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第10章 ふたりのルイスと魔王1

稲生の戦い 1556年 尾張・稲生

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〈足軽、織田信長、林通具、林秀貞、柴田勝家〉

「おい、おぬしはこそこそと何を書いとるんきゃ」
 川べりに控えた兵の一人が、連れに声をかけられる。
「なにって、まあこれからの戦のもようを記しておけっちゅう、お言い付つけでよう」
 一団はいざという時に備えて川辺に控えている。尾張末森城と那古野城主・織田信勝に仕える兵たちである。
「おぬしは話をするのも、文字を書くのも達者だでな。まあせいぜい、筆に気を取られて鑓の的にならんようにせんと」
 からかい気味に言われるが、当人はのんびりした風である。

 何やら長閑な川辺の会話だが、事態はそれほどのんびりとはしていない。彼らのあるじであり、織田信長の同母弟である織田信勝はすでに先制攻撃をかけている。信長の領地にあたる篠木の三郷(現在の春日井市)を攻め手中にしていた。
 それを取り返そうとする信長の軍勢ががいつ来てもいいように、控えの兵が置かれているのだ。

「上総介さま(信長)はこれまでお身内を先んじて攻めるようなことをせんかったが、こたびはさすがに総勢でもって出てこられるだろう」

 その通り、信長は戦の構えを整えている。
 弘治2年(1556)年8月22日、於多井川の対岸にある名塚に砦が築かれた。家臣の佐久間盛重が守備にあたる。
 その翌日の23日、信勝方の柴田勝家が1000人、林通具は700人の兵を引き連れそれに相対した。折しも雨が降り、川は水量を増していた。この天候では砦の建造も進まないだろうし、渡河もできない。信勝方は敵の兵がさほど多くないことを知っている。なので、攻めるのは容易だと考えていた。
 24日、天候がややおさまったところで信長は手勢700を引き連れ、稲生村の外れに陣取る。そこに柴田勝家と林通具が攻めてくる。

「みな、草藪に身を潜めとれ!敵はわれらが寡勢だと侮っておるはず」
 信長の周囲には、係累の織田勝左衛門、織田信房や森可成ら槍持ちの中間衆40人ほどが付き、大将の言葉を真剣な面持ちで聞いた。それを見て信長は大きな声で叫ぶように呼び掛けた。
「みなみな、突破せい!死ぬなっ!」
「おうっ!」と一同が声を揃える。

 午の刻(昼)、まず陣から見て東南側から攻めてきた柴田勝家隊と激突する。地べたを走っての交戦となり、もみくちゃになっての戦いである。
信長方の山田治部左衛門は柴田勝家と戦い、勝家に手傷を負わせたが善戦空しく倒れた。首を取られたが、勝家も退却しなければならなかった。敵将のてっぺんを退かせたことは、大きな成果だった。
 信長勢は苦戦している。歴戦の猛者である佐々孫介も討たれてしまう。ただ、そこで降参するわけにがいかない。
 治部左衛門が開けた風穴を突破しようと、織田信房と森可成が大将のいない柴田勢に突きかかる。そして、敵の首を取ろうとしているところで新たに敵が襲いかかろうとしている。信長はそれを見つけて怒気をあらわに叫ぶ。
「うぉおおおおお、次はうぬらじゃあっ!」
 地の底から響く鬼のような怒声に、敵方はびくっとして怯え、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
 信長勢は方角を変え、林勢に突きかかっていく。皆あとに続く。林通具と対決したのは黒田半平で長く切っ先を交えたが、黒田はばっさりと左手を切り落とされた。信長は黒田の叫び声を耳にして、林通具に向かっていった。
 信長は地を見た。林通具が倒れている。

 何の造作もない。
 わしを苦しめておった人間を屍にするのが、これほど容易いものだとは。
 わしを廃するために弟や母と引き離し、敵にしてしまったのはこやつらか、それとも弟なのか。いずれにしても、これからのわしにはこのような奴は要らぬ。

 そして首を取った。

 大将のひとりが負傷し退却、もう一人は討ち死にし、兵も方々に散ってしまった。戦は信長勢の勝利となった。一堂はその日は清洲城に帰り、翌日首実検をした。信長はもとより、津田左馬丞、高畠三右衛門、木全六郎三郎、佐久間盛重、松浦亀介が首級を上げ、その数は450にのぼった。



「いや、ものを書くどころではなかったわ」と川縁にいた足軽が言う。槍に持ちかえて戦場に立ちはしたが、信長方の勢いすさまじく前に進むことができなかったのである。
「あったりまえだで、わしゃちびってまうかと思うたわ」と連れが言う。
「しかし、後からでもきっちり書けるほどのもんだったでや」
 興奮気味の足軽に連れはあきれたように言う。
「おみゃあ、あんだけ大将がやられてまうと、わしらもどうなるかわからんがや。おまんまのくいっぱぐれになるでよう」

「ああ、そうなったら、上総さまに使ってもらうわ」


 この後信長は信勝方に反撃させないため、那古野、末森城の周囲の焼き討ちを続けた。それは、「これで終わりではない」という明確な意思表示だった。その間に立ったのは、いさかいのきっかけのひとつを作った実母の土田御前だった。
 母から丁重な詫びをたびたび入れられ、信長は弟の信勝を許すと告げた。しかし、油断することはもう金輪際ない。
 また、信勝を擁するために密議に加わっていた自身の家老、林秀貞にも詰め腹を切らせるつもりだったが、それも止めた。

「本当はお屋形さまが二人立ちで那古野城に来られたときに、討とうという話があったのを私が止めさせたのです。これだけの謀反を犯す一端となったことを深くお詫びし、今後心を入れ替えて務めまする。どうかお許しくださいませ」

 許されることだと思っているのだろうか、と信長は内心思っている。同時に、人間の哀れな浅ましさも感じていた。母の詫び状を受け入れたのだから、ここで林を誅するというのもそぐわない。結局信長は、林のことも許すことにした。

 以後ふたたび、信長のもとで働きたいという者が清洲に列をなした。この一連の戦いを寛容に片付けたことが効を奏したのかもしれない。ただ、この結果は熟慮の結果でもあった。

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