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家名を守るの、貴族だから

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 ユリカの婚約者であるジュネシスの、恋心を踏みにじった女性。
 その名が、アナベラだった。
 ユリカの胸に走る、鈍い痛み。

「ええと、アナベラ様は、ジュネシス様の弟である、ライル様とご成婚されたのでは?」

「したわよ。それが何? ライルは捕まって帰って来ないから、もうすぐ離婚するのよ。だから、元々の婚約者だったジュネシス様と、もう一度やり直すのよ、わたし」

 めちゃくちゃだ。ジュネシスを傷つけたことなど、完全に忘れ去っているようだ。
 『頭と股がゆるゆる』と評されることはある。

 しかも何?
 ライル様が、捕まった?
 ユリカには全く意味不明である。

 
 アナベラの顔つきは、確かに美しかっただろう。
 でもそれはきっぱりと、過去形だ。

 かつて男性を虜にしたはずの瞳は、血走って吊り上がっている。
 肌に艶はなく、どんなに化粧を施していても、目の下の隈が隠せない。

 この世の者ではないような風体……。
 それが今のアナベラである。


「申し訳ないですが、ジュネシス様はわたしと間もなく結婚いたします」
「知ってるわ」

 アナベラの碧色の目が、冷たく光る。

「でも、ジュネシス様の隣に、あなたのような地味で冴えない女は似合わない。ドーマン夫人だって、きっとそう思っているわ」

 ユリカの胸に、楔が打ち込まれる。
 それは一番ユリカが気にしていることだから。

 ジュネシスの母、ドーマン夫人はライル贔屓と聞いた。
 家令から、領地経営の手ほどきを受けた後に、夫人からは伯爵家のしきたりなどを教わっている。
 プラチナ色の髪と青い瞳のドーマン夫人は、ユリカに対していつも冷ややかだ。
 言葉数が至って少ない。

 きっと、嫡男の嫁として、満足していないのだろう。
 特に、見た目が……。


 固まるユリカに、アナベラは益々居丈高になる。

「だいたい今着てるドレスだって、ジュネシス様から貰ったんでしょう? 元々は私の物だわ。寄越しなさい!」

 血管が浮き出る腕を伸ばすアナベラは、目だけは爛々と光っている。

 怖い。

 後ずさるユリカの袖を、アナベラは掴む。
 爪が長い。

 布を裂く音が響く。
 思わずユリカは叫ぶ。

「止めてください! わたしはドーマン家嫡男の妻になる者ですよ! 控えなさい!」

 それがユリカの精一杯の矜持だ。

 怖いけど。
 相手をしたくないけど。

 貴族は家の名を、守らなくてはいけないのだ。

「うるさいうるさいうるさい!!!」

 髪を振り乱し、ギリギリと唇を噛むアナベラは、ユリカの顔を狙って爪を伸ばす。
 まるで肉食の獣のように。

 引っかかれる!

 ユリカは目をぎゅっと瞑った。

 瞑ったのだ……。

 あれ?

 衝撃も、痛みもない。


「そこまでだ。アナベラ嬢」

 聞き覚えのある声だった。
 一番聞きたいようで、聞きたくないようでもある声だ。
 あ、でもやっぱり聞いていたい。


 息を切らせながら、ジュネシスがアナベラの両腕を押さえていた。

「ジュネシスさまあ」

 急に声色を変え、しなだれかかるアナベラを護衛に任せ、ジュネシスはユリカを抱き寄せる。

「すまない。当家の失態で、また君に、怖い思いをさせてしまった」

 未だ体が震えているが、ユリカは無理やり微笑んだ。

「だい、大丈夫です。それに……あなたの『当家』の一員に、わたしも間もなく加わりますので」

 精一杯背伸びするユリカの姿に、ジュネシスの心臓は大きく跳ねた。
 もう一度、ジュネシスはユリカを抱きしめた。

「君を襲った男たちが吐いた。弟の、ライルからの依頼であったと。ライルは捕縛され、現在取り調べを受けている。重ね重ね、すまない」

 話を聞いたユリカは、ジュネシスの上着をぎゅっと握った。
 
「ジュネシス様! わたしもライルに無理やり襲われたんです! 心はいつでもあなたのもの……」


 護衛に連れ出されるアナベラは、いろいろ叫んでいた。
 ただその言葉によってジュネシスが、惑わされたり絆されたりすることは、一ミリたりともなかったのである。
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