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第2章 海の巡礼路(西洋編) フランシスコ・ザビエル

海はひらかれていく 1540年 ローマ、ポルトガル

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<フランシスコ・ザビエル、教皇パウロ3世、ポルトガル大使マスカレンニャス、エンリケ航海王子、ジョアン2世、バルトロメウ・ディアス>

 私はみずから志願し、イニゴの命を得てローマからポルトガル・リスボンへの旅に出ることになった。

 これは私の人生でもっとも大きな決断だった。そうだな、パリ大学への進学を決めたこと、イニゴに付いて修道会を結成することにしたことも大きな決断ではあったが、それもこのときのための準備だったように思えるのだよ。
 ローマで粛々と秘書の仕事をしていたのが、いきなり翌日にはポルトガル、いや、場合によってはその先の新天地に赴くことになるのだ。これ以上に劇的な変化はなかなかないのではないか。

 3月14日、私はそれをじっくりと考えることなく決めた。出発が翌日に迫っているのに、そんな時間があるはずもない。ただ、ニコラ・ボバディリャが熱を出すという偶然も含めて、これが私に課せられたミッション(使命)なのだと……自然の成り行きであるように思えたのだ。

 私はアルフォンソ・サルメロンに早速自分の仕事の引き継ぎをした。
 アルフォンソは申し訳なさそうに言う。
「フランシスコ、私が行った方がよいのでは……? あなたの仕事を私が任されるよりもその方が……」

 私はそれを聞いてふっと笑みをこぼしてアルフォンソを見た。

「アルフォンソ、私は一つ気づいたことがある。私たちはパリを出てから、初めてのことばかりしてきただろう。あなたはカスティーリャを出てからかもしれないが」

「そうですね」とアルフォンソは答える。

「私は……何と言ったらよいのだろう。初めてのことに飛び込むのが嫌ではない。人と同じ道、誰かがすでに通った道はあまり面白いとは思えない。大昔、アレクサンドロス大王に憧れていたから、そのせいかもしれないが、簡単にいえばまだ子供の部分が多分にあるのだ」

 私の言葉にアルフォンソは同意する。
「そうですね、フランシスコ。それは認めます。イタリアに入ってぬかるみのひどい道で立ち往生しているとき、あなたは真っ先に進んでいった。あれはアレクサンドロス大王のようでしたね。腰まで泥だらけになりながらまっしぐらに進んで、足を取られて転んだ。それを見た私たちは、たとえ格好が悪くとも裸足になり、服の裾を思い切りたくし上げ、いきなり深みにはまらないよう、慎重に進むべきだという教訓を得たのです。あれは、剣を持たない十字軍にふさわしい行軍でした」
 アルフォンソは笑う。それは例えとしてどうかと思うのだが……まあいい。

「楽しい旅だった」
「そうですね」

 アルフォンソとの引継ぎは深夜まで続いた。
 イニゴは起きていたようだったが、ずっと部屋から出てこなかった。

 翌日、3月15日、ポルトガルのマスカレンニャス大使とともに教皇パウロ3世に謁見(えっけん)する。ローマを出る前のあいさつということだ。私はティベレ川にかかる橋の向こうに聳(そび)える広大なカスタル・サンタンジェロを眺めた。
 空は青かった。鳥のさえずりがよく聞こえる。
 いつの間にか、ローマも私のふるさとになっていたようだ。

 私たちの日々は、小さい画布にどんどん色を重ねるようなものだった。そのうちに画布も大きくなり、絵具もたくさん必要になった。

 ローマも巨大な画布のようなものだ。人によって作られたのだ。

 この美しい景色もしばらくは見られないと、少しだけ感傷的になったのかもしれない。

 パウロ3世は私の姿を見て、「フランシスコ・ザビエル、あなたが行くことになったのか」と仰った。

「はい、ポルトガルに向かう役割を命ぜられ、たいへん光栄に感じております」

 私はそう告げた。教皇はうなずいて、少し遠い目になった。
「昔は、外の世界に躊躇(ちゅうちょ)なく飛び出していく者が多かった。馬を駆り、船に乗り、どこまでも突き進んでいった。そう、古代のアレクサンドロス大王のように。今、果敢な挑戦をする者は海にしかいないかもしれない。あなたもそのような道を行くだろう。そう、あなたの一歩はあなただけの一歩ではない。後にたくさんの者が続くであろう一歩だ。楽な道ではないが、くれぐれも身体を大事にしなさい。神のご加護を」

 謁見が済んだあと、ポルトガル大使マスカレンニャスが少し感傷的になっている私を見て、微笑んで言った。
「このあと、私の同行者と合流しなければならないのですが、その前にサン・ピエトロ聖堂を見ていきませんか。知り合いの枢機卿(すうききょう、すうきけい)が付き合ってくれますよ」

 私は喜んで同意した。サン・ピエトロ聖堂の中をゆっくり見る機会などこれまでになかったのだ。



 サン・ピエトロ聖堂については、ルターの贖宥状販売の話をした。

 この頃にはまだ新聖堂の建造は始まっておらず、それ以前に設計すら決まっていなかったのだ。これは1527年の「ローマ劫略」などの影響もあっての遅延だった。高名な建築家ブラマンテ、ラファエロの助手サンガッロ、そしてラフェエロ本人が設計案を出していたのだが、まだまだ結論は出ないようだった。ラファエロは1520年まで設計案を練っていたが、若くして亡くなってしまった。そこでいったん止まってしまったのだ。

 聖堂に入ると、ひとつの彫刻が私の目を引いた。

 いや、その彫刻は私を圧倒した。死せるイエス・キリストを膝に抱くマリア。斃(たお)れたイエスの力のない腕、傾いた頭、それを抱くマリアの濡れた衣服、悲痛の表情、左手の震えるようなしぐさ。絵にはない、生身の人間の感触がそこにあった。

 イエス・キリストの受難を伝えてあまりある表現力だと感じたのだよ。マスカレンニャスは言った。

「あぁ、これはミケランジェロ・ブォナローティがまだ若い頃の作品です。素晴らしいとしか表現できません。これほどのものは誰にも作れないでしょう。ミケランジェロはこれをある枢機卿の依頼で制作したそうですよ」

 ローマを去る私にとって、僥倖(ぎょうこう)とも言える出会いだった。

 アントニオ、今の私をマリアは抱いてくれるのだろうか。あのイエスを抱いている姿で。
 苦しい……身体が自分のものではなくなっていくようだ。


 しかし、私にはまだ語らなければならないことがある。


 アントニオ、あなたはたくさんのポルトガル人を知っているだろう。いや、あなたが知っている西洋人の大半がポルトガル人だろう。私も、ローマを発ってポルトガルに行く道中でマスカレンニャスと話しながら、ポルトガルについて学んだのだ。その点、今のあなたよりもはるかに知識が劣っていたと思う。ポルトガル語も話すことができなかったのだから。


 ポルトガルのことについて話そう。

 イベリア半島の西側にあるポルトガル、この国はイスラム教徒の侵略とカスティーリャ王国の干渉に長く悩まされてきた。

 レコンキスタが終わり、イスラム教徒から解放されたのはカスティーリャやアラゴンよりも早い。13世紀の終わりには独立国家の体制を整えはじめている。しかし、隣接するカスティーリャ王国(現在のスペイン)の動きを常に牽制(けんせい)しなければならなかった。14世紀に入ると、ポルトガル王はブリテン(イギリス)と政略結婚によって同盟を組み、国力の安定をはかった。その成果もあって、同世紀末にはカスティーリャとも和平条約を結ぶことに成功し、独立国家としての基盤は固まった。

 国力の安定、増強に必要なものは何か、簡単に言ってしまえば富、資源、人ということになる。しかし、ポルトガルの国土は大きいとは言えない。隣のカスティーリャと比べて見れば一目瞭然だ。それならば海に出るしかない。
 ポルトガルの首都は1255年、内陸のコインブラから海沿いのリスボンに移されているが、これが海洋国家として舵を切る本格的な一歩だったともいえる。

 15世紀になると、国王ジョアン1世は海峡をはさんだ対岸のアフリカに目を向ける。
 モロッコの都市セウタ(現在はスペインの飛び地領)の侵略に着手したのである。1415年のことだった。
 ジョアン1世は200隻の船、2万人の将兵をセウタに送り込んだ。不意の急襲に虚をつかれた為政者、住民たちは大混乱に陥り、一夜にしてセウタを明け渡した。ポルトガル軍はこの地に城砦を築いたものの、結果的に侵略するには至らなかった。

 アントニオ、ポルトガルはこの後ずっとこの方法を取ることになる。

 進出した地に商館などの貿易拠点を築く。そこから領地拡大のための侵略はしない。してもごく限られた範囲だろう。領地を獲得した場合、その維持に多大な費用がかかるのはもちろん、現地での反乱などが起こってしまったらさらに人と軍備、金を費やさなければならない。何しろ船で遠征していくだけでも膨大な費用がかかるのだ。それだけの潤沢な金がポルトガルにあったか、いや、ない。

 ポルトガルが求めていたのはあくまでも、「海」だった。

 制海権を得るために、拠点を次々と増やしていったのだ。そこがスペインのイザベル女王の期待した利益と異なる点だ。スペインは豊かな資源と人を含めた「領地」を欲していた。

 アントニオ、あなたならばこの話は合点がいくだろう。
 あなたは私よりもずっとポルトガル商人に詳しいから。




 さて、一度セウタまで到達し、アフリカ大陸沿岸に踏み込んだポルトガルは、さらに大陸西岸を南下することにした。セウタ、タンジール(現在のモロッコ)などはまだヨーロッパとアフリカの海峡(ジブラルタル海峡)に面しているから、アフリカ大陸の全貌がそれで分かるわけではない。それに、北アフリカ一帯はイスラム教徒の支配下にある地域が広がっている。ただ、アフリカ大陸を南下すればするほど、その影響は少なくなると考えられていた。大陸を南下していくのは知的な好奇心もあっただろうし、イスラム教徒が少なくなるという観測もしたのだろう。

 ヨーロッパの船乗りたちはボジャドール岬(現在の西サハラ)より先に行ってはならないと固く信じていた。そこが地の果てで、それより先に進むと海が途切れて大滝のようになっており、転落してしまうのだと。
 地球が円形ではないと思われていたのだね。

 もちろん、そんなことはなかった。

 この古くからの迷信に真っ向から挑戦したのが、かの有名なエンリケ航海王子(1394~1460年)だよ。
 人々は彼のことを、舳先(へさき)に立って波涛(はとう)に怯まず、勇ましく号令をかけている王だと思うのだろう。しかし、それは違う。エンリケはあくまでも次々と船団を派遣して、その成果を正確に報告させ、次の航海に生かし航路を広げたのだ。どちらかといえば、褒められるべきは、航路を未踏の地に少しずつ伸ばしていった、勇敢な船の乗組員だろう。エンリケ航海王子も褒めるべき点はある。ボジャドール岬をきちんと下見だけさせて、周辺を詳細に調べてからその先へと船を送り出したことだ。

 ただ無謀に行け行けと送り出したわけではない。それまでの道を記録させながら、航路を先へ先へと確実に広げる方法は賞賛に値するだろう。

 エンリケ王子は父親の王ジョアン1世とセウタの攻略に赴いたとき、現地のイスラム教徒から「プレスター・ジョンの国」の話を聞いて、いたく興味を持った。キリスト教徒の王が治める伝説の国のことだ。
 加えて、サハラ砂漠を横断しセウタに至った商人たちの隊商(キャラヴァン)の姿も見た。エンリケ王子の激しく、枯れることのない熱意はそこから来ているように私には思える。彼はそのふたつのできごとから想像の翼を羽ばたかせたのだろう。
 私もアレクサンドロス大王が好きだったから、似たようなものだ。

 いずれにしても、その調査を兼ねた航海はエンリケ王子の生きている間に広大なサハラが尽きるシエラ・レオーネまで到達していた。その後の航路拡大に比べたらごくわずかの成果だったかもしれない。でも、それが大切な基礎になったのだ。

 この後のポルトガル王はそのような夢はあまり持っていなかったらしく、実益に情熱を傾けた。

 アフォンソ5世(1432~81年)はギニア湾沿岸のミナ(エルミナ、現在のガーナ)に拠点を持ち、アフリカの商人と直接金の取引をすることに成功した。これは恒常的なものとなり、アフリカ大陸の金がイスラム教徒の手を通さずに直接得ることができるようになったのである。その息子のジョアン2世がミナに「サン・ジョルジュ・ダ・ミナ」という商館を築いた。これがアフリカ大陸に初めて築かれたヨーロッパの商館だといわれている。

 ポルトガルでいうところの「商館」というのは「要塞」のことでもある。盗賊や海賊、あるいは他の人間の襲撃を受けてしまうからね。武装した兵が常時詰めている要塞と回りには見えるものだろう。マラッカもそうだった。

 そのミナの商館からは毎年約800kgの金がポルトガルに送られたという。ジョアン2世は「金の王」と呼ばれることになった。そうなると、他国も新航路の開拓に食指を動かすようになってくる。その先鋒はスペイン(カスティーリャ)だ。

 1480年頃からジョアン2世は東回りでインドに到達する航路を模索し始める。アフリカを大回りするということだ。そこに話を持ちかけたのが、ジェノヴァの毛織物商のクリストバル・コロン(クリストファー・コロンブス)だ。彼はアフリカ大陸を南下せずに大西洋をひたすら西に回ればインドに到達するのではないかと提案した。

 しかし、ジョアン2世のお眼鏡には適わなかったのだろう。結局コロンはイザベル女王の命でその航路を開拓することになる。

 ジョアン2世も順調に航路を伸ばした。1483年にはコンゴ、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸の南端・喜望峰に到達する。

 実際に通過したディアスはこの岬を「嵐の岬」だと報告したが、ジョアン2世は大喜びで、「とんでもない! これはインドへの希望を開く岬だ!」と叫んだという。それが名前の由来となった。

 その後、コロンが発見した土地のことで、イザベラ女王とひと悶着があった。その件がもとで1494年にポルトガルの海域とカスティーリャのそれを定める「トルデシーリャス条約」が締結された。その前にいくらかの取り決めはあったが、これは本格的かつ厳密なものだった。

 アントニオ、海に線が引かれたのだ。

 ポルトガルは本命のインド航路開拓だけではない、大西洋横断にも北海にも船団を派遣していた。
 カスティーリャが参入してきたことに焦りを感じたのかもしれない。ポルトガルが鱈(たら)なら、カスティーリャは鯨(くじら)みたいなものだからね。それでもポルトガルには船の製造や操船技術に一日の長があったので、まだカスティーリャに食われるには至らなかった。

 さて、インド航路はじきに開かれることになる。
 今世紀、16世紀を目前にした1498年のことだった。
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