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二十九章 脂肪、それは母の愛に似ている、かも

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 音竹伸市は、すべり台に向かって歩き始めた。

 一歩一歩、地面を踏みしめながら。



 加藤は、台の上で音竹を待つ。

 眼下では、白根澤の心配顔が見える。

 音竹の母と伯母は、何やら言い合っているようだ。



 風が吹く。

 この時間に吹く夏の風だ。



 アパートの窓の、黒いバルーンが揺れている。

 

「先生」



 音竹が登り切った。

 声が少々震えている。



「怖いか?」

「はい……。想い出したんです、僕。だから……」



 加藤はいつの間にか手に、紐を持っている。



「君は、ここで見たんだね」

「はい。だから、僕は落ちた。怖くなって、足を踏み出して……」



「もう一度、確かめて良いか?」

「確かめる……というと、あの時と、同じことが?」



 加藤はコクリと頷き、音竹の瞳を見つめる。



「君が嫌なら、止める」



 音竹の喉が上下に動く。



「お願い、します」



 加藤は手に持つ紐を、ぐっと引っ張る。

 アパートの窓で揺れていたバルーンが、ふわふわと公園の方へ飛んで来る。





 その時である。

 

 ドゴン!!

 アパートから、爆発音が聞こえた。

 同時に火柱が、窓を割る。



 

 音竹は、目を閉じ、両手で耳を塞ぐ。

 公園にいた人たちも耳を押さえ、蹲る。



 音竹の顔色が白くなり、体は芯を失くしたかの様に、足元から崩れる。

 加藤は音竹を抱き寄せ、体を支える。



「大丈夫だ。火は消えた」



 確かに窓の向こう、複数の人が動いていた。

 白煙が上がったので、消火器を使ったのだろう。

 立ち昇った炎は消え、煙だけがたなびいていた。



「よ、かった……」



 加藤の腕の中で、音竹の力が、ずるっと抜ける。

 そうか、こうして、彼は転落したのか。



 ならば。



「聞こえてるか? 

飛ぶぞ。一緒に!」



 加藤は音竹を抱えたまま、すべり台の上から、空中へ飛び出した。





 後に、音竹伸市は語る。



「僕はその時、羽が生えたように感じました」





 およそ百五十センチからの飛行は、すぐに地面とコンニチハだ。

 加藤は四十キロくらいの音竹の体を抱えて、地面に着地が出来るのか!



「せいちゃん、こっちこっち!」



 白根澤が大きく両腕を広げて、加藤を呼ぶ。

 迷うことなく加藤は、音竹の体を白根澤に任せた。





 白根澤以外の、例えば憲章が手を広げていたら、勿論任せなかったろう。

 落下した物体を受け止める側には、莫大な力がかかる。

 重力とは、べらぼうに偉大なものなのだ。



 だが、白根澤の肉体は、重力をものともしない、柔軟なモノで覆われている。



 そう。

 脂肪である。

 彼女の皮下脂肪の容積は、計り知れない。



 よって、音竹の落下時の音は、「ドン」でも「ガン」でもなかった。



 ボヨン!



 あたかも子宮の内部のような、温かく柔らかい物体の上で、音竹は目を開く。

 それは、音竹にとって二度目の生誕である。

 長い間、頭に巣食っていた靄が、晴れた瞬間でもあった。



「あ、白根澤先……」

「大丈夫よ。あなたも、私も」



 加藤は自力で地面に降り立ったので、足の裏がじんじんしていた。



「しんちゃん!」



 音竹の母が、駆け寄って、音竹を抱きしめる。



「大丈夫だよ、母さん」



 音竹母の横に、伯母の長尾もいる。



「こんにちは。あ、初めましてか。私は長尾亜都子。あなたの伯母さん」



 音竹は頭を下げる。



「お名前は、知ってます」



「びっくりしたわよ。いきなり落ちるから」



 長尾は加藤を睨む。

 

「落ちたんじゃない。飛んだのさ」



「アホか、誠作」

「アホだな」

「間違いない」



 なぜか蘭佳と長尾は一緒に加藤を貶している。



 まあ、いい。

 音竹の顔から、憂いの影が薄くなっているから。



「オイこら、お前、養教だったな」



 いきなり加藤を「お前」呼ばわりする、男の声が聞こえた。 



「こんな、こんな乱暴なことを生徒にするなんて、訴えてやるぞ」



 鼻息荒く言う男は、いつもの澄ました顔を赤くした、篠宮であった。



「わ、亘さん」



 音竹の母がちょこちょこと走り、篠宮にすり寄る。



「君も君だな。まったく、この公園で何を……」



 加藤は下を向いて薄く笑う。

 どうやら役者が揃ったらしい。



「この公園だから、だよ。篠宮ドクター」



「何?」



「火事が起こって、占い師が消えて、音竹君がすべり台から落ちた。

全ては、この公園が起点になっているからな」
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