江ノ島の小さな人形師

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空の中で暮らす

潮崎 羽香奈

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 生まれ育った家も、街も、学校も。

 思い出そうとしても何ひとつ、具体的な風景が思い出せない。

 今朝、品川駅から電車に乗った時点ではまだ、記憶していたのだろうけれど。

 風の強い日、巻き上げられて空に消えていく砂埃のように散り散りになって消えてしまったようだ。


「わたしね。
生まれてから今までで、今日がいちばん楽しくて、幸せな一日だった。

葉織くんに会って、ほんの短い時間一緒に歩いたってだけで。

生まれて初めて、『おかえり』って迎えてくれる家に帰ってこれたっていう、たったそれだけのことで……」

 葉織にとってはきっと何でもない一日だっただろう。

 大げさとか、気持ちが重すぎるって、呆れるだろうな。

 わかっていたから、こんな気持ちを口にするのも羽香奈は躊躇ったのだけど。

「そういうことなら……昨日までの全部、忘れたらいいよ。

『潮崎羽香奈』になるまでの何もかも、なかったことにして」

 今度は同情的な眼差しですらなく、ごくごく当たり前のように、そう言ってくれた。

 羽香奈の一番欲しかった言葉をくれて、気持ちを慮ってくれて。

 今までの暮らしの全てを忘れたい。なかったことにしたい。

 「羽香奈」というひとりの人は今日、葉織と初めて会ったあの時に生まれたことにしたい。そんな図々しい願望を否定しない。

「お母さんが事故に遭う前、最後に話した夜に言われたんだ。

羽香奈は今まできっと寂しかっただろうから、大人になるまでオレがそばにいてあげるんだよ、って」

「大人になるまで?」

「オレ達、きょうだいになったんだから。
いつか羽香奈に好きな人が出来て、家を出る日が来るかもしれないから、それまでってことだと思う」

 まさかこんな急にお別れになるなんて思わなかったから、ちゃんと聞けなかったんだよ。

 葉織は無念そうに溢すが、羽香奈は別の意味で残念だった。

 きょうだいになってしまうっていうのは、大人になったらそれぞれ別の家庭を持って、お別れしなきゃいけないってことなんだ。

 いつまでもこの家で、葉織くんと一緒にいられたらいいのに。

 まだ、半日ほどしか一緒にいないというのに、羽香奈は確信していた。

 このわたしに、葉織くん以上に好きになれる人なんているのかしら。

 あまりにも短絡的な思考ではあるが、実際、その直感は将来に渡って外れてはいなかった。


「だから、大人になるまで羽香奈はオレが守るよ。
お母さんとの約束だから」

 まっすぐ羽香奈を見つめてそう宣言する葉織の眼差しはいたって誠実で。

 羽香奈もはっきり自覚した。




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