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第三章 天職はセラピストでした

7 グッバイ……モデル人形くん

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 昼休憩も終わり施術室に向かっている理音。
 すると廊下で一人の男性とすれ違った。きっとモデルの人だ、と理音は察した。
 背が高くてスリム、顔はシュッとして顎が尖っている。
 たしかに日本人離れしたイケメンだった。
 
 こんな人をマッサージするのか……はぁ、とため息をつく理音は下を向いた。
 そのまま施術室に入る。希美はすでスタンバッて待っていた。
 
「さぁ、背中をやるわよ! もう今日で研修はマスターしますからねっ」
「は、はい!」

 理音はビシッと背筋を伸ばした。
 希美は右手のひらを浮かせて隣の部屋を示す。
 隣では本物の男性を練習台にして施術している最中だろう。
 先ほどすれ違った男性の顔が、理音の頭に浮かんだ。

「モデルの人が明日までしかいないのよ」
「あ、そうなんですか」
「まぁ、最初に施術するならイケメンがいいだろうって社長が気前よくモデルさんを用意してくれたけど……別に立花さんは関係ないでしょ?」
「はい……私は別にイケメンじゃなくてもいいです」
「だったら私を練習台にすればいいのにね~うふふ」
「はぁ……でもそれだと、男性のお客様への練習にならないんじゃ?」
「そうなのよ……みんなそういって反対するのよね……とにかく今日中に立花さんの研修をマスターさせなさいって社長から命令されたの……わかった?」
「はい!」

 男をマッサージするのも不安だが、希美さんをマッサージするのはもっと不安だ、と思う理音だった。
 そうはいうものの、希美の指導は的確かつ実践に即したものだった。
 すぐに即戦力になるように、と社長から命令が下っていたらしい。
 話を聞くと、社長も女性で年齢は五十代。当初は寂れた町のしがない薬屋からスタートしていた。細々と病院からの医療薬を処方する仕事をもらって生計を立てていたが、社長はこれではいずれもっと大きなドラッグストアが近所にできたら、うちみたいなちっぽけな薬屋は潰れてしまう。そう考えたらしい。そこで大好きな化粧品の販売に着手した。だが失敗の連続だった。粗悪な化粧品会社に騙されたり、エステの講習に行けば授業料に法外な値段を請求され、ぼったくりの被害を受けた。そんな経験を積んだ社長はさらに考えた。だったら自分で化粧品を作って、エステは独自で学んでやるわと意気込み、単身イギリスに飛んだ。そこで衝撃的な真理を知った。
 
 すべての物は、天然か人工かのどちちかである、と。
 
 対する、化粧品はどちらが人間にとって良いものであるか。
 そういったことをトコトン探究して、今の会社『サロン・ド・テラ』がある。
 ここまで締めくくると、希美は、そしてこれからの時代は……と呟いた。
 
「男も化粧したり、癒されたりする時代がくる」

 だから私たちはメンズアロマの事業を立ち上げたってわけ、と声を上げた。
 理音はその話を聞きながらも、モデルくん人形をせっせとマッサージしていた。
 すると、理音はなんとなく、施術するヒントを掴んだ。
 
「あ! 希美さん! 私、話を聞きながらの方が恥ずかしがらずにできます!」
 
 希美は、なるほど、と拳で手のひらを打った。

「それならお客様に話をさせるか、または施術室に流れるBGMに耳を傾けるのもいいかもね、本番はぜひそうしなさい」

 と希美はアドバイスしてくれた。
 気づけば、理音の動きはだいぶ様になっていた。
 背中の施術に関しては、違う! と訂正する指導は必要なくなった。
 よし、これならテストをしてみようと思い、希美はタイマーをセットした。
 
「45分全身コース、スタート!」

 理音は一生懸命モデルくんにアロママッサージを施術した。
 施術室にはクラシックが流れていた。ショパンのノクターンだった。
 その音楽性は心に豊かな感動と、さわやかな癒しの気持ちを生んでくれた。
 そしてアロマの香りと共に、理音の感性はさらに研ぎ澄まされていった。
 体の動きは、希美のスパルタ的な反復練習のおかげで、理音は目を閉じていても体が勝手に動いた。
 触れているだけで、体の構造が手に取るようにわかった。
 今触れているのはふくらはぎだから、その上に膝の関節があって、さらに上には太もも、その上には臀部がある……。
 といった具合に、先の行動に予測が立てられていた。
 施術スピードも申し分なかった。もともと理音は運動神経は悪くなかった。
 教えてもらえばある程度何でもこなせたのだ。ただ自主性がなかっただけだ。
 今は、水を得た魚のように体を動かしている。
 
 結果は……。

 ピピピピッ、ピピピピッ!
 
「はいストップ」

 希美が顔を上げた先には、理音が施術を終えてタオルを片付けていた。
 合格だった。研修マスターだ。
 とりあえず理音は、モデルくんを卒業することができた。
 
「グッバイ……モデルくん」



 理音は別れの挨拶をした。
 無表情のモデルくんだが、どこか微笑んでいるように見えた。
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