431 / 467
第12章 スペードの女王と道化師
夜中に夢を見るノストラダムス
しおりを挟むリヨンから戻って以来、アンナは夫ミシェルが夜中にたびたびうなされているのをとても心配していた。どのような夢かはアンナに知りようもないが、あまり楽しいものではないのだろう。そのようなとき、ミシェルは起き上がり、枕元に置いてある紙束を取ってペンを走らせるのだ。
夢を記録しているらしい。
それらの作業は妻を起こさないよう細心の注意を払って行われたが、音は控えられても気配は消せないものだ。寝たふりをしているが、アンナはいつも気づいていた。アンナは子どもを育てている最中なので、夜たびたび起き出すのは習慣のようになっている。なので大きな赤ちゃんがひとり増えた、ぐらいに思っていれば問題はないのだった。ただ、これまでになかった事柄なので身体を心配するばかりだった。
リヨンに行ったのが原因なのだろうか、とアンナは理由を想像する。
アルマナック(星占いの暦)の版元といさかいがあったのだろうと真っ先に思う。その証拠にミシェルは「もうあそことは縁を切る」と妻に憮然とした表情で告げていたのだ。売り上げを着服されたのだろうか。それならば訴えて取り戻せばいい。リヨンは南仏一の大きな街だから、商売がらみの訴訟がたいへん多い。裁判所も立派なものだ。訴訟でそこまで行くのは厄介だけれど、夫の名誉のためならば仕方がない。アンナはそう思ったが、夫は金の文句をひとつもこぼしていなかった。
何か他にもっと不快なことがあったのだろうか。アンナは少しうつむいて考えている。
もうひとつの糸口になるかどうか。
夫は次の本から名字をラテン語読みにすると言っていた。
「ノートルダム、ではなくノストラダムスだ。ラテン語なのでドは付けない」
「まあ、ちょっと重々しい感じになりますのね。大学の教授みたいです」とアンナは微笑んで聞いている。
「ああ、教授ではないよ。著述家としてそう名乗るというだけなのだ」とミシェルは妻の反応に満更でもない顔をする。
「では、ご本もラテン語でお書きになりますの? 私は読めなくなってしまいます」
「いや、きみが読めないような言葉では書かないよ」とミシェルは妻の頬をゆっくり撫でる。
これまでも筆名を使っていたので名字を変えるというのは正確ではないが、夫は何か心機一転したいのだと妻は感じている。ただ、それはうなされるのとは直接関係はないようだ、とアンナは思い直す。
妻はミシェルのアルマナックの一番の愛読者である。書いてある天体の動きが知りたくて、家の屋根裏にしつらえている天体望遠鏡を覗かせてもらうこともあった。天体望遠鏡といってものちに流通するものよりはるかに原始的な、筒型の拡大鏡という方がふさわしい。そして、夫婦でああでもないこうでもないと星を探すのだった。
ミシェルには温もりあふれる家庭がある。
優しくて自分の仕事を理解している妻と、可愛くやんちゃな子どもたち。
アンナは夫がその環境に心から満足していると信じていた。だからこそ、真夜中ににうなされるミシェルを心から心配していたのだ。
「紀行文を兼ねた実用的なお料理の本、ですか」
朝食のあとで、ミシェルがいうのをアンナは不思議そうに聞く。
「ああ、そのような本を読んでみたいと思うかい?」
アンナはうん、うんと大きくうなずいてみせる。
「はい、そのような本はあまり見たことがありませんわ。空想のお話も面白いけれど、やはり生活に役立つものはぜひ読んでみたいと思います」
「空想のお話、それを読んだことがあるのかい?」
「ええ、あなたの書棚にあった、『パンタグリュエル』の本はとても面白かったわ。いけなかったかしら……」
ミシェルは目を丸くする。
「いや、いや、きみがあれを読んでくれていたとは感激だ。私にはね、あれだけの話が書けないのでどのようなものを書いたらいいか、ずっと考えていたのだよ。今やアルマナックも雑草のようにそこらにぼうぼう生えてきて、私が格段書くこともない。世間の要望があるならば続けるが、それよりも自分に書けるもの、書きたいものは何だろうと思ってね」
アンナは夫の悩みの一端を垣間見た気がした。
「そう、そうだったの。あなたは、先を見ていろいろ考えていらっしゃったのね!」
ミシェルは「もちろんだよ。それでは、きみも同意してくれたし、ここから新しい方向に進もう」とうなずいて妻を抱きしめた。
確かに、ミシェルは新しい方向へ進もうとしていた。
小さい頃から暦と芸術の結晶である時祷書を好んできたミシェルは、天文学の知識を生かせるアルマナック(暦)執筆を天職だと考えていた。星の動きを眺めて人の暮らしに生かす。それは多くの人に読まれているし、このまま続けることはできたのだ。しかし、少年の頃から圧倒され続けてきたフランソワ・ラブレーが亡くなったと知って、本当に自分が書くべきことは何かというのを再考せざるを得なくなった。エラスムスの『痴愚神礼賛』やトマス・モアの『ユートピア』に匹敵する「自国語の」物語を書くだけの才能は自分にはないとミシェルは考えていた。ラブレーがいかに広い見識を持っていたか、よく知っていたからである。そもそも、アルマナックを出版していたのはラブレーなのだ。自分はそこに乗っただけだという自嘲的な気持ちもある。
考えた結果、結婚してすぐに旅をした北イタリアでの見聞をもとに本を書くことを考えたのだ。ミラノでは薬草学の大家にフランスでのレシピ公開を許可されたこともある。材料は十分に揃っているし、他にあまり類のない本になるだろう。
ただ、ミシェルが考えた真に新しい方向というのはそちらではなかった。
フランス語で「詩」を書こうと思い立ったのである。トゥルバドゥール(吟遊詩人)のように恋愛や風景を描くのではない。箴言集のような詩を書こうと思ったのである。
トゥルバドゥールという言葉が出たので補足すると、彼らは11~13世紀頃に、南フランスやカタロニア、北イタリアの地で移動しながら活動し、詩を音楽に乗せて人前で歌ったのである。それらはオック語、あるいはプロヴァンス語で謡われたという。オック語はピレネー山脈周辺の人々の間で使用されていた言葉で、プロヴァンス語も同じ系統である。少なくはなったが、現代まで話者がいるという。
生粋のプロヴァンス人であるミシェルが、それらを知らないとは思えない。あるいは詩句のひとつふたつ、親から聞いて育ったのかもしれない。なので、このときミシェルが詩を書こうと思ったのは生来の土地の伝統に即したものだった。
ただ、詩というのは1日に100も200も量産できるものではない。他の著作やアルマナックを書きながら、今の母国語であるフランス語で箴言的な詩句をゆっくりと綴っていければいいと思っている。まだ人に打ち明けるようなものはないので、そちらの方は当面は妻にも秘密でいるつもりだ。
いずれにしても、ミシェルはそのような形でラブレーの意思を繋いでいこうと決めたのだった。
それを決めてからだろうか。
ミシェルは時折夢を見て目を覚ますようになった。穏やかな夢で目を覚ますことはないだろうが、どれも非常に具体的な夢だった。それは天変地異だったり、戦争だったり、天体の異変だったり、どれも個人には手に負えないような内容のものだった。なぜこんな夢を見るのだろうかとミシェルは不思議に思ったが、夢はさらに頻繁になり、じきに夢の方が本当の世界に置き換わってしまうのではないかと不安になるだった。
何日目だろうか、ミシェルは枕元のテーブルにペンと紙を置いて目覚めてすぐに書き留めてみた。目を固く閉じ眉間に力を込めて、夢から受けた感情を手がかりに夢の中に戻っていく。
すると見た夢をほぼ思い出せることが分かった。
アンナが夜中に見た夫はその作業をしている姿だった。
0
お気に入りに追加
29
あなたにおすすめの小説
【完結】女神は推考する
仲 奈華 (nakanaka)
歴史・時代
父や夫、兄弟を相次いで失った太后は途方にくれた。
直系の男子が相次いて死亡し、残っているのは幼い皇子か血筋が遠いものしかいない。
強欲な叔父から持ち掛けられたのは、女である私が即位するというものだった。
まだ幼い息子を想い決心する。子孫の為、夫の為、家の為私の役目を果たさなければならない。
今までは子供を産む事が役割だった。だけど、これからは亡き夫に変わり、残された私が守る必要がある。
これは、大王となる私の守る為の物語。
額田部姫(ヌカタベヒメ)
主人公。母が蘇我一族。皇女。
穴穂部皇子(アナホベノミコ)
主人公の従弟。
他田皇子(オサダノオオジ)
皇太子。主人公より16歳年上。後の大王。
広姫(ヒロヒメ)
他田皇子の正妻。他田皇子との間に3人の子供がいる。
彦人皇子(ヒコヒトノミコ)
他田大王と広姫の嫡子。
大兄皇子(オオエノミコ)
主人公の同母兄。
厩戸皇子(ウマヤドノミコ)
大兄皇子の嫡子。主人公の甥。
※飛鳥時代、推古天皇が主人公の小説です。
※歴史的に年齢が分かっていない人物については、推定年齢を記載しています。※異母兄弟についての明記をさけ、母方の親類表記にしています。
※名前については、できるだけ本名を記載するようにしています。(馴染みが無い呼び方かもしれません。)
※史実や事実と異なる表現があります。
※主人公が大王になった後の話を、第2部として追加する可能性があります。その時は完結→連載へ設定変更いたします。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
共に
第8回歴史時代小説参加しました!
お鍋の方
国香
歴史・時代
織田信長の妻・濃姫が恋敵?
茜さす紫野ゆき標野ゆき
野守は見ずや君が袖振る
紫草の匂へる妹を憎くあらば
人妻ゆゑにわれ恋ひめやも
出会いは永禄2(1559)年初春。
古歌で知られる蒲生野の。
桜の川のほとり、桜の城。
そこに、一人の少女が住んでいた。
──小倉鍋──
少女のお鍋が出会ったのは、上洛する織田信長。
─────────────
織田信長の側室・お鍋の方の物語。
ヒロインの出自等、諸説あり、考えれば考えるほど、調べれば調べるほど謎なので、作者の妄想で書いて行きます。
通説とは違っていますので、あらかじめご了承頂きたく、お願い申し上げます。
モダンな財閥令嬢は、立派な軍人です~愛よりも、軍神へと召され.....
逢瀬琴
歴史・時代
※事実を元に作った空想の悲恋、時代小説です。
「わたしは男装軍人ではない。立派な軍人だ」
藤宮伊吹陸軍少尉は鉄の棒を手にして、ゴロツキに牙を剥ける。
没落華族令嬢ではある彼女だが、幼少期、父の兄(軍人嫌い)にまんまと乗せられて軍人となる。その兄は数年後、自分の道楽のために【赤いルージュ劇場】を立ち上げて、看板俳優と女優が誕生するまでになった。
恋を知らず、中性的に無垢で素直に育った伊吹は、そのせいか空気も読まず、たまに失礼な言動をするのをはしばしば見受けられる。看板俳優の裕太郎に出会った事でそれはやんわりと......。
パトロンを抱えている裕太郎、看板女優、緑里との昭和前戦レトロ溢れるふれあいと波乱。同期たちのすれ違い恋愛など。戦前の事件をノンフィクションに織り交ぜつつも、最後まで愛に懸命に生き抜く若者たちの切ない恋物語。
主要参考文献
・遠い接近=松本清張氏
・殉死 =司馬遼太郎氏
・B面昭和史=半藤一利氏
・戦前の日本=竹田千弘氏
ありがとうございます。
※表紙は八朔堂様から依頼しました。
無断転載禁止です。
マルチバース豊臣家の人々
かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月
後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。
ーーこんなはずちゃうやろ?
それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。
果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?
そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?
妻がエロくて死にそうです
菅野鵜野
大衆娯楽
うだつの上がらないサラリーマンの士郎。だが、一つだけ自慢がある。
美しい妻、美佐子だ。同じ会社の上司にして、できる女で、日本人離れしたプロポーションを持つ。
こんな素敵な人が自分のようなフツーの男を選んだのには訳がある。
それは……
限度を知らない性欲モンスターを妻に持つ男の日常
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる