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第12章 スペードの女王と道化師

ラファエロの墓とイエズス会の建物

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 ミケランジェロとニコラス、二人がいるサン・ピエトロ聖堂を含めて、ローマには千年もそこにある建物・遺構・遺跡がいくつもある。
 現代に至るまで、もっとも有名なのはコロッセオで西暦80年に築造された円形競技場だ。この時点(1555年)からみても1475年前のものである。
 同様にローマを象徴するのはコンスタンティヌス帝の凱旋門で西暦315年に建てられた。このローマ帝国皇帝はキリスト教に改宗し、ローマがキリスト教の町となるのに大きな貢献をしている。実際に帝国の国教とされたのは392年のテオドシウス帝の治世である。この頃の都はフォロ・ロマーノ遺跡として現代まで遺されており、かつての強大な帝国の栄光を垣間見ることができる。
 そのような遺構のひとつに、マルス広場のパンテオンがある。ここは紀元前25年、初代ローマ皇帝アウグストゥスの側近マルクス・ウィプサニウス・アグリッパによって建造された。元々は皇帝を称える目的だったがローマの神々の神殿とされた。この建物は火事で焼失し、皇帝ハドリアヌスによって2代目が建造された。それが西暦128年のことである。この建物にはローマン・コンクリートが使用されていて、無筋であるにも関わらず非常に堅牢である(コロッセオにもコンクリートは使用されている)。

 システィーナ礼拝堂などを見て回っていたミケランジェロとニコラスは、ミケランジェロの家があるヴェネツィア広場の方ではなく、ゆっくりと北の方に逸れてパンテオンまで歩いている。ゆっくりでも30分もあれば歩いていける距離だ。そこは今はキリスト教の聖堂となっている。
 ニコラスがミケランジェロに尋ねる。
「師匠はよくパンテオンやフォロ・ロマーノに行くのですか?」
 どちらもミケランジェロの家からさほど離れていない。
「最近はとんと行かないな。ちょっとの距離でも歩くのが億劫になって、遠く感じるようになった。人と一緒ならば行くのだが。以前は思い立てばフィレンツェまで歩いて行けたのにな」と老人は遠くを見やってつぶやく。
「フィレンツェからローマへの旅、楽しかったですね」とともに旅をしたことのあるニコラスはにっこり微笑んでいる。
「ああ、楽しかった。おまえは方々でスケッチばかりして時間を食ったが、本当に楽しかった。……ほら、パンテオンに着いたぞ」
「ああ、本当に巨大で……素晴らしい建築です。あの柱の立派なことと言ったら……」
 二人の正面には巨大な列柱が何本も据えられた方形の建築が見えている。その後ろにドーム型の天井を持つ聖堂がある。その大きさは半端ではない。ドームの直径と高さは43.2m。ドームの中心に設けられた「目」と呼ばれる天窓は直径7.5m。
 入口の柱は高さ12.5mある。ニコラスがまず、その巨大さに圧倒されるのも無理はない。
「これらはすべて一塊の石なんだ。よく切り出して運んだものだ。山ひとつなくなったんじゃないか」とミケランジェロは笑う。
 二人がここに来たのは墓参のためだった。
 この中には彼らのよく知っている人が眠っているのだ。二人は今は聖堂となったドームに進み、聖母像の前に進む。そしてどちらともなく頭を垂れて天に召されたひとつの魂に長い祈りを捧げた。
 『石の聖母』と呼ばれているロレンツェットの像の下に眠るのは、ラファエロ・サンティだった。
 二人はしばし目を閉じて沈黙を重ねる。
 それから、ニコラスは光に溢れるドームの天井をふと見上げる。何かとひとつでは答えられない複雑な思いがこみあげてきたからだ。それはラファエロが世を去って35年経っても変わらない。あえて、その思いを端的な言葉で表現するならば、偉大な芸術家への追慕、その人と出会ったときの新鮮な衝撃、作品の制作に立ち会うことのできた喜び、ラファエロとミケランジェロがお互いを認め切磋琢磨するさまをじかに見た感動、そして芸術家の妻への叶わなかった思いと、その後の哀切きわまりないできごとへの悲しみであろうか。さらに具体的にいうならば、ラファエロの妻となった『ラ・フォルリーナ』、マルガリータ・ルティに抱いた初恋の淡い色だろうか。

「あの時、おまえは意気消沈して目も当てられない状態だった。それがヴェネツィアに行って画工として身を立てて、幸せな家庭を築いたんだからな。よくやったよ、おれは感無量だ」
 ニコラスはただうなずくばかりだった。もう言葉にしても仕方のないことだった。ただ、ミケランジェロがその子細を知ってくれている。それだけでよいのだった。
 二人は家に戻るために歩き始める。ミケランジェロの家は現代でいうヴァネツィア広場からほど近く、有名な貴族コロンナの大邸宅も目と鼻の先である。目印にするならば、そのふたつを目指せばよいかもしれない。
 ちなみにヴェネツィア広場は当時からの呼称ではないがローマ市街の中心地として現代人がもっとも集まる広場でもある。
 そこはパンテオンからもさほど遠くないが、二人は砂漠の駱駝のようにゆっくり、ゆっくりと歩いている。ふと、ニコラスが石造りの大きな建物を見てミケランジェロに尋ねる。
「師匠、あの堅牢そうな建物は何でしょう。ずいぶん人の出入りが多いようですね。しかも修道士ばかり。トラステヴェレの別院でしょうか」
 ミケランジェロはニコラスの視線の先に顔を向ける。
「ああ、あれはイエズス会の本部だな。修道会だから修道士が多いんだ。勢いのある修道会で、世界中に宣教師を派遣している。教皇庁でもあっという間に一目置かれる存在になった。フランシスコ会やドメニコ会が戦々恐々としているかもな。おれも日頃かれらをよく見るが、実に信仰篤く真面目な印象だ」
 ニコラスは感慨深げに建物に出入りする人を見ている。そしてミケランジェロに目配せをすると、近くを歩いていた黒衣の修道士に話しかけた。
「あの、イエズス会の方でしょうか」
「はい」と問われた人は微笑んでうなずいた。
「以前、イエズス会士の方とお話をしたり、後に助けていただいたことがあるのです。その方々はお元気かと思って。もしご存じでしたら、教えていただけませんか」
「はい、私はまだ入会して間もないのでお役にたてるかどうか。その会士の名を覚えていますか」
 ニコラスは記憶をたどるように名前をひとつずつ言う。
「シモン・ロドリゲスさん、リスボンでお会いしました」
 黒衣の男性の目に動揺の色があらわれた。
「その方は、ポルトガルの管区長だった方ですが、2年前に役を退かれました。その後もご健在でポルトガルにいらっしゃると思いますが……」
 ニコラスは目をぱちくりさせて、その先を聞くべきか少し迷っていたが、おそるおそる尋ねた。
「ヴェネツィアで、ピエール・ファーブルさんという、とても瞳のきれいな方とお話したのですが、あの方は……」
 黒衣の修道士は今度は目を丸くしてニコラスを見て、それからうつむいた。
「その方は……ファーブル師は、トリエント公会議の開催に力を尽くされて……ここで倒れられました。もう7年ほど前になりますでしょうか。私はお会いしたことはありませんが」
 ニコラスはため息をついて、「そうだったのですか」とうなだれた。ここで聞くのを止めようかと思った。きれいな瞳を持つ人にここで会えるなら素晴らしいことだと思ったのだが、それは叶わないのだから。
 しかし出会った人はもうひとりいる。ニコラスは思いきって聞いてみることにした。
「それでは、今は外国にいらっしゃるのだと思いますが、フランシスコ・ザビエルさんはお元気にされていますか」
 黒衣の人はしばらく黙りこんだ。
 少し離れたところで様子を見ていたミケランジェロも、様子がおかしいので近寄ってくる。黒衣の人は胸で十字を切ってから言葉を発する。
「ザビエル師は……ザビエル師は中国で亡くなりました。3年ほど前になります」
「えっ」とニコラスは小さく叫んだきり、後の言葉を発することができない。
 一方、黒衣の人はニコラスをまじまじと見て、興奮した様子で問いかける。
「どうして彼らをご存じなのですか?あなたがおっしゃった方はみな、イエズス会の草創期の、今は伝説になろうとしている人びとです。特にイグナティウス・ロヨラ総長、ファーブル師、ザビエル師は創設の中心に在った方々です。あなたは聖職者ですか?教皇庁の方ですか?」
 興奮した修道士をなだめるように、ニコラスは大きく息を吐いてから落ち着いて告げる。
「いえ、私はヴェネツィアから来た単なる画工です。皆さんには旅の途中や、地元でたまたまお会いしただけなのです。でも、そうですか、いずれにしても皆さんはもういらっしゃらないのですね。ありがとうございます。お手間を取らせました」

 空は青く、太陽はまぶしい。

 ミケランジェロはニコラスの背中を軽く叩く。
「どうも、あまり首尾よくはいかなかったようだな。しかし、おまえがそんなにイエズス会士と知り合いだったとは、知らなかったぞ」
 ニコラスは寂しい気持ちを抑えるように目を細めて師匠につぶやく。
「私の会ったお二人は……ザビエルさんとファーブルさんは、信仰に殉じたのですね。時は流れていくばかり……人は移動し続けて、誰も留まることはできない」

 ニコラスはしばらくイエズス会の建物を眺めてから静かに踵を返した。
 そしてまたゆっくりと師匠とともに家に向かっていった。
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