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第1章 星の巡礼から遠ざかって チェーザレ・ボルジア

学ぶ枢機卿 チェーザレの来た道1 1475年~ ローマ

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<チェーザレ・ボルジア、ボルジア家の人々>

 さて、ナポリの港からキャラベル船に乗せられて、スペインのアリカンテに向かったチェーザレ・ボルジアなる男について、これまでどのような道を辿ってきたのか、ほとんど触れずにきた。
 彼が英雄であると書いてきたが、正確には「未完成の英雄」であると言った方が正しいだろう。剣を抜いてイタリア半島の統一に向けて進軍をはじめた彼は、突然の不幸なできごとをきっかけにバタンと倒れるように失脚し、囚われの身となったのだ。
 「未完成の英雄」とはどのような存在だろうか。
 ここで、チェーザレ・ボルジアの経歴を記しておこう。


 チェーザレ・ボルジアは1475年9月13日、ローマ近郊のスビアーコで生まれた。父は教皇庁枢機卿のロドリーゴ・ボルジア、母はヴァノッツァ・カタネイである。チェーザレは第二子であり、兄と弟が二人、妹が一人の四人きょうだいであった。兄ペドロ・ルイス、チェーザレ、弟ホアン、妹ルクレツィア、弟ホフレの順である。ペドロ・ルイス以外はヴァノッツァが産んだ子である。

 ボルジア家はもともとスペインの貴族で、ヴァレンシアのヤティバの領主である。スペイン読みでは「ボルハ」になる。そこからロドリーゴは枢機卿に選ばれ、ローマに住むこととなったのである。したがって、彼の子はみなローマで生まれた。長男のペドロ・ルイスはスペインのガンディア公となり、彼が早世したあとはホアンがガンディア公を継ぐことになる。チェーザレ、ルクレツィア、ホフレは父の祖国に足を踏み入れたことがない。



 ボルジア家は教皇庁で重職を担う人を輩出している。その端緒となったのがヴァレンシア司教から教皇カリスト3世となったアルフォンソ・ボルジアである。カリスト3世となって以降、彼は2人の甥に特に目をかけて、それぞれに教皇庁の重職を任せた。そのうちの一人がロドリーゴである。
 枢機卿というのはカトリック教会で教皇につぐ位置にある聖職者のことである。「すうききょう」または「すうきけい」と読む。任命は教皇が行い、教皇の最高顧問として補佐するのが役割である。教皇の帽子と法衣は白で、枢機卿は深紅色の帽子と法衣を身に着ける。「緋色の衣」ともいわれる。新教皇を決めるためのコンクラーベを構成するのは枢機卿である。

 さて、ルクレツィアのくだりでも書いたが、きょうだいはみな正式にはロドリーゴの子ではなく、別の男性とヴァノッツァの子供ということになっている。扱いとしてはロドリーゴの庶子である。スペインの貴族ならば問題のない「庶子」という立場だが、聖職にあるチェーザレにとって青年期以降まとわりついて離れない枷(かせ)になる。

 貴族階級の長男は当主、次男は聖職者とするのが当時の常識だった。ローマのボルジア家でもそのように子の進む道が決められた。ペドロ・ルイスがガンディア領主、チェーザレは聖職者への道を進む。父親が枢機卿だからという理由だろうが、その出世ぶりは凄まじい。8歳でガンディア司祭、16歳でナヴァーラ王国にあるパンプローナ司教になった。通常は神学やラテン語などを滞りなく修めて司祭に叙階されるものだが、いや、修めてもすぐになれるものでもないのだが、チェーザレの場合ありえない速さである。しかも、彼はガンディアにもパンプローナにも行ったことがないのである。出世の階段の一段に過ぎない、肩書だけの司祭であり司教であった。

 もっとも、チェーザレは幼少から利発な子供であったので、実際に司祭の仕事をしても立派に務められただろう。本人の好みには合わなかったようだが。彼は神学を学び静かに祈っているだけでは満足しない人間だった。その興味は馬での遠乗り、狩り、肉体の鍛錬、武芸の習得(時には喧嘩を売られた場合の実戦を含む)に向けられていた。

 ピサ大学で学ぶパンプローナ司祭(チェーザレ)は青春の日々を思う存分に満喫していた。

 そんな中、ロドリーゴ・ボルジア枢機卿は1492年、教皇アレクサンデル6世となった。ここまでにも書いてきたが、1492年はスペインのレコンキスタ達成の年であり、クリストバル・コロンが大西洋への航海に出た年である。ここにまた、スペイン出身の教皇が生まれるという慶事が加わったのだった。

 チェーザレはそのとき16歳だったが、在学していたピサ大学を中退した。そしてヴァレンシア大司教に着任した。ボルジア家の出身地方における聖職者の最高位に就いたのである。まだ17歳であるが、それにとどまらない。18歳になると、彼は枢機卿に選ばれた。「そんなに簡単なものなのか」という感慨を禁じえないが、もちろんそんなことは決してない。大司教、さらには枢機卿の地位にしても、いくら教皇の息子だからといってぽんぽんとなれるわけではない。しかも、チェーザレは「妻帯が許されていない聖職者の実子、扱いは庶子」である。この壁は教義上、というよりは道義的に許されるものではなかったので、教皇はかなりの政治的駆け引きをしたようである。表向きはチェーザレを他の男性とヴァノッツァの嫡子であるとしながら、同時に彼が自分の実子であるという極秘文書を流すなどの手段をとった。もちろん、他の枢機卿の椅子をちらつかせるなどの買収工作もしたであろう。いかにもあからさまな、褒められた方法とはいえないが、結果としてチェーザレは枢機卿の衣を身にまとうことになるのである。

 父のロドリーゴの期待に沿うようにして歳月が経てば、彼は枢機卿の重鎮としてローマで活躍し、父祖の祖国スペインにも大きな影響力を発揮できたかもしれない。

 祖国。
 チェーザレの故郷はどこなのだろう。
 彼の父親は身内にはスペイン語を使っていたからそれは自由に操ることができる。スペイン出身者からなる側近団もついていた。チェーザレが信を置くドン・ミケロットもその一人である。それでも、スペインは彼にとって祖国ではなかった。イベリア半島の地を踏んだこともないのだから。

 彼はローマ近郊で生まれ、ローマで成長し、ピサの学舎で青春を送った。イタリア読みのチェーザレ・ボルジアであり、スペイン読みのセサル・ボルハではない。

 彼にとって不幸だったのは、他の兄弟が皆スペインに縁を持ったことだった。早世した長兄ペドロ・ルイスはガンディア公爵、チェーザレのすぐ下の弟ホアンがそれを継いだ。末弟のホフレもアラゴン王国に連なるナポリから妻を娶る。ルクレツィアの二番目の夫もナポリの出である。
 チェーザレにはそのようにスペインに伸びる縁がない。
 スペインを「祖国である」と強く思うだけの理由がないのだ。

 「貴族の次男は僧籍に」とはいっても、長男が早世したのだからガンディア公爵をチェーザレが継いでもよかったのかもしれない。ただ、ペドロ・ルイスが亡くなった時点で、チェーザレはすでに教皇庁の役職を得ていたので、方向をおいそれとは変えられなかった。それに聡明な息子を自分の側に付けておきたいとロドリーゴも思ったことだろう。何しろ、ボルジア家から枢機卿、あるいは教皇を出すことは家業のようになっていたのだから。それはボルジア家だけの問題ではなく、スペインの威信にかかわることでもあった。

 最近になって、イタリア以外の国から教皇(法王)が出ることも珍しくなくなった。ポーランド出身のヨハネ・パウロ2世、アルゼンチン出身の現フランシスコ教皇がそうだが、当時はそのような例がほとんどなくイタリア半島出身者が大半であった。よって、スペインから教皇が出るというのはすばらしい栄誉だったのだ。
 できるものならその栄誉を子々孫々譲りたい、と当事者は思うのだろう。要は身びいきで、かの地ではネポティズモ(親族主義)という。

 そして、教皇となった父親は息子を自分の側近として置いておきたかったし、その力をもって可能な限りの高位に就かせたかったのである。

 意外に思われるかもしれないが、チェーザレは父親に対して従順な子供だったように見える。多少は乱暴だったり放埓だったりする面があったとしても、それは父親に対してのものではない。ある時点まで、父親に反目したようすは――少なくとも経歴を眺める限りでは感じられない。
 ある時点までは。

 彼は学んでいた。
 プルタルコスの書物でアレクサンドロス大王やユリウス・カエサルを。
 ピサでフィレンツェのメディチ家、ミラノのスフォルツァ家、フランス王家に連なる貴族の子弟たちに。彼らの親は伯爵・公爵など肩書きはまちまちでも一国の長にあたる存在である。
 そして、父ロドリーゴがそれらの国を代表する者たちと堂々と渡り合う姿を。

 どれも当時の政治の最前線である。望んでもおいそれとは与えられない場である。そのような場を与えられて、聡明な人間なら学ばないはずがない。帝王学やら処世訓のような表向きのものもあっただろう。そして、人を懐柔し、裏切り、切り捨てる技術もあったことだろう。
 彼は学んでいた。
 馬を駆り、槍を使い、剣で戦う技術を身に付けるのと同じぐらいの熱心さで。
 そうしていくうちに、自分の将来の姿に容易にたどり着けたはずだ。枢機卿として一生を終えるしかない姿を。庶子は、正式な婚姻から生まれた子でないため、枢機卿までは何とか辿りつけても教皇には決してなれないのである。チェーザレにとっては枢機卿が階段のてっぺんだったのだ。
 そして彼は早々にそのてっぺんを手に入れてしまった。

 チェーザレは教皇になりたいと思ったことがあっただろうか。
 いや、それはないと断言できる。もちろん枢機卿になるのが最終目的でもなかった。あくまでもローマ・カトリック教会の総本山は彼にとって権力について学び実践する修練の場でしかなかった。その目線はもっと遠くにあった。だからこそ、従順に、客観的に学ぶことができたのだ。そして、枢機卿になったこの時点では、まだ自身の行くべき道はおぼろげにしか見えていなかったと思われる。

 この時期、すべてがチェーザレ・ボルジアにとっては仮の宿りだったのかもしれない。ただし、家族だけは別だった。特に、父アレクサンデル6世と教皇庁の敷地にある居宅にいる妹ルクレツィアは。そのルクレツィアも結婚したが、変わらずに居宅――ボルジアのアパートメントと今日呼ばれている――にまだ住んでいる。さきにも述べた「白い結婚」のゆえである。
(イラストはローマ、サン・ピエトロ大聖堂)




 しかし、父の教皇就任、チェーザレの枢機卿就任といった晴れがましい日々もすぐに大波に巻き込まれていくことになる。1494年からはじまるフランスのイタリア侵攻によって。

 そのきっかけはナポリであった。1494年1月、ナポリの王位継承についてフランス王シャルル8世が異議を唱え、教皇にナポリの王位継承を認めないよう求めたのである。当然、認めた場合はイタリアに侵攻するという但し書きをつけて。
 イタリア半島の北部にはその立地からフランス寄りの国もあったため、出身の枢機卿たちはフランスの要求をのむよう暗に教皇に働きかけたが、教皇はこれまでの路線を変えることをしなかった。ナポリにおけるアルフォンソ2世の戴冠を認める教書を発したほか、教皇の三男ホフレとナポリの庶出の王女サンチャとの結婚まで決めてしまったのである。これは教皇にとっては自然なことだった。ナポリのアラゴン王国は自身の故国の一部でもあるのだから。
 そして4月には反ボルジア、親フランスのローヴェレ枢機卿が逃亡した。

 彼は親フランスだったミラノ公国のスフォルツァ家を通じてシャルル8世に会見し、教皇を退位させるため、シャルル8世が宗教会議の開催を求めるように訴えたのである。はじめはナポリの領有だけを考えていたシャルル8世はここに来てその矛先を教皇領にまで広げてしまうのである。

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