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第10章 ふたりのルイスと魔王1
皇帝のお手本とは 1554年 尾張国
しおりを挟む〈織田上総介信長、策彦周良、雪沙、帰蝶〉
馬の背に揺られながら、薩摩のベルナルドが暑く乾いたイベリア半島を進んでいるとき、10000kmほど離れた尾張国には、さらなる波乱の雲が近づいていた。
それは春を告げる嵐のようではあるが、穏やかな日々が近づいているわけではない。嵐が嵐を呼ぶようなものだった。
それでも一帯はのどかに春の盛りを迎えている。
尾張国小牧の政秀寺の側に小さな庵を結んだ老学僧がいた。政秀寺の住持、沢彦宗恩(たくげんそうおん)のもとを訪問する意外は外に出ることもなく、地元の民もその姿を目にすることはほとんどなかった。いや、つねに笠を目深にかぶっているので顔を見ることがなかったというのがより正確かもしれない。
その日、学僧・雪沙は政秀寺に向かって歩いていた。雪沙の庵は山寄りにあったので、政秀寺には細い道を下っていく形になる。雪沙はふっと、笠の端をわずかに上げて、春の田園風景を眺める。つばめがしばしばスーッと横切っていくのが見える。
しかし、雪沙が探していたのはつばめではなかった。
雪沙はじきにその姿を見つける。
ノスリである。
木の太い枝に止まって、獲物を探しているのだろうか。
鷹の仲間であるがさほど精悍さはない。単独で行動し、獲物を狙うときには地面を這うように飛んでいくことがある。ノスリ(野擦)という名はそのときの様子が由来しているらしい。
雪沙は昔から猛禽類を好んでいた。精悍で孤高な姿に魅力を感じていたのだ。
彼は遥か昔のーーもう50年も前になるーーナポリの港の光景を思い出す。
総督の要塞に囚われの身となり、やっと外に出られたと思ったら船に乗せられた。追放になったのだ。信頼する側近は投獄されており、味方していた者らも手を出すことができない。愛する妹が嘆願の手紙を日々書き綴っていたと後で知ったが、裏切られて孤立し失脚したことは間違いなかった。
そのとき、港でミサゴの姿を見たのだ。鷹の仲間である。
腹が白く、広げた翼羽の模様が鮮やかなこと。雪沙はしばらく己のさだめのことを忘れ、崇高ささえ感じるミサゴの姿に心を奪われていた。
そして雪沙は、ちょうどこのときベルナルドが馬に乗っている辺りへ連れていかれたのだ。それを雪沙は知らない。ベルナルドと雪沙はほんの少しの間、ともに旅をしたことがあった。もしそのベルナルドがイベリア半島を進みローマへ向かっていると知ったら、雪沙はどのような感慨を抱いただろうか。
ベルナルドは雪沙が去ってきた場所へ向かっている。
ローマ、雪沙がチェーザレと呼ばれていた頃の栄光はそこにあった。枢機卿を経てヴァレンティーノ公爵、フランス王の媒酌で貴族の娘と結婚し、そして……。
今こうしてノスリを見ている自分は、本当に自分なのだろうか。
日本の暦はローマとは異なるので合わせるのに骨が折れるが、おそらく私は来年80になる。もう長い船旅に耐え海を渡ることは不可能だろう。この国が私の終の地になるのだ。
すでに私は鷹ではない。
海に翼を広げるミサゴでもない。
ノスリか。
そうだ、ノスリなのだ。
雪沙はまたゆっくりと歩きだした。
政秀寺に着くと、すでに先客がいた。
「おう、雪沙どの。今日はええ日和だで、ちぃと来てみたんだわ」
外に馬がつないであるのを見て察しはついたが、雪沙は先客を見て意外そうに目を丸くする。
「ほう、一城のあるじというのは思いのほか、暇なのだな」
「おう、暇なように見せとるのが肝要だぎゃ」
先客の若者、織田上総介信長はニヤリと笑う。
雪沙は若者の笑みをどこか懐かしく思う。
自分もかつてはこのように、皮肉な笑みを浮かべていたものだ。誰にも本心を見せずに。そのような自分を理解して、忠実に接してくれる人間には心を開いていたが……レモリネス、ミケロット、ルクレツィア……。
そう、この青年は私の目に龍が見えると言った。私は違う。私はこの青年の姿にかつての自分を見たのだ。
似ている。
この青年はかつての私によく似ている。もちろん、姿かたちではない。豪放磊落で武芸にも秀でているが、孤立しがちだったために人を容易に信じない。そしてその心にあるのはおそらく……。
◆
雪沙は策彦周良という僧の伴として京都から尾張までやってきた。策彦はしばらく逗留して京都に戻った。
信長はその間に中国(明)の話を聞いて大いに関心を示し、わずかな日本人しか見ることの叶わない都、北京の様子を飽くことなく聞き入っていた。特に広大な国土を統べる王である「皇帝」の力に強く関心を示した。1日では回りきれないほどの宮殿や、そこを守る兵の装備に信長は想像の翼を広げていたようだ。
そのやりとりは雪沙も同席して見ていたが、特に口をはさむことはなかった。しかし、熱を持って帝国の話を聞く信長には、複雑な思いを抱いていた。プルタルコスの英雄伝を熱心に読んでいた自分を思い出すのだ。
そうだ、強大な王について知りたいと思うならば、今は見本に事欠かない。
信長が熱心に聞いている明の皇帝がまずよい例だろう。ただし、その栄華はそろそろ末期にさしかかっているようだが。朝貢の受け入れが頻繁でなくなったのは、国政に不安の種が出てきているのかもしれない。
オスマン・トルコも強大な帝国だ。彼らは独特な統治方法を取っていて、異なる民族や宗教を持つ者たちも属国の統治者として取り込んでいく。イェニチェリと言ったか。そして、軍役か税を選択させて帝国全体をひとつの軍隊に仕立てている。上手なやり方だ。軍と税の扱いの見本のようだ。
神聖ローマ皇帝もこれまでにないほどの領土を得ている。本来の土地に加え、ナポリもスペインもその手におさめ、ヨーロッパにふたつとない帝国を現出させた。それが戦争によってではなく、婚姻を重ねた結果であることは希有だが、まったく違う風土の土地を同じように統治するのは難しいようだ。それに、聞くところによれば皇帝は果敢に征服を繰り返す型の人間ではないらしい。
雪沙はそのようなことを頭に描きつつ、目の前の青年が熱心に話を聞くのをただじっと見ていた。自分が堂々と述べるのは、まったく望ましくないと思っていたのだ。
ただ、信長は雪沙にも興味津々な様子だ。
策彦との対話が終わろうかというとき、信長はある話を持ち出した。
「雪沙どのにも話を伺いたい。もし差し支えがないようなら、ここに留まってもらえないか」
策彦はそれを聞いて、わずかに懸念を抱いたようだった。
「織田さま、こうありていに申し上げるのも恐れ多いのですが、雪沙はかなり老いておりますので、京都にてゆるりと過ごしてもらいたいというのが私の考えにございます。ただ、雪沙の考えも聞かねばなりませぬな」
そう言って、雪沙の方を見る。
雪沙は目を伏せてしばらく黙ったままでいた。長いまつげは微動だにしない。
「なぜ、私の話を聞きたい」
不意に雪沙が言葉を発した。
「わしの側に付いてほしいと思ったんだぎゃ。それではいかんか」
「私が貴殿のお役に立つとも思えぬが。私は自分の世界のすべてを捨ててきた人間だ」と雪沙は信長の目をじっと見つめる。
「その、捨ててきた世界というのはとてつもなく大きなもののようにわしには思える。わしはそれを知りたい」
信長がそう言ったのを聞いて、雪沙は再び黙りこむ。策彦もうつむいて、雪沙のことばを待っている。
どれぐらいそれが続いただろうか。雪沙は再び口を開いた。
「承知した。ここに留まろう」
城を出るとき、信長の妻である帰蝶が策彦一行の見送りに出た。緑色の小袖がすっと伸びる竹のような凛とした風情を醸し出している。
「雪沙さまはこちらに留まってくださるのですか」
「はい」と雪沙は答える。
「実は、お屋形さまはあなたさまのことを初めてお会いしたときから気にしておりましたの」
「そのようですな」と雪沙はうなずく。
「龍のせいかしら」と帰蝶は微笑む。
「龍といえば、奥方さまの方が」
「えっ、緑のものを身につけているからでしょうか」と帰蝶は自分の小袖をちらちらと見やる。
雪沙は軽くかぶりを振って、少し遠い目になった。
「大昔ですが、あなたさまのように、強い光をたたえる眼を持つ女人がおりました。たいへん美しい領主でもありました。日本でいうなら武家の直系だということで実際に戦闘に臨んでもいました。ただ、打ち負かされたあとは信仰に心をゆだねるようになったそうです。後のことは今や知るよしもないのですが」
雪沙が思いのほか自身の過去を語ったことに帰蝶は驚いた。
彼が話に出したのが、イタリアのフォルリで領主を務めていたカテリーナ・スフォルツァだということはもちろん分からなかっただろう。「女傑」と長く呼ばれていた人でもある。
雪沙にとっては忘れられない人だった。
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