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第12章 スペードの女王と道化師

少年が夢見るとき

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 ここまでアンリ2世にとって不倶戴天の敵である神聖ローマ帝国皇帝カール5世について述べてきた。アンリには、スペインの人質になって数年を怯えて過ごした恨みがある。そして、カール5世にも幼少からの心的外傷があることも述べた。双方とも「痛み」を抱えていることを説明しなければフェアではないとも考える。
 アンリの妻であるカトリーヌ・ド・メディシスはどうだろう。
 カトリーヌがフィレンツェに暮らしていたときの最も悲惨な経験がそれを知る参考になるかもしれない。
 カール5世の「フィレンツェ包囲」(1529年)によってメディチ家の人間が軒並み追放される中、カトリーヌは反メディチの見も知らぬ、全く友好的ではない修道院に預けられて心細い月日を過ごさねばならなかった。
 引きずり出されて首吊りにされる可能性もあったのだ。
 当時のイタリア半島の人から見れば、カール5世その人ではなく、傭兵軍ランツクネヒトが恐怖の対象だった。彼らは本当に恐ろしいことをした。1527年、給金を支払われなかったランツクネヒトが憤ってローマになだれ込み、暴力・放火・略奪の限りを尽くしたのだ。現代までローマ劫掠と呼ばれる。
 鬼という化け物がもし実在するのなら、このときのランツクネヒトはそれに相応しかっただろう。
 そのような目にも遭っているカトリーヌはカール5世を不倶戴天の敵だと考えていただろうか。

 カトリーヌの敵というなら、夫の愛人のディアンヌもそれに該当するかもしれない。「たかが愛人」とランツクネヒトを同列に語るべきではないかもしれないが、カトリーヌの心に傷を付けたという意味では同じである。それを言ったら夫のアンリも遠縁の教皇のクレメンス7世もその役に十分適っていると思われる。
 彼女は、内心はともかく表にそのような態度を表すことはしていない。このときは妊娠中の7人目の子どもを無事に産むことにのみ心を配っていた。
 フィレンツェの名家の血を引いているというのは彼女にとって受容と忍耐に他ならなかったのだ。それは王妃になってもあまり変わらないのだ。

 さて前回、ナポリの港について触れた。
 ナポリ王国の東岸に向かう途上にキエーティという町がある。イタリア半島を長靴と見るならば、ふくらはぎの下部になる。
 ナポリは西岸の都市なので、山を越えて行かなければならない。現在の距離でおよそ280kmほどの位置にある。
 イタリア半島の中央部はアペニン山脈が縦に貫いて、いわば半島の背骨となっている。その中でもグラン・サッソ(標高2914m)、モンテ・アマーロ(標高2793m)など山脈きっての高峰がキエーティの周辺にあり、冬には冠雪が見られる。下から仰いでも遠景で眺めても、あるいは山に入っても、たいへん眺望の素晴らしいところである。

 この町で、高峰に登るがごとき大志を抱く少年がいた。
 とは言っても、現実の山に登ろうとしているのではない。彼は高位の聖職者を目指していたのだ。その高みは子どもの時分から身近に伺い知ることができた。なぜなら彼はナポリ王国の貴族の中でも抜きん出た家に生まれ、一族からはキエーティの大司教、枢機卿を出しているからである。
 カール5世がプロテスタントの興隆に四苦八苦しているのを思うと、少年の夢はやや前時代的であるが、彼にとっての夢の象徴はイエズス会の東洋における活躍だった。つい先頃、フランシスコ・ザビエルは中国沿岸の三洲島で天に召されたのだが、そのことはまだ知らなかっただろう。
 彼はまるで冒険物語を読むようにイタリア半島まで伝わったザビエルの手紙を読んだ。彼がモザンビーク、インド、マラッカ、薩摩からポルトガル船に託した手紙である。そこには宣教の苦難とともに、世界というものが現れていた。あらゆる言葉や文字、出会う人々の生きるさまはイタリア半島から出たことのない少年には新鮮に見えた。

 ただ、手紙は届いたけれど人は戻ることがなかった。

 少年はローマのイエズス会本部にいる創始者イグナティウス・ロヨラにも会ってみたいと胸を踊らせてもいた。それほどイエズス会の発展が急激になされていたともいえる。ただ、少年はイエズス会に入ろうとは思っていなかった。何しろ血縁者に大司教かつ枢機卿がいるのだから、その跡を目指したいと考えていたのである。教皇に次ぐ地位である枢機卿は昔も今も世襲制ではないが、ネポティズモと呼ばれる身びいきがなくなったとは言えない。
 自分が身びいきといわれないように。
 少年は「パドヴァ大学に行き法律を学びたい」と父のジャン・バティスタ、母のイザベラに打ち明ける。もちろん、その後でしかるべき聖職(司祭とその先)に就くと力強く宣言した。父母はたいへん喜んで、どんな援助も惜しまないと約束した。一家の結束はたいへん固かった。父はさっそく息子の決意を確固たる未来に結びつけるべく、動き始めた。血縁の枢機卿に働きかけ、そこからナポリの大司教にも助力を頼むようになる。
 まだ大学に入ってもいないし、学を修めるかどうかもまだ分からない。そのような状態では未来の職を約束することはできない。ナポリの大司教はただ、「立派に学を修められることをお祈りしております」とだけ励ます。枢機卿はこっそりと父親に告げる。
「ナポリから枢機卿を輩出することにカラファ大司教は前向きでいらっしゃるので、お力添えがいただけるのは間違いない」
 1553年、教皇はユリウス3世がつとめている。その前が、ミケランジェロをバチカンの芸術と建築の監督に任命したパウルス3世だが、1549年に亡くなっている。
 パウルス3世は多面的に動いた人だった。ミケランジェロの件もそうだが、何よりカトリックとプロテスタントの調整をはかるため、トリエント公会議を開催したのが一番の功績だろう。その3代前の教皇の時代から始まったプロテスタントの勃興と興隆に真っ向から向き合った人である。カトリック側の旗手として新進の修道会であるイエズス会を認可し、カトリックを立て直そうとした。プロテスタントの拠点となった神聖ローマ帝国をはじめ、諸国の足並みがなかなか揃わなかったものの、イエズス会の東方宣教はポルトガルの航路に乗って拡大していった。
 次の教皇ユリウス3世は先代の跡を継いで、公会議を開催している。
 少年がカトリックの聖職に付きたいと願うのは、そこに確固とした未来があると信じられるからである。カトリックの巻き返し、いわゆる対抗宗教改革の流れがあったからだった。

 少年の名はアレッサンドロ・ヴァリニャーノという。彼の名はじきにこの話にも華々しく登場するだろう。



 ナポリのキエーティで少年が輝かしい未来を夢見ている頃、パリ郊外の高台にあるサン=ジェルマン=アン=レーの城で、カトリーヌは出産のときを迎えた。
 1553年5月14日に生まれた7人目の子は女児である。生まれた子は母親としばらく離れ、きれいにされてようやく母親と面会の儀となる。カトリーヌはその子の髪の毛がもう結構生えていること、何より大きなまなこをぱっちりと開けて、カトリーヌをまっすぐに視ていたのに驚いた。何人も子どもを産んでいるが目をこんなに見開いている児は初めてだーーとカトリーヌは思う。すぐに親子は離され、子は乳母のもとに連れていかれる。
 カトリーヌはふっとショーモン兄弟による本『1953年の暦と占い』の一文を思い出した。

「私には男の子が4人いるから、あの子は王にはなれないようだわ。結婚した先の人が王になるのかしら。あるいは……」とカトリーヌはつぶやく。

 赤ちゃんはマルグリットと名付けられた。
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