16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

文字の大きさ
438 / 480
第12章 スペードの女王と道化師

ラファエロの墓とイエズス会の建物

しおりを挟む
 
 ミケランジェロとニコラス、二人がいるサン・ピエトロ聖堂を含めて、ローマには千年もそこにある建物・遺構・遺跡がいくつもある。
 現代に至るまで、もっとも有名なのはコロッセオで西暦80年に築造された円形競技場だ。この時点(1555年)からみても1475年前のものである。
 同様にローマを象徴するのはコンスタンティヌス帝の凱旋門で西暦315年に建てられた。このローマ帝国皇帝はキリスト教に改宗し、ローマがキリスト教の町となるのに大きな貢献をしている。実際に帝国の国教とされたのは392年のテオドシウス帝の治世である。この頃の都はフォロ・ロマーノ遺跡として現代まで遺されており、かつての強大な帝国の栄光を垣間見ることができる。
 そのような遺構のひとつに、マルス広場のパンテオンがある。ここは紀元前25年、初代ローマ皇帝アウグストゥスの側近マルクス・ウィプサニウス・アグリッパによって建造された。元々は皇帝を称える目的だったがローマの神々の神殿とされた。この建物は火事で焼失し、皇帝ハドリアヌスによって2代目が建造された。それが西暦128年のことである。この建物にはローマン・コンクリートが使用されていて、無筋であるにも関わらず非常に堅牢である(コロッセオにもコンクリートは使用されている)。

 システィーナ礼拝堂などを見て回っていたミケランジェロとニコラスは、ミケランジェロの家があるヴェネツィア広場の方ではなく、ゆっくりと北の方に逸れてパンテオンまで歩いている。ゆっくりでも30分もあれば歩いていける距離だ。そこは今はキリスト教の聖堂となっている。
 ニコラスがミケランジェロに尋ねる。
「師匠はよくパンテオンやフォロ・ロマーノに行くのですか?」
 どちらもミケランジェロの家からさほど離れていない。
「最近はとんと行かないな。ちょっとの距離でも歩くのが億劫になって、遠く感じるようになった。人と一緒ならば行くのだが。以前は思い立てばフィレンツェまで歩いて行けたのにな」と老人は遠くを見やってつぶやく。
「フィレンツェからローマへの旅、楽しかったですね」とともに旅をしたことのあるニコラスはにっこり微笑んでいる。
「ああ、楽しかった。おまえは方々でスケッチばかりして時間を食ったが、本当に楽しかった。……ほら、パンテオンに着いたぞ」
「ああ、本当に巨大で……素晴らしい建築です。あの柱の立派なことと言ったら……」
 二人の正面には巨大な列柱が何本も据えられた方形の建築が見えている。その後ろにドーム型の天井を持つ聖堂がある。その大きさは半端ではない。ドームの直径と高さは43.2m。ドームの中心に設けられた「目」と呼ばれる天窓は直径7.5m。
 入口の柱は高さ12.5mある。ニコラスがまず、その巨大さに圧倒されるのも無理はない。
「これらはすべて一塊の石なんだ。よく切り出して運んだものだ。山ひとつなくなったんじゃないか」とミケランジェロは笑う。
 二人がここに来たのは墓参のためだった。
 この中には彼らのよく知っている人が眠っているのだ。二人は今は聖堂となったドームに進み、聖母像の前に進む。そしてどちらともなく頭を垂れて天に召されたひとつの魂に長い祈りを捧げた。
 『石の聖母』と呼ばれているロレンツェットの像の下に眠るのは、ラファエロ・サンティだった。
 二人はしばし目を閉じて沈黙を重ねる。
 それから、ニコラスは光に溢れるドームの天井をふと見上げる。何かとひとつでは答えられない複雑な思いがこみあげてきたからだ。それはラファエロが世を去って35年経っても変わらない。あえて、その思いを端的な言葉で表現するならば、偉大な芸術家への追慕、その人と出会ったときの新鮮な衝撃、作品の制作に立ち会うことのできた喜び、ラファエロとミケランジェロがお互いを認め切磋琢磨するさまをじかに見た感動、そして芸術家の妻への叶わなかった思いと、その後の哀切きわまりないできごとへの悲しみであろうか。さらに具体的にいうならば、ラファエロの妻となった『ラ・フォルリーナ』、マルガリータ・ルティに抱いた初恋の淡い色だろうか。

「あの時、おまえは意気消沈して目も当てられない状態だった。それがヴェネツィアに行って画工として身を立てて、幸せな家庭を築いたんだからな。よくやったよ、おれは感無量だ」
 ニコラスはただうなずくばかりだった。もう言葉にしても仕方のないことだった。ただ、ミケランジェロがその子細を知ってくれている。それだけでよいのだった。
 二人は家に戻るために歩き始める。ミケランジェロの家は現代でいうヴァネツィア広場からほど近く、有名な貴族コロンナの大邸宅も目と鼻の先である。目印にするならば、そのふたつを目指せばよいかもしれない。
 ちなみにヴェネツィア広場は当時からの呼称ではないがローマ市街の中心地として現代人がもっとも集まる広場でもある。
 そこはパンテオンからもさほど遠くないが、二人は砂漠の駱駝のようにゆっくり、ゆっくりと歩いている。ふと、ニコラスが石造りの大きな建物を見てミケランジェロに尋ねる。
「師匠、あの堅牢そうな建物は何でしょう。ずいぶん人の出入りが多いようですね。しかも修道士ばかり。トラステヴェレの別院でしょうか」
 ミケランジェロはニコラスの視線の先に顔を向ける。
「ああ、あれはイエズス会の本部だな。修道会だから修道士が多いんだ。勢いのある修道会で、世界中に宣教師を派遣している。教皇庁でもあっという間に一目置かれる存在になった。フランシスコ会やドメニコ会が戦々恐々としているかもな。おれも日頃かれらをよく見るが、実に信仰篤く真面目な印象だ」
 ニコラスは感慨深げに建物に出入りする人を見ている。そしてミケランジェロに目配せをすると、近くを歩いていた黒衣の修道士に話しかけた。
「あの、イエズス会の方でしょうか」
「はい」と問われた人は微笑んでうなずいた。
「以前、イエズス会士の方とお話をしたり、後に助けていただいたことがあるのです。その方々はお元気かと思って。もしご存じでしたら、教えていただけませんか」
「はい、私はまだ入会して間もないのでお役にたてるかどうか。その会士の名を覚えていますか」
 ニコラスは記憶をたどるように名前をひとつずつ言う。
「シモン・ロドリゲスさん、リスボンでお会いしました」
 黒衣の男性の目に動揺の色があらわれた。
「その方は、ポルトガルの管区長だった方ですが、2年前に役を退かれました。その後もご健在でポルトガルにいらっしゃると思いますが……」
 ニコラスは目をぱちくりさせて、その先を聞くべきか少し迷っていたが、おそるおそる尋ねた。
「ヴェネツィアで、ピエール・ファーブルさんという、とても瞳のきれいな方とお話したのですが、あの方は……」
 黒衣の修道士は今度は目を丸くしてニコラスを見て、それからうつむいた。
「その方は……ファーブル師は、トリエント公会議の開催に力を尽くされて……ここで倒れられました。もう7年ほど前になりますでしょうか。私はお会いしたことはありませんが」
 ニコラスはため息をついて、「そうだったのですか」とうなだれた。ここで聞くのを止めようかと思った。きれいな瞳を持つ人にここで会えるなら素晴らしいことだと思ったのだが、それは叶わないのだから。
 しかし出会った人はもうひとりいる。ニコラスは思いきって聞いてみることにした。
「それでは、今は外国にいらっしゃるのだと思いますが、フランシスコ・ザビエルさんはお元気にされていますか」
 黒衣の人はしばらく黙りこんだ。
 少し離れたところで様子を見ていたミケランジェロも、様子がおかしいので近寄ってくる。黒衣の人は胸で十字を切ってから言葉を発する。
「ザビエル師は……ザビエル師は中国で亡くなりました。3年ほど前になります」
「えっ」とニコラスは小さく叫んだきり、後の言葉を発することができない。
 一方、黒衣の人はニコラスをまじまじと見て、興奮した様子で問いかける。
「どうして彼らをご存じなのですか?あなたがおっしゃった方はみな、イエズス会の草創期の、今は伝説になろうとしている人びとです。特にイグナティウス・ロヨラ総長、ファーブル師、ザビエル師は創設の中心に在った方々です。あなたは聖職者ですか?教皇庁の方ですか?」
 興奮した修道士をなだめるように、ニコラスは大きく息を吐いてから落ち着いて告げる。
「いえ、私はヴェネツィアから来た単なる画工です。皆さんには旅の途中や、地元でたまたまお会いしただけなのです。でも、そうですか、いずれにしても皆さんはもういらっしゃらないのですね。ありがとうございます。お手間を取らせました」

 空は青く、太陽はまぶしい。

 ミケランジェロはニコラスの背中を軽く叩く。
「どうも、あまり首尾よくはいかなかったようだな。しかし、おまえがそんなにイエズス会士と知り合いだったとは、知らなかったぞ」
 ニコラスは寂しい気持ちを抑えるように目を細めて師匠につぶやく。
「私の会ったお二人は……ザビエルさんとファーブルさんは、信仰に殉じたのですね。時は流れていくばかり……人は移動し続けて、誰も留まることはできない」

 ニコラスはしばらくイエズス会の建物を眺めてから静かに踵を返した。
 そしてまたゆっくりと師匠とともに家に向かっていった。
しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

処理中です...