16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第12章 スペードの女王と道化師

清き心を持ち追求する者は

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 翌朝にヴェネツィアに発つ元弟子のために、ミケランジェロは下働きに来ている女性に豪勢な食事を頼んであった。
 特別な晩餐の献立について少しばかり触れるならば鶉のロースト、仔牛と香味野菜の煮込み、魚のグリル、焼きたてのパンなどであった。ただ、ミケランジェロはさほど多くは食べられないようだったし、もともと飲めない性質でもあった。ワインは乾杯のために少し口に含む程度だ。ニコラスも大食漢ではないが、師匠の少食を補って腹が膨れるままに食事を楽しんだ。
 ミケランジェロの家は、今で言えばローマの中心地であるが夜ともなればひっそり静まり返っている。ネズミも賑やかに集うことはなく、そそくさと走り去っていく。
 静かな夜だった。
 食事をゆっくり摂った後、ミケランジェロは先頃まで弟子だったアスカーニオ・コンディヴィが著した『ミケランジェロの人生(Vita)』という本をニコラスに渡す。
「ああ、これが……ヴェネツィアの方ではまだ見ていないですね。ジョルジョ(ヴァザーリ)の本は見ましたけれど……」と言いつつ、ニコラスはナフキンでしっかり手を拭いてから受け取った。
「ジョルジョのを読んで、どう思った?」とミケランジェロが尋ねる。
 ヴァザーリの大著『芸術家列伝』のことである。
 その質問に答えるのはたいへん難しかった。
 ニコラスはしばらく天井を見て思案している。
「そうですね……ジョルジョはこういう風に見ているのかと思いました。それは師匠のことだけではなくて、ラファエロさんについてもです。正直、ちょっと違うのではという部分もありました。ただ、私は、私が見た師匠やラファエロさんを世に問おうとは思いませんし、そもそもできませんよ。私の生業は画工ですから」
 ミケランジェロは皺だらけの顔をほころばせた。
「お前はおれとだいたい同じ考えのようだ。そう、おれたちは物書きではない。でも、アスカーニオはヴァザーリの本を見てたいそう憤慨してな。そこから一転物書きになっちまった。文章の先生まで付けて、おれにいちいち確認して一気呵成にその本を書き上げた」
 ニコラスは受け取った本の厚さを確かめるようにそっと撫でてみる。ミケランジェロはその様子を見ながら、ゆっくりと話し続ける。

「正直に言うとな、おれの記憶だってそろそろ怪しくなってきた。なので、あれこれ聞いて来られるのは実に面倒だったが、いや、それ以上に嬉しかった。おれはあんな風に自分について聞かれたことがなかったんだ。おまえの言う通り、おれたちは作り手であって、自分をひけらかす必要はない。だが、芸術家に限らず人の一生にはさまざまなことが起こる。そういった意味でよく振り返る機会になったということだ。アスカーニオは画家としてはまだ途上だったが、物書きとしては優秀だった」
「今は、いらっしゃらないのですね」とニコラスは本から目を上げる。
「ああ、本ができた後で故郷に帰ったよ。まあ、錦を飾るというやつだ」

 人はやはり、自身に対する名誉なり称賛が欲しいものらしい。

 ミケランジェロの弟子仲間でニコラスとしばらくともに過ごしたジョルジョ・ヴァザーリはメディチ家のお抱え芸術家になった。それは名誉と呼ぶに相応しい立場だ。『芸術家列伝』の献呈はそのための持参金のようなものといえなくもない。メディチ家の当主コジモもまた称賛されたいのだろう。憤慨していたであろうアスカーニオもまた、名誉が必要だったのだろうか。そうではないのかもしれないが、ミケランジェロの許を去って行ったと聞いてニコラスは釈然としない気持ちになっていた。しばらく黙っていると、ミケランジェロがポツンと言った。
「なあ、ニコラス。おまえの形に対する才能はおれが見込んだのだし、ヴェネツィアではティッツィアーノにも認められて工房に入った。一人立ちしてその才能を広く知らせてもよかったのではないか。こういっては何だが、おまえが画工の集団の中にいることがおれにはとても勿体ないことに思えて仕方ない。あのときフィレンツェとローマの惨事がなければ……」
 ミケランジェロの言葉に、ニコラスは目を丸くした。
「師匠、私は好きなこと、絵を描くのを仕事にして生計を立てています。家族も養っていける。ああ、ラウラの稼ぎもありますね。あの町に住むのにそれ以上を望む必要がないのです。高名の弟子になれなかったのは申し訳ないのですが、私は幸せです。そう、出会った人すべて、描いたものすべてが私の人生の宝物なのです」
 ミケランジェロはうつむいた。
 幼い子どもだった弟子がしっかりと自分の考えを持ち、人生を幸せに生きているのがこの上なく嬉しかったのだ。

「師匠、大丈夫ですか。そろそろお休みになられては」と声をかけられてミケランジェロは顔を上げてハッとする。
 銀髪になったかつての子どもが一瞬、きらきらと輝いて見えたのだ。彼はごしごし目をこする。
「そうだな、今日はよく動き回ったので少し疲れたようだ。おまえも明日からまた旅になる。しっかりと休んでおけ」
「はい」とニコラスは素直にうなずいた。

 用意された部屋の寝台は綺麗に整えられていた。下働きの女性がそこまで済ませて帰ったのだろう。ニコラスはすぐには床に就かず、蝋燭を灯して椅子に腰掛け、画帳を取り出した。描きかけのスケッチに線を加えていく。彼はどんどん作業にのめり込んでいく。手はどんどん動いていくが、頭は醒めていて次々と思考が交差していく。
 もう少し師匠のもとで絵を描いていたい。
 もっと師匠の姿を自分の記憶に刻み付けておきたい。
 手はなお動き続ける。
 すると、どこからか声が聞こえてくる。
「ニコラス、今も描いているのね」
 ニコラスはハッとする。
「あなたのお父さまもとても喜んでいるわ」
 ニコラスは一端手を止めて宙に向かってにっこり微笑んだ。
「母さん、ローマに住んでいた父さん、ぼくにとってどんな名誉より大切な一番の誉め言葉だよ。ありがとう」
 そうつぶやくと、また手を動かし始めた。

 ローマの夜は静かに更けていった。

 翌朝、ニコラスはミケランジェロの家を出発した。しばらくティベレ川に沿ってローマの町を眺めつつ進む。
 彼の心には、ミケランジェロが別れ際に言った言葉が繰り返し響いていた。

「清き心を持ち追求し続ける者に、美の神は大きな愛をもって応えるだろう」
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