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第2章 ピアノコンクール編

21 ソフィアとの秘密

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  暗闇の中、俺は袖幕の陰に身を隠していた。
  
  ソフィアの素晴らしい演奏を最後まで聴いていたかったからだ。
  
  美しい和音の響きはクライマックスへと向かい、最後の一打が放たれる。
  
  怒涛の拍手喝采が天に登る勢いで湧き上がった。
  
  ソフィアの演奏が終わったようだ。
  
  つられて拍手してしまう。
  
「素晴らしい……。別次元の演奏だ」
  
  俺は自分の演奏をはるかに超えた別次元の存在に賞賛の念を抱いた。
  
  すると、
  
  コツ、コツ。
  
  ヒールの音が近づいてくる。
  
  ソフィアがこちらへ歩いてくる。
  
  俺はこのまま隠れてソフィアが通りすぎるまでじっとしていた。
  
  ふう……。

  俺は一息ついた。
  
  と、その時。
  
  ドタッ!
  
  鈍い音が暗闇の中に響く。
  
  おそるおそる袖幕から顔を出して外の様子をうかがうと……。
  
  まず、目に飛びこんできたのは、紺色のドレスから伸びる女の足だった。
  
  スカートがめくれあがり太ももがあらわになっている。
  
  ドキっとした!
  
  俺の心臓は早鐘を打ち鳴らす。
  
  うつ伏せで倒れているソフィアは起き上がりそうにない。
  
「おいおい、どうなってるんだ……」

  意を決してソフィアに近づいた。
    
  ソフィアは穏やかな表情をしていた。さらによく見てみると、背中の空いたドレスからのびる首筋が美しかった。
  
  女からしか放たれることにない甘いミルクのような香りが鼻を打つ。
  
  俺はゴクリと唾を飲みこんだ。
  
「ダメだ!」

  倒れている女に興奮してどうする!
  
  と、心のゆれをいさめた。
  
「ソフィアさん!  聞こえますか!」

  ソフィアの肩を叩く。
  
  反応がない。
  
  体はぐったりとして、まるで動かないマネキン人形のようだ。
  
  ソフィアは意識を失っているようだ。
  
  まずいな……。
  
  そっと手のひらをソフィアの口もとにあてる。
  
  吐息が手にあたる感触があった。
  
「よかった。息はしている」

  どうやら眠っているだけのようだ。

  ソフィアの頬を容赦なく叩く。
  
「ソフィアさん!  聞こえますか!」

「んん……」

  ソフィアが痛がる表情をみせた。
  
  だが、なかなか目を開けようとしない。
  
  すると、小さく何やらつぶやいた。
  
「おじいちゃん……。ありがとう……」

  ん?  おじいちゃんとはなんだ?  
  
  ソフィアはぐったりとして起きる気配がない。
  
  このまま放置してはおけないな……。
  
「よいっしょっと!」
  
  俺はソフィアの膝下と肩に手を伸ばすと抱き寄せ立ちあがった。
  
  お姫様抱っこだ。
  
  ソフィアを抱えて薄暗い通路を歩く。
  
  ソフィアの体は軽いと感じた。
  
  筋肉を鍛えていてよかったと思った。
  
  非常用出口を知らせる緑色の電光がソフィアの顔を照らす。
  
  腕から伝わる振動でソフィアは少しづつ目を覚ましはじめた。
  
「う、うう……」

  ソフィアの目がゆっくりと開いた。
  
「わ!」
  
  目を丸くして驚いている。
  
  たしかに、目覚めたら男にお姫様抱っこされているこの状況は、誰でもびっくりするだろう。
  
「ミスター……ミサオ?」

  俺はソフィアを抱きよせて顔色をみようとした。
  
  すると、見つめ合う形となり、なんとも甘い空気が漂う。
  
  俺はソフィアを抱いたまま自分の控え室を通り過ぎた。
  
  隣のソフィアの控え室の扉ハンドルを開けると入っていった。
  
  控え室はエアコンが効いており冷えていた。
  
  寒気がしたソフィアがギュッと俺の首に手を回してくる。
  
  俺は近くにあった二人掛け用の椅子にソフィアを寝かせるように下ろした。
  
  だが、ソフィアの腕は俺を離そうとしない。
  
  俺の首に手を回して誘いこもうとしている。
  
「ミサオ……。すいません。このまま少しだけ、お願いします」

「え?」

  俺は言葉が出てこない。息が詰まる。
  
「少しだけ……このまま……」

  ソフィアはそういうと、目を閉じて何かを待っている仕草をした。
  
  これは、たぶん、あれを待っているな……。
  
  俺は潤いのあるソフィアの唇に少しだけ、触れる程度のキスをした。
  
  ソフィアの体が震えた。

  ふと、我にかえる。
  
  俺は何をやっているのだ? 
  
  ソフィアを抱きしめながら、この状況を思考した。

  女の魅力がまだあどけないソフィアだが、体は最高に仕上がっている。
  
  いい女だ。
  
  彼女の言葉を思い出す。
  
「少しだけ……そのまま……」
  
  ソフィアは心の奥底で何を望んでいたのだろうか?
  
  そして、俺はソフィアに言いたいことがあったはずではなかったか?
  
「ソフィア」
  
「あ、はい!」

「演奏素晴らしかったよ。優勝はきっとソフィアだ!」

  ソフィアは目を閉じて泣きそうな表情をした。
  
「あ、ありがとう。でも……。違うんです……」

  首を横にふるソフィアはさらにきつく俺を抱きしめた。
  
「あの演奏は、私ではないんです!」

「え?」

「あの演奏は……。私のおじいちゃんなんです!」

「え!  おじいちゃん?」

「はい、わたしの変わりに演奏をして天国に召されました」

「はい?  天国って、死んだ人がいくところの?」

  俺は天を仰いだ。

「はい」

  信じられない……。
  
  死んだ人間が生きた人間に転生するなど……。
  
  理解しがたい現象だ。

  と、その時。
  
  トゥルルルル。

  部屋の内線電話がけたましく鳴った。
  
  ソフィアは立ち上がりドレスを整えると受話器をとった。
  
「はい、はい、今行きます」
  
  ソフィアは満面の笑みで俺の方を向いた。
  
「もうすぐ表彰式が始まるそうです」

  俺はソフィアの言葉に冷静になり衣服の乱れを整える。

  ソフィアは俺を見つめてもじもじしている。
  
「あ、あの……。よかったら連絡先交換しませんか?」

  俺はソフィアの提案に明るい未来の兆しを予感させた。
  
「うん、もちろん!」

  ソフィアはほっと胸をなでおろすと微笑んだ。
  
  ロッカーの暗証番号を解除し、鞄からスマートフォンを取り出す。
  
  俺から携帯番号を聞くと、ワンコールして登録した。
  
「ありがとう。後でメールするよ」
  
  俺は右手の親指を立てた。
  
  ソフィアと俺は目と目を合わせて微笑みあった。
  
  甘い香りをほのかに残しながら控え室を出た。
  
  ソフィアは歩きながら俺に顔をむける。頬が赤く染まっていた。
  
  そして、右手の人差し指を立て、優しく唇に触れ、
  
「秘密だよ」

  と、ささやいた。
  
  俺はドキッと心が弾んだ。
  
  なんとも言えない幸せな気分に心が満たされる。
  
  俺は恋に落ちていたのだ。
  
  と、思いふけることができたのは随分と後になってからであった。
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