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24.ピアノへの熱意
しおりを挟むそれから数日、アンジェはずっとピアノの前に座っていた。
母屋のサロンは防音が効いてるから、そこに入り浸ってティアと母から代わる代わる教えて貰ってるらしい。
その熱意はティアがちょっと引くくらいのもので。
「アンジェお姉さまはすごく熱心にピアノの練習をしてらっしゃいますよ。
お兄さまが仕事に行ってる間、ずっと。
とっても上手になるのが早くて私が直ぐに追い抜かれちゃいそうなんです」
アンジェは、今まで自分で何かを表現することが出来なかった。
文字の読み書きは出来ないし、上手く話すことも出来ない。
でも、ピアノなら見えていなくても音と指先の感覚を頼りに弾けるのだ。
アンジェは生まれて初めて他の人と同じように出来ることを見つけたのだった。
「セトスさま、わたし、ちょっとだけ、ピアノがじょうずに、なりました。
もっともっと、じょうずになったら、聴いてね」
「ティアからも聞いてるよ。
頑張って練習してるんだってね。
音楽だけじゃなくて、なんでも、練習すればした分上手くなるから、頑張って。
練習中の曲でもいいから、聞かせて欲しいな」
「聞いて、くれる?」
「もちろん」
「あした、やすみ?」
「ちょっと朝から出かけるけど、昼前には戻ってこれると思う」
「じゃあ、あしたね。
帰ってきたら、ピアノのへやに、きて」
「ありがとう。楽しみにしてる」
えへへ、とちょっと照れたように笑うアンジェがかわいかった。
*****
翌日。
用事をとっとと終わらせて家に帰り、サロンに行くと綺麗なピアノの音が流れていた。
俺がドアを開ける前にピアノの音が止まってしまったのがちょっと残念だったけど。
「セトスさま、おかえりなさい!」
なかなか見れないくらいの笑顔でアンジェが迎えてくれた。
ピアノが、本当に楽しくて仕方ないんだろう。
……毎日このアンジェとピアノの練習をしてる母とティアがちょっと羨ましい。
「ただいま。練習は上手く進んでる?」
「うん! いっぱい、おしえてもらってる」
「よかったな。ティアも、ありがとう」
「いえいえ。お姉さまは覚えるのが早いですから、教えていても楽しいですよ?
もう少ししたら簡単な曲で連弾できそうですから、楽しみです!」
「そう言ってくれるなら、良かった。頼むな」
ティアの頭をぽんぽんと撫でてやると、ちょっと嬉しそうにしてくれたものの、困惑気味だった。
アンジェが喜んでくれるからよくやるが、ティアにしたら子どもでもないのに、って思ったんだろう。
まあ、それは置いておいて。
「じゃあ練習の成果を聞かせてもらおうかな」
ちょっと昼前でお腹も空いてるし、お茶とお菓子を食べながらアンジェの演奏を聴くのは至福のときだった。
さすがに練習を始めて数日だから、ミスも多いし簡単な曲ばかりだけど、俺が知ってる曲も多くてとても楽しかった。
でも、アンジェは納得出来ていないようで。
「ううー、しっぱい、多かった」
「やっぱり誰かが見てると思うだけで少し緊張してミスがふえますからね」
「セトスさまに、じょうずなとこ、見せたいのに」
「上手く弾こうとか、ミスしないように、って思えば思うほど失敗が増えるんですよ」
アンジェは人に慣れていないし、誰かの前で何かをして見せるのは初めてだから、普通よりも緊張してしまうんだろう。
「別に俺はアンジェが上手に弾くのをみたいんじゃないから、そんなに緊張しなくて大丈夫だよ。
普通に練習してて」
「……うん、わかった」
ちょっと不思議そうな顔をされたけどそのまま練習に戻った。
ティアが一度手本として弾いてからそれを真似て弾くのを繰り返す。
アンジェは読み書きが出来ず、記録として残せない代わりに記憶力がとてもいい。
すべてを覚えるのが当たり前だからその能力が上がったんだろう。
昼過ぎまでそうしてふたりの楽しそうな練習風景を眺めていた。
「私は一旦お昼ご飯を食べてきますね」
そう言ってティアが部屋を出ると、
「はーい。待ってるね」
一緒にご飯を食べると思って待っていたんだけど、アンジェはまだ食べないようだ。
「アンジェはご飯食べないのか?」
「あんまり、おなか、すかないから。
今までも、おひる、たべたことなかったし」
「そりゃあ、今まではほとんど動いてなかったからお昼ご飯食べなくても大丈夫だったかもしれないけど、今はピアノ弾いたりしてるんだから、しっかり食べないと弱るぞ?」
「でも、ピアノ、ひきたい」
「それはダメ。ご飯食べないなら練習もなし」
「えぇー……わかった、食べます」
半ば引きずるようにピアノの前から別棟のダイニングに連れて行く。
「あら、今日はお嬢様もお昼をお召し上がりになりますか?」
出迎えたイリーナは少し驚いていた。
「だよね? やっぱり、ごはん、いらないよ」
「ダメだって言ってるだろう?
動いた分、食べないと身体に筋肉が付かないよ」
「いいもん。ピアノは、弾けるから」
子どもかっ!
ってツッコミそうになったけど、アンジェの思考回路は結構子どもに近いのを忘れてた。
自己管理なんてできないし、しようと思ったことすらないだろう。
「イリーナ、これからは毎日きちんと昼も食べさせるように」
「かしこまりました」
食べたくないとダダを捏ねていたアンジェだが、テーブルにつかせると案外食べた。
「お腹が空いてなかったとしても、ちゃんと食べないといろんなことが出来るようにならないよ?」
「ピアノ、たのしいから」
「アンジェがピアノにハマってるのも分かるし、すごく楽しいんだろうな、とも思う。
でも、俺は他のことも出来るようになって欲しい」
「ほかのこと?」
「立つ練習がちょっと疎かになってるみたいだし」
ちょっと、バツが悪そうに下を向いた。
「全部を完璧にするのは無理だと思うよ。人間なんだし。
でも、俺はアンジェと一緒にピクニックに行ったり、カフェでケーキを食べたりしたい。
このままだったら、アンジェはピアノがあったら俺なんて要らなくなりそうだし」
「そんなことない!」
慌てたようにアンジェが叫んだ。
今までに聞いたことがないくらいの大声に、少し驚いた。
「ごめん、なさい。れんしゅう、ちゃんと、します。
ピアノは、やりません」
しゅん、と項垂れるアンジェ。
「ごめん、言い過ぎた。
アンジェに、ピアノをして欲しくないなんてことは、絶対にない。
ピアノの練習はしてほしいんだ。
でも、そればっかりではダメだってこと。
ずっと練習に付き合ってくれてるティアにだってやることはあるんだしね」
「うん……ごめん、なさい」
「謝らなくていいんだよ。
アンジェは知らなかっただけなんだから。
これから色んなことを学べばいい」
こくこく頷くアンジェはちょっと安心してくれたみたいで、さっきまでのような引き攣った表情ではなかった。
「時間を決めて、何を練習するのか考えような」
「きめたら、ピアノ、しても、いい?」
「もちろんだよ。
俺の言い方も悪かったから。ごめんな。
何かに一生懸命になれることはアンジェの良いところだと思うから、ピアノも頑張ってほしい。
けど、俺はアンジェと一緒に出掛けたいから、歩けるように練習してほしい」
「わかり、ました! 頑張る!」
今回は俺の言葉の選び方がアンジェを傷つけてしまったな。反省。
でも、俺の思いは分かって貰えたし、機嫌を直してパンをかじってるから、いいとしよう。
「じゃあ、おひるからは、あるく、れんしゅうね?」
ふわふわの笑顔でそう提案してくれた。
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