきさ。私のこと触ったよね。私も、触れたよね。……気のせいじゃ、ないよね……?」
元気は足を止めた。少しの沈黙。彼はこちらを振り返らず、背中を向けたまま言いにくそうに口を開いた。
「……ああ。本当は、やろうと思えば触れるよ」
「……!」
千夏は胸でぎゅっと両手を握る。なんで、いままで教えてくれなかったんだろう。ずっと、元気のことは触れることができないのだと思っていた。幽霊だから、彼に触れようとしても手がすり抜けてしまうことは、当たり前で仕方のないことだと思っていた。
千夏の戸惑いをよそに、元気はぽつりぽつりと話を続ける。
「前にさ。田辺幸子さんの霊が、千夏の足を掴んだことがあっただろ?」
こちらに背を向けたままの元気には見えていないことはわかっていながらも、千夏はこくこくと頷く。あの時は、幸子に冷たい手で足を掴まれて、気を失いそうになった。
「基本的には触れないのがデフォルトなんだけど、俺たち幽霊は生きている人にも触ろうと意識すれば触れるんだ。こっちが触れるんだから、そっちも触れるんだろうな。さっき、千夏のことをつい抱きしめちゃって、それに気づいた」
「なんで……教えてくれなかったの?」
元気はこちらを振り向くと、困ったような泣きそうなような顔で千夏を見た。
「触《さわ》ってしまったら、もっと触《ふ》れたくなるから。もっと……君の元から離れたくなくなってしまうから。でも、そんなのダメだろ。だって、俺は死んだ人間で。君はまだいっぱい人生が残っている生きている人間だ。いくら君との生活が楽しくても。いくら君と一緒にいたくても。君が君の人生を生きる邪魔をするわけにはいかない。それだけは、絶対に。だから、もうこれ以上君に……」
泣きそうな顔のまま、彼は笑った。
「君に惹かれていくのを、止めなくちゃいけないんだ。触れてしまったら、もう」
そこまで聞いて、千夏はもう自分の中から湧き上がってくる気持ちを止められなかった。元気の言うことはわかる。元気が自分のことを考えて、そう言ってくれているのもわかる。それでも。
元気の方へ踏み出すと、千夏は彼に抱き着いた。
今度は、千夏の腕は彼の身体をすり抜けることはなかった。
しっかりと、彼の大きな胸に顔を埋めて抱きしめる。彼の身体はじんわりとほんの少し温かくて、そしてやっぱり心臓の鼓動の音は聞こえてはこないのだ。それでも、彼がそこにいるのが、触れているところを通して全身で感じられた。
それが、心の底から嬉しくて、ポロポロと涙がこぼれてくる。
「私も、ずっと元気に触りたかったの。こうやって、抱きしめたかったの」
「千夏……」
「だから、元気に触れるのがこんなにうれしい。すごく、嬉しいの。嬉しくて、たまらない」
「……いいの? 俺が、千夏に触れても」
躊躇いがちな元気の言葉に、千夏は力いっぱい頷いた。笑顔に涙が伝った。
「私は、元気にそばにいてほしいの。元気が好き。本当はそんなこと願っちゃいけない相手だってのはわかってるけど。でも、アナタがこの世から消えるときまで一緒にいたい。それが明日なのか、十年後なのか、私の寿命が尽きるまでなのかわからないけど。その瞬間まで、元気と一緒にいたい」
彼と一緒に過ごす時間が長くなればなるほど、心の中に少しずつ降り積もってきた想い。それが、どんどん口をついて出てくる。
迷うように躊躇いながら千夏の背に触れていた元気の腕が、千夏を抱きしめた。
「俺も千夏と一緒にいたい」
「うん。一緒に生きよう。ああ……そうか、元気は死んでるんだった。ううん。それでも、一緒にいよう。これからも」
幽霊と生きている人間。ともに暮らして人生を共にするのは、とても奇妙なことなのだろう。きっと、生きている人間同士のつきあいにはない不便さや不自由さも、これからもたくさんあるだろう。それでも、一緒に生きていきたいと共に願った。
「でも、成仏しそうになったら、ちゃんと成仏してね? 私が元気の未練になって元気が成仏できなくなるとか嫌だからね?」
元気がクスリと笑みをこぼす。
「ああ。わかってる。そのときがきたら、ちゃんと成仏するよ」
だから、いまは。この奇跡ともいうべき巡り合わせを大切にしたかった。
ともに過ごせるときを、大事にしたかった。
(第3章 完)
元気は玄関で靴を脱ぐと、部屋に上がった。別にそのまま入っても実体のない彼が部屋を汚すことはないのに、相変わらず脱がないと気持ちが悪いようだ。
千夏も、彼の後をついてリビングへいく。
あのあとずっと、気になっていたことがあった。気になっていたけど、聞けないでいた。
マンションで悪霊に落とされそうになった、あのとき。
(助けてくれたとき。元気は、確かに私の身体を掴んでいたよね……?)
そのあと、千夏の無事を喜んで抱きしめてくれたときもそうだった。今もあのときの感触を身体が覚えている。幽霊である元気には触《さわ》ることはできないはずなのに、あのとき確かにお互い触れあっていたのだ。
もしかして夢か幻覚を見ていたのかもしれない。それとも、そうだったらいいなと願うあまりそう見えてしまっただけだったのだろうか。
もしかして元気は私に触《さわ》れるの? 私は元気に触れるの? なんで? いままで触れなかったのに。本当は触ろうと思えば触れたの? そのことを、もしかしたら元気は知っていたの?
ずっとそんな疑問が頭の中を渦巻いていた。
意を決して、千夏は元気の背中に問いかける。
「……ねぇ、元気。さっきさ。私のこと触ったよね。私も、触れたよね。……気のせいじゃ、ないよね……?」
元気は足を止めた。少しの沈黙。彼はこちらを振り返らず、背中を向けたまま言いにくそうに口を開いた。
「……ああ。本当は、やろうと思えば触れるよ」
「……!」
千夏は胸でぎゅっと両手を握る。なんで、いままで教えてくれなかったんだろう。ずっと、元気のことは触れることができないのだと思っていた。幽霊だから、彼に触れようとしても手がすり抜けてしまうことは、当たり前で仕方のないことだと思っていた。
千夏の戸惑いをよそに、元気はぽつりぽつりと話を続ける。
「前にさ。田辺幸子さんの霊が、千夏の足を掴んだことがあっただろ?」
こちらに背を向けたままの元気には見えていないことはわかっていながらも、千夏はこくこくと頷く。あの時は、幸子に冷たい手で足を掴まれて、気を失いそうになった。
「基本的には触れないのがデフォルトなんだけど、俺たち幽霊は生きている人にも触ろうと意識すれば触れるんだ。こっちが触れるんだから、そっちも触れるんだろうな。さっき、千夏のことをつい抱きしめちゃって、それに気づいた」
「なんで……教えてくれなかったの?」
元気はこちらを振り向くと、困ったような泣きそうなような顔で千夏を見た。
「触《さわ》ってしまったら、もっと触《ふ》れたくなるから。もっと……君の元から離れたくなくなってしまうから。でも、そんなのダメだろ。だって、俺は死んだ人間で。君はまだいっぱい人生が残っている生きている人間だ。いくら君との生活が楽しくても。いくら君と一緒にいたくても。君が君の人生を生きる邪魔をするわけにはいかない。それだけは、絶対に。だから、もうこれ以上君に……」
泣きそうな顔のまま、彼は笑った。
「君に惹かれていくのを、止めなくちゃいけないんだ。触れてしまったら、もう」
そこまで聞いて、千夏はもう自分の中から湧き上がってくる気持ちを止められなかった。元気の言うことはわかる。元気が自分のことを考えて、そう言ってくれているのもわかる。それでも。
元気の方へ踏み出すと、千夏は彼に抱き着いた。
今度は、千夏の腕は彼の身体をすり抜けることはなかった。
しっかりと、彼の大きな胸に顔を埋めて抱きしめる。彼の身体はじんわりとほんの少し温かくて、そしてやっぱり心臓の鼓動の音は聞こえてはこないのだ。それでも、彼がそこにいるのが、触れているところを通して全身で感じられた。
それが、心の底から嬉しくて、ポロポロと涙がこぼれてくる。
「私も、ずっと元気に触りたかったの。こうやって、抱きしめたかったの」
「千夏……」
「だから、元気に触れるのがこんなにうれしい。すごく、嬉しいの。嬉しくて、たまらない」
「……いいの? 俺が、千夏に触れても」
躊躇いがちな元気の言葉に、千夏は力いっぱい頷いた。笑顔に涙が伝った。
「私は、元気にそばにいてほしいの。元気が好き。本当はそんなこと願っちゃいけない相手だってのはわかってるけど。でも、アナタがこの世から消えるときまで一緒にいたい。それが明日なのか、十年後なのか、私の寿命が尽きるまでなのかわからないけど。その瞬間まで、元気と一緒にいたい」
彼と一緒に過ごす時間が長くなればなるほど、心の中に少しずつ降り積もってきた想い。それが、どんどん口をついて出てくる。
迷うように躊躇いながら千夏の背に触れていた元気の腕が、千夏を抱きしめた。
「俺も千夏と一緒にいたい」
「うん。一緒に生きよう。ああ……そうか、元気は死んでるんだった。ううん。それでも、一緒にいよう。これからも」
幽霊と生きている人間。ともに暮らして人生を共にするのは、とても奇妙なことなのだろう。きっと、生きている人間同士のつきあいにはない不便さや不自由さも、これからもたくさんあるだろう。それでも、一緒に生きていきたいと共に願った。
「でも、成仏しそうになったら、ちゃんと成仏してね? 私が元気の未練になって元気が成仏できなくなるとか嫌だからね?」
元気がクスリと笑みをこぼす。
「ああ。わかってる。そのときがきたら、ちゃんと成仏するよ」
だから、いまは。この奇跡ともいうべき巡り合わせを大切にしたかった。
ともに過ごせるときを、大事にしたかった。
(第3章 完)
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