30 / 44
二十九章 脂肪、それは母の愛に似ている、かも
しおりを挟む
音竹伸市は、すべり台に向かって歩き始めた。
一歩一歩、地面を踏みしめながら。
加藤は、台の上で音竹を待つ。
眼下では、白根澤の心配顔が見える。
音竹の母と伯母は、何やら言い合っているようだ。
風が吹く。
この時間に吹く夏の風だ。
アパートの窓の、黒いバルーンが揺れている。
「先生」
音竹が登り切った。
声が少々震えている。
「怖いか?」
「はい……。想い出したんです、僕。だから……」
加藤はいつの間にか手に、紐を持っている。
「君は、ここで見たんだね」
「はい。だから、僕は落ちた。怖くなって、足を踏み出して……」
「もう一度、確かめて良いか?」
「確かめる……というと、あの時と、同じことが?」
加藤はコクリと頷き、音竹の瞳を見つめる。
「君が嫌なら、止める」
音竹の喉が上下に動く。
「お願い、します」
加藤は手に持つ紐を、ぐっと引っ張る。
アパートの窓で揺れていたバルーンが、ふわふわと公園の方へ飛んで来る。
その時である。
ドゴン!!
アパートから、爆発音が聞こえた。
同時に火柱が、窓を割る。
音竹は、目を閉じ、両手で耳を塞ぐ。
公園にいた人たちも耳を押さえ、蹲る。
音竹の顔色が白くなり、体は芯を失くしたかの様に、足元から崩れる。
加藤は音竹を抱き寄せ、体を支える。
「大丈夫だ。火は消えた」
確かに窓の向こう、複数の人が動いていた。
白煙が上がったので、消火器を使ったのだろう。
立ち昇った炎は消え、煙だけがたなびいていた。
「よ、かった……」
加藤の腕の中で、音竹の力が、ずるっと抜ける。
そうか、こうして、彼は転落したのか。
ならば。
「聞こえてるか?
飛ぶぞ。一緒に!」
加藤は音竹を抱えたまま、すべり台の上から、空中へ飛び出した。
後に、音竹伸市は語る。
「僕はその時、羽が生えたように感じました」
およそ百五十センチからの飛行は、すぐに地面とコンニチハだ。
加藤は四十キロくらいの音竹の体を抱えて、地面に着地が出来るのか!
「せいちゃん、こっちこっち!」
白根澤が大きく両腕を広げて、加藤を呼ぶ。
迷うことなく加藤は、音竹の体を白根澤に任せた。
白根澤以外の、例えば憲章が手を広げていたら、勿論任せなかったろう。
落下した物体を受け止める側には、莫大な力がかかる。
重力とは、べらぼうに偉大なものなのだ。
だが、白根澤の肉体は、重力をものともしない、柔軟なモノで覆われている。
そう。
脂肪である。
彼女の皮下脂肪の容積は、計り知れない。
よって、音竹の落下時の音は、「ドン」でも「ガン」でもなかった。
ボヨン!
あたかも子宮の内部のような、温かく柔らかい物体の上で、音竹は目を開く。
それは、音竹にとって二度目の生誕である。
長い間、頭に巣食っていた靄が、晴れた瞬間でもあった。
「あ、白根澤先……」
「大丈夫よ。あなたも、私も」
加藤は自力で地面に降り立ったので、足の裏がじんじんしていた。
「しんちゃん!」
音竹の母が、駆け寄って、音竹を抱きしめる。
「大丈夫だよ、母さん」
音竹母の横に、伯母の長尾もいる。
「こんにちは。あ、初めましてか。私は長尾亜都子。あなたの伯母さん」
音竹は頭を下げる。
「お名前は、知ってます」
「びっくりしたわよ。いきなり落ちるから」
長尾は加藤を睨む。
「落ちたんじゃない。飛んだのさ」
「アホか、誠作」
「アホだな」
「間違いない」
なぜか蘭佳と長尾は一緒に加藤を貶している。
まあ、いい。
音竹の顔から、憂いの影が薄くなっているから。
「オイこら、お前、養教だったな」
いきなり加藤を「お前」呼ばわりする、男の声が聞こえた。
「こんな、こんな乱暴なことを生徒にするなんて、訴えてやるぞ」
鼻息荒く言う男は、いつもの澄ました顔を赤くした、篠宮であった。
「わ、亘さん」
音竹の母がちょこちょこと走り、篠宮にすり寄る。
「君も君だな。まったく、この公園で何を……」
加藤は下を向いて薄く笑う。
どうやら役者が揃ったらしい。
「この公園だから、だよ。篠宮ドクター」
「何?」
「火事が起こって、占い師が消えて、音竹君がすべり台から落ちた。
全ては、この公園が起点になっているからな」
一歩一歩、地面を踏みしめながら。
加藤は、台の上で音竹を待つ。
眼下では、白根澤の心配顔が見える。
音竹の母と伯母は、何やら言い合っているようだ。
風が吹く。
この時間に吹く夏の風だ。
アパートの窓の、黒いバルーンが揺れている。
「先生」
音竹が登り切った。
声が少々震えている。
「怖いか?」
「はい……。想い出したんです、僕。だから……」
加藤はいつの間にか手に、紐を持っている。
「君は、ここで見たんだね」
「はい。だから、僕は落ちた。怖くなって、足を踏み出して……」
「もう一度、確かめて良いか?」
「確かめる……というと、あの時と、同じことが?」
加藤はコクリと頷き、音竹の瞳を見つめる。
「君が嫌なら、止める」
音竹の喉が上下に動く。
「お願い、します」
加藤は手に持つ紐を、ぐっと引っ張る。
アパートの窓で揺れていたバルーンが、ふわふわと公園の方へ飛んで来る。
その時である。
ドゴン!!
アパートから、爆発音が聞こえた。
同時に火柱が、窓を割る。
音竹は、目を閉じ、両手で耳を塞ぐ。
公園にいた人たちも耳を押さえ、蹲る。
音竹の顔色が白くなり、体は芯を失くしたかの様に、足元から崩れる。
加藤は音竹を抱き寄せ、体を支える。
「大丈夫だ。火は消えた」
確かに窓の向こう、複数の人が動いていた。
白煙が上がったので、消火器を使ったのだろう。
立ち昇った炎は消え、煙だけがたなびいていた。
「よ、かった……」
加藤の腕の中で、音竹の力が、ずるっと抜ける。
そうか、こうして、彼は転落したのか。
ならば。
「聞こえてるか?
飛ぶぞ。一緒に!」
加藤は音竹を抱えたまま、すべり台の上から、空中へ飛び出した。
後に、音竹伸市は語る。
「僕はその時、羽が生えたように感じました」
およそ百五十センチからの飛行は、すぐに地面とコンニチハだ。
加藤は四十キロくらいの音竹の体を抱えて、地面に着地が出来るのか!
「せいちゃん、こっちこっち!」
白根澤が大きく両腕を広げて、加藤を呼ぶ。
迷うことなく加藤は、音竹の体を白根澤に任せた。
白根澤以外の、例えば憲章が手を広げていたら、勿論任せなかったろう。
落下した物体を受け止める側には、莫大な力がかかる。
重力とは、べらぼうに偉大なものなのだ。
だが、白根澤の肉体は、重力をものともしない、柔軟なモノで覆われている。
そう。
脂肪である。
彼女の皮下脂肪の容積は、計り知れない。
よって、音竹の落下時の音は、「ドン」でも「ガン」でもなかった。
ボヨン!
あたかも子宮の内部のような、温かく柔らかい物体の上で、音竹は目を開く。
それは、音竹にとって二度目の生誕である。
長い間、頭に巣食っていた靄が、晴れた瞬間でもあった。
「あ、白根澤先……」
「大丈夫よ。あなたも、私も」
加藤は自力で地面に降り立ったので、足の裏がじんじんしていた。
「しんちゃん!」
音竹の母が、駆け寄って、音竹を抱きしめる。
「大丈夫だよ、母さん」
音竹母の横に、伯母の長尾もいる。
「こんにちは。あ、初めましてか。私は長尾亜都子。あなたの伯母さん」
音竹は頭を下げる。
「お名前は、知ってます」
「びっくりしたわよ。いきなり落ちるから」
長尾は加藤を睨む。
「落ちたんじゃない。飛んだのさ」
「アホか、誠作」
「アホだな」
「間違いない」
なぜか蘭佳と長尾は一緒に加藤を貶している。
まあ、いい。
音竹の顔から、憂いの影が薄くなっているから。
「オイこら、お前、養教だったな」
いきなり加藤を「お前」呼ばわりする、男の声が聞こえた。
「こんな、こんな乱暴なことを生徒にするなんて、訴えてやるぞ」
鼻息荒く言う男は、いつもの澄ました顔を赤くした、篠宮であった。
「わ、亘さん」
音竹の母がちょこちょこと走り、篠宮にすり寄る。
「君も君だな。まったく、この公園で何を……」
加藤は下を向いて薄く笑う。
どうやら役者が揃ったらしい。
「この公園だから、だよ。篠宮ドクター」
「何?」
「火事が起こって、占い師が消えて、音竹君がすべり台から落ちた。
全ては、この公園が起点になっているからな」
0
お気に入りに追加
13
あなたにおすすめの小説
悠々自適な転生冒険者ライフ ~実力がバレると面倒だから周りのみんなにはナイショです~
こばやん2号
ファンタジー
とある大学に通う22歳の大学生である日比野秋雨は、通学途中にある工事現場の事故に巻き込まれてあっけなく死んでしまう。
それを不憫に思った女神が、異世界で生き返る権利と異世界転生定番のチート能力を与えてくれた。
かつて生きていた世界で趣味で読んでいた小説の知識から、自分の実力がバレてしまうと面倒事に巻き込まれると思った彼は、自身の実力を隠したまま自由気ままな冒険者をすることにした。
果たして彼の二度目の人生はうまくいくのか? そして彼は自分の実力を隠したまま平和な異世界生活をおくれるのか!?
※この作品はアルファポリス、小説家になろうの両サイトで同時配信しております。
結婚相談所の闇 だからあなたは結婚できないんですよ……
ノ木瀬 優
キャラ文芸
1話完結型の短編集です。『なぜか』結婚できない男女を何とか結婚に導こうとする相談員春風の苦悩と葛藤をどうぞ、お楽しみください。
※当結婚相談所は日本に近い文化の国にありますが、日本にあるわけではありません。また、登場する人物、組織は架空の者であり、実在する人物、組織とは関係ありません。
An endless & sweet dream 醒めない夢 2024年5月見直し完了 5/19
設樂理沙
ライト文芸
息をするように嘘をつき・・って言葉があるけれど
息をするように浮気を繰り返す夫を持つ果歩。
そしてそんな夫なのに、なかなか見限ることが出来ず
グルグル苦しむ妻。
いつか果歩の望むような理想の家庭を作ることが
できるでしょうか?!
-------------------------------------
加筆修正版として再up
2022年7月7日より不定期更新していきます。
世界を動かすものは、ほかならぬ百合である。
虚仮橋陣屋(こけばしじんや)
ミステリー
ちなみに唐突ですが――皆様『百合』はお好きですか?
県内でも有数のお嬢様学校であるここ私立聖カジミェシュ女子高等学院。そこに通う『あたし』こと嬉野祥子は、クラスメイトの自殺未遂事件をきっかけに、街の片隅に居を構える一風変わった探偵事務所を訪れたのでした。
そこで出会ったのは、かたや絶世の美女で所長を務める姉の『動かざる名探偵』こと四十九院安里寿、かたやシニカルな金髪イケメンでヘビースモーカーの弟、『行動する名探偵』こと四十九院白兎。そこに自ら『ペット』と称する事務所の居候JK・美弥を交え、祥子たちは学院で起こる事件の真相に迫る。そして、二人の名探偵に隠された謎とは……?
百合妄想少女×双子の探偵が織りなす、ライトでポップな探偵物語!
かの子でなくば Nobody's report
梅室しば
キャラ文芸
現役大学生作家を輩出した潟杜大学温泉同好会。同大学に通う旧家の令嬢・平梓葉がそれを知って「ある旅館の滞在記を書いてほしい」と依頼する。梓葉の招待で県北部の温泉郷・樺鉢温泉村を訪れた佐倉川利玖は、村の歴史を知る中で、自分達を招いた旅館側の真の意図に気づく。旅館の屋上に聳えるこの世ならざる大木の根元で行われる儀式に招かれられた利玖は「オカバ様」と呼ばれる老神と出会うが、樺鉢の地にもたらされる恵みを奪取しようと狙う者もまた儀式の場に侵入していた──。
※本作は「pixiv」「カクヨム」「小説家になろう」「エブリスタ」にも掲載しています。
お茶をしましょう、若菜さん。〜強面自衛官、スイーツと君の笑顔を守ります〜
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
陸上自衛隊衛生科所属の安達四季陸曹長は、見た目がどうもヤのつく人ににていて怖い。
「だって顔に大きな傷があるんだもん!」
体力徽章もレンジャー徽章も持った看護官は、鬼神のように荒野を走る。
実は怖いのは顔だけで、本当はとても優しくて怒鳴ったりイライラしたりしない自衛官。
寺の住職になった方が良いのでは?そう思うくらいに懐が大きく、上官からも部下からも慕われ頼りにされている。
スイーツ大好き、奥さん大好きな安達陸曹長の若かりし日々を振り返るお話です。
※フィクションです。
※カクヨム、小説家になろうにも公開しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる