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第10章 ふたりのルイスと魔王1
龍が見える 1554年 尾張国那古野
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〈織田上総介信長、策彦周良(さくげんしゅうりょう)、沢彦宗恩(たくげんそうおん)、雪沙、帰蝶〉
旅の僧四人は無事に尾張国の政秀寺までたどり着いた。臨済宗の寺院で小牧山という小ぶりな山の麓にある。
沢彦宗恩はにこやかに一行を出迎えた。
「皆さま道中ご無事で何より。この辺りも物騒になるばかりですからな」
沢彦が案じたのは道理である。つい先頃も三河で戦があったばかりなのだから。それらの情勢は策彦周良には先刻承知のことだった。
「三河国の緒川(おがわ)に今川の手が攻め入り、こちらのお若い領主が無事に防がれたそうですな」
沢彦はうなずき、策彦を見た。
「さようにございます。ようご存じです。なればその若い領主の噂もお耳に入っておりましょう」
「織田上総介殿ですな」
この年二十歳の織田上総介信長の名は知られていた。尾張守護の斯波氏に次ぐ位置(守護代)である織田家のうちでめきめきと頭角を現している。
実質的に尾張を治めているのはすでに織田家となっている。
「ええ、良くも悪くもあの方の器は容易にははかれませぬ。今はまだただの荒くれものにしか見えませぬが……その上総どのですが、策彦さまに是非お会いしたいと申されております」
策彦はふむ、と頷いた。
「さようですか。拙僧にお話できるようなことがあるかは分かりませぬが、ぜひお会いしたいものですな」
「上総どのは、特に明のことにひどく興味津々のご様子で。すぐには帰れませぬぞ。お覚悟めされませ」
一同はその日政秀寺に泊まり、翌日那古野城に赴くことになった。そして寺域を案内される。広大とはいえないが、立派な堂宇である。家老のために主君が寺院を建立するのは一般的ではない。一同はそれを知っているので、平手政秀の死についてふと思ったりもする。主君の不甲斐なさを諌めての自害だったというのは……。
「愚かもののすることではないですな」
そうつぶやくように言ったのは老いた学僧、雪沙だった。
それを耳にしたからか、沢彦は寺を建立した人物について語り始める。
ーーなるほど、彼は表向き奇矯な服装や振る舞いをする「うつけ」であり、父信秀の葬式で婆沙羅者のなりで現れ霊前に抹香を投げつけたのも間違いではない。それ以前から家中で反感を持つ者も少なくなかったが、なお増えただろう。
しかしそれはあくまでも表に見える部分。奇矯に走るのは上辺だけ取り繕うことを何よりも嫌うゆえである。それで人を見ているのだ。実際は学問にも非常な興味を示すし、身分の隔てなく誰とでも同じように接している。
ただし暗にでも自身に逆意を示す者には何者であろうと決して容赦しない。なぜなら、それを見逃すと自分の命取りになるからである。
この前村木砦でともに戦った水野信元や叔父の織田信光のことは信頼しているし、彼らも信長を理解している。
信長の守役である平手政秀が自害したのは信長が愚かだからということではない。諌めるという意味では家中の軋轢に対してということではないか。それほど家中の扱いが難しいというのを信長に知らしめたと見るならば、主はその忠心に何をか報いんとしたのではないかーー
「まあ、私はそのように考えとるということですな」と沢彦は締めくくる。
雪沙は黙って聞いているが、目を伏せてひたすら考えてもいるようだった。長い睫毛がその瞳の動きを一切隠していた。雪沙がどうしてそのように考え込むか、策彦は大まかに理解できるようだった。
「明日は上総どのにお会いできるのが、まことに楽しみですな」
翌朝日が昇って支度をすると、一行は3里ばかり離れた尾張那古野城に向かう。城じたいは平城でさほど大きいものではないが、城下町は人家が多く、けっこうな賑わいを見せている。
このように人の行き来が盛んな場所は、舞台の中心になるものだーーと雪沙は思う。
那古野城では信長と帰蝶が一行を出迎えた。
帰蝶のさとである美濃衆の出迎えにとどまらず、夫婦で客を出迎えるのはそれほど珍しくない。それは利己心ではなく、ただ人好きのする性格によるものであろう。
一行が笠を解いて、信長の前に座して対面する。
そして、彼は見つける。
僧の一行の中に、気配の異なる者がいることを。
髪は剃髪のあとのポツポツと生えた白いものが見えるばかり。出で立ちも他の者と変わらない。何が異質なのか。
その僧は策彦よりはるかに年長で、もちろん自身の亡き父、信秀よりもずっと上だろう。それ以上は信長には想像がつかなかった。
その高齢が他と異なる唯一のものか。
信長はその高齢の僧をまっすぐに見る。
すると、僧も信長をまっすぐに見ている。
視線がぶつかって、混じりあった。
信長はハッと気がついた。
目だ。
すでに眉毛も睫毛も白くなった、しわだらけのその目の中にある瞳が信長に畏怖の念を与えた。その色は、日本人のものではなかった。
そして、その瞳の中におどるような光があった。それは信長からしか見えないものだったかもしれない。彼はなおも雪沙を凝視した。あたかも火矢で相手のこめかみを狙う射手のように強烈な視線である。
それを受ける老人の目は動じない。
波紋ひとつ立てず木々や空を映し、悲しみの水を湛える湖面の静けさがそこにあった。
「織田さま、この学僧は異国の人なのです」
信長が雪沙に目を奪われていることに気づいた策彦周良はそっと告げる。
この頃、異国の人に出会っている日本人はごくごく少数である。中国や朝鮮、琉球など日本と海を隔てる沿岸の国の人は別である。貿易ならば現在のタイやフィリピンまで赴くこともあるだろう。大内氏の例もあるが西国の領主をはじめ、この頃には商人も船を出している。しかし、インドまでこの頃たどり着いていただろうか。さらにその先となると、皆無に近かった。
記録として公式に残っている人はひとりいる。薩摩出身の河邉氏の子である。
その話はじきに改めてすることとしよう。
信長が雪沙を凝視していたのは、異国の人だからというだけではなかった。その居住まいは閑寂の一言であったが、どこかしら常ならざる気配を感じたのである。策彦の言葉でいったん凝視するのは止めたが、それでもまだ信長は雪沙が気になって仕方がない。
鳶色の目と高い鼻を持つゆえか。
そのようすを、脇に座す帰蝶も気づいている。
そして見かねて言葉を入れた。
「お屋形さま、呆けたように何を固まっておるのです。わざわざお越し下された皆さまに失礼ではございませぬか」
信長は目線を妻に移した。
「うむ」
信長はうつつに戻り、策彦に明国の様子を聞きたいのだと伝えた。この国において他にその話ができる人はいない。もしよければ、しばらく客人として留まって教授いただけないか、云々。
大うつけと周辺で語られる男にしては、殊勝な依頼である。よく見れば巷でよく言われるような、湯帷子を半身はだけるような格好をしていない。肩衣を纏った正装をしている。きちんと礼を尽くしての依頼ということだ。
「なぜ明国のことをお知りになりたいのですやろうか。海の商いを始めようと思われるのでしょうか」と柔らかな口調で策彦が問いを投げる。
寸発置かずに、信長はとうとうと語り出す。
「むろん商いには興味津々、それも知りたい。しかし、わしがもっとも知りたいのは、かの大国の長がいかようにして国を治めとるかということ。明が属国も含めて広大な国土を誇るのは宗恩にも学んだ。かの国では皇帝という役が天辺にあり、その上に朝廷などはないという。それはいかにして成ったのか、勢力を保持しとるのか、そのようなことをもう少し詳しくご教示いただきたい」
彼は策彦が来ると知るもっともっと前から、明の政治体制に興味を持っていたに違いなかった。策彦は大うつけのはっきりした考えにどこかしら清々しいものを感じた。遣明使としての策彦に焦点を絞っていることがいっそう気持ちいい。
「はい、私にお教えできることあらば」と策彦は答えていた。
「あと、これは今しがた思いついたことながら、できるものならその学僧にも同席いただくようお願いしたい」
信長が間髪入れずに言葉を継いだ。
すると、雪沙は目を丸くしてかぶりを振る。
「私は明のことは何一つわかりませぬ」
「貴殿に明のことを尋ねようとは思うておらんでや。しかし、貴殿の目には龍がおる」
帰蝶は信長がいきなり発した言葉を聞いて目を丸くしている。
「目に、何がおるのでしょうか」
一同が信長にまなざしを注ぐ。信長はにやりと笑って言った。
「龍よ」
皆は不思議そうな顔をしている。
帰蝶は少し不機嫌になった。
「龍だの何だのと、現世にないものを見る目をお持ちなのですなあ。私の父もいつかあなた様が昇り龍じゃと申しておりましたが、私には何のことやら。傍にいてもさっぱり見えませぬ」
信長はハッハッハと続けた。
「こなたの兄弟には龍があまたおる。いくらおっても分からんで。しかし確かに龍が見える」
帰蝶は黙った。
彼女の兄弟の半分は龍の字が入っていることを信長はさして言ったのだ。
策彦は雪沙を見やってから、信長に告げた。
「天龍寺から来たからですかな。いや、失敬。雪沙は天竺でも同様のことを日本の破戒僧に言われたそうにございます。確かに、京に至るまでの雪沙の道筋は他に類なきものと存じますが」
信長はふと思案顔になった。
「うむ、面白そうだで」
「政秀寺に好きなだけご滞在いただけますので、宿はお気になさらず」
沢彦が付け足した。
場もそろそろお開きになるかと思われたとき、それまで黙っていた雪沙が口を開いた。
「一つお伺いいたしてもよろしいでしょうか」
「うむ」と信長は応じる。
「私の生まれた地は二千三百年ほど昔に都とされたと言われております。そこから強大な帝国を築き、わずかの間繁栄を享受してまいりました。しかし次第に他国に攻め込まれ帝国は瓦解し、侵入してきた民族のものとなりました。かの都も今は寺院の大本山が威勢を誇るばかりになっております。そして周辺は都市ごとに四分五裂し他国を巻き込んで小競り合いを続けております。
織田さま、私が初めて京の都を訪れたとき、一帯は荒れ果てておりました。戦の後ずいぶん経つというのに。その光景が故郷の都と重なりました。縁あって天龍寺にお世話になることとなり師に学ぶにつれ、私の国とあい通じるものがあるとの感を一層強くいたしました。
織田さまはこの国の有様をどう見ておられましょうや」
雪沙のいう異国の都がどの辺りにあるのか知るはずもないものの、信長はにやりとして、大きな声で言った。
「言うまでもなく、貴殿の申す故国の通りでや」
雪沙は静かに平伏した。
周囲はその話の都が今一つ想像できず、一様に狐につままれたような表情でいる。
帰蝶は不思議な心持ちでそのやりとりを見ていた。
策彦一行が城を退出した後、彼女は侍女に髪をすいてほしいと伝える。侍女が結ばれた彼女の髪をほどく。美しく長い黒髪がはらりと広がっていく。侍女が髪を櫛けずるのに身を預けながら、彼女はポツリとつぶやく。
「お屋形さまに見えているものが、私にはどうにも見えていないようです。私が蝶だからであろうか」
そうつぶやくと、彼女は気持ち良さそうに目を閉じた。
旅の僧四人は無事に尾張国の政秀寺までたどり着いた。臨済宗の寺院で小牧山という小ぶりな山の麓にある。
沢彦宗恩はにこやかに一行を出迎えた。
「皆さま道中ご無事で何より。この辺りも物騒になるばかりですからな」
沢彦が案じたのは道理である。つい先頃も三河で戦があったばかりなのだから。それらの情勢は策彦周良には先刻承知のことだった。
「三河国の緒川(おがわ)に今川の手が攻め入り、こちらのお若い領主が無事に防がれたそうですな」
沢彦はうなずき、策彦を見た。
「さようにございます。ようご存じです。なればその若い領主の噂もお耳に入っておりましょう」
「織田上総介殿ですな」
この年二十歳の織田上総介信長の名は知られていた。尾張守護の斯波氏に次ぐ位置(守護代)である織田家のうちでめきめきと頭角を現している。
実質的に尾張を治めているのはすでに織田家となっている。
「ええ、良くも悪くもあの方の器は容易にははかれませぬ。今はまだただの荒くれものにしか見えませぬが……その上総どのですが、策彦さまに是非お会いしたいと申されております」
策彦はふむ、と頷いた。
「さようですか。拙僧にお話できるようなことがあるかは分かりませぬが、ぜひお会いしたいものですな」
「上総どのは、特に明のことにひどく興味津々のご様子で。すぐには帰れませぬぞ。お覚悟めされませ」
一同はその日政秀寺に泊まり、翌日那古野城に赴くことになった。そして寺域を案内される。広大とはいえないが、立派な堂宇である。家老のために主君が寺院を建立するのは一般的ではない。一同はそれを知っているので、平手政秀の死についてふと思ったりもする。主君の不甲斐なさを諌めての自害だったというのは……。
「愚かもののすることではないですな」
そうつぶやくように言ったのは老いた学僧、雪沙だった。
それを耳にしたからか、沢彦は寺を建立した人物について語り始める。
ーーなるほど、彼は表向き奇矯な服装や振る舞いをする「うつけ」であり、父信秀の葬式で婆沙羅者のなりで現れ霊前に抹香を投げつけたのも間違いではない。それ以前から家中で反感を持つ者も少なくなかったが、なお増えただろう。
しかしそれはあくまでも表に見える部分。奇矯に走るのは上辺だけ取り繕うことを何よりも嫌うゆえである。それで人を見ているのだ。実際は学問にも非常な興味を示すし、身分の隔てなく誰とでも同じように接している。
ただし暗にでも自身に逆意を示す者には何者であろうと決して容赦しない。なぜなら、それを見逃すと自分の命取りになるからである。
この前村木砦でともに戦った水野信元や叔父の織田信光のことは信頼しているし、彼らも信長を理解している。
信長の守役である平手政秀が自害したのは信長が愚かだからということではない。諌めるという意味では家中の軋轢に対してということではないか。それほど家中の扱いが難しいというのを信長に知らしめたと見るならば、主はその忠心に何をか報いんとしたのではないかーー
「まあ、私はそのように考えとるということですな」と沢彦は締めくくる。
雪沙は黙って聞いているが、目を伏せてひたすら考えてもいるようだった。長い睫毛がその瞳の動きを一切隠していた。雪沙がどうしてそのように考え込むか、策彦は大まかに理解できるようだった。
「明日は上総どのにお会いできるのが、まことに楽しみですな」
翌朝日が昇って支度をすると、一行は3里ばかり離れた尾張那古野城に向かう。城じたいは平城でさほど大きいものではないが、城下町は人家が多く、けっこうな賑わいを見せている。
このように人の行き来が盛んな場所は、舞台の中心になるものだーーと雪沙は思う。
那古野城では信長と帰蝶が一行を出迎えた。
帰蝶のさとである美濃衆の出迎えにとどまらず、夫婦で客を出迎えるのはそれほど珍しくない。それは利己心ではなく、ただ人好きのする性格によるものであろう。
一行が笠を解いて、信長の前に座して対面する。
そして、彼は見つける。
僧の一行の中に、気配の異なる者がいることを。
髪は剃髪のあとのポツポツと生えた白いものが見えるばかり。出で立ちも他の者と変わらない。何が異質なのか。
その僧は策彦よりはるかに年長で、もちろん自身の亡き父、信秀よりもずっと上だろう。それ以上は信長には想像がつかなかった。
その高齢が他と異なる唯一のものか。
信長はその高齢の僧をまっすぐに見る。
すると、僧も信長をまっすぐに見ている。
視線がぶつかって、混じりあった。
信長はハッと気がついた。
目だ。
すでに眉毛も睫毛も白くなった、しわだらけのその目の中にある瞳が信長に畏怖の念を与えた。その色は、日本人のものではなかった。
そして、その瞳の中におどるような光があった。それは信長からしか見えないものだったかもしれない。彼はなおも雪沙を凝視した。あたかも火矢で相手のこめかみを狙う射手のように強烈な視線である。
それを受ける老人の目は動じない。
波紋ひとつ立てず木々や空を映し、悲しみの水を湛える湖面の静けさがそこにあった。
「織田さま、この学僧は異国の人なのです」
信長が雪沙に目を奪われていることに気づいた策彦周良はそっと告げる。
この頃、異国の人に出会っている日本人はごくごく少数である。中国や朝鮮、琉球など日本と海を隔てる沿岸の国の人は別である。貿易ならば現在のタイやフィリピンまで赴くこともあるだろう。大内氏の例もあるが西国の領主をはじめ、この頃には商人も船を出している。しかし、インドまでこの頃たどり着いていただろうか。さらにその先となると、皆無に近かった。
記録として公式に残っている人はひとりいる。薩摩出身の河邉氏の子である。
その話はじきに改めてすることとしよう。
信長が雪沙を凝視していたのは、異国の人だからというだけではなかった。その居住まいは閑寂の一言であったが、どこかしら常ならざる気配を感じたのである。策彦の言葉でいったん凝視するのは止めたが、それでもまだ信長は雪沙が気になって仕方がない。
鳶色の目と高い鼻を持つゆえか。
そのようすを、脇に座す帰蝶も気づいている。
そして見かねて言葉を入れた。
「お屋形さま、呆けたように何を固まっておるのです。わざわざお越し下された皆さまに失礼ではございませぬか」
信長は目線を妻に移した。
「うむ」
信長はうつつに戻り、策彦に明国の様子を聞きたいのだと伝えた。この国において他にその話ができる人はいない。もしよければ、しばらく客人として留まって教授いただけないか、云々。
大うつけと周辺で語られる男にしては、殊勝な依頼である。よく見れば巷でよく言われるような、湯帷子を半身はだけるような格好をしていない。肩衣を纏った正装をしている。きちんと礼を尽くしての依頼ということだ。
「なぜ明国のことをお知りになりたいのですやろうか。海の商いを始めようと思われるのでしょうか」と柔らかな口調で策彦が問いを投げる。
寸発置かずに、信長はとうとうと語り出す。
「むろん商いには興味津々、それも知りたい。しかし、わしがもっとも知りたいのは、かの大国の長がいかようにして国を治めとるかということ。明が属国も含めて広大な国土を誇るのは宗恩にも学んだ。かの国では皇帝という役が天辺にあり、その上に朝廷などはないという。それはいかにして成ったのか、勢力を保持しとるのか、そのようなことをもう少し詳しくご教示いただきたい」
彼は策彦が来ると知るもっともっと前から、明の政治体制に興味を持っていたに違いなかった。策彦は大うつけのはっきりした考えにどこかしら清々しいものを感じた。遣明使としての策彦に焦点を絞っていることがいっそう気持ちいい。
「はい、私にお教えできることあらば」と策彦は答えていた。
「あと、これは今しがた思いついたことながら、できるものならその学僧にも同席いただくようお願いしたい」
信長が間髪入れずに言葉を継いだ。
すると、雪沙は目を丸くしてかぶりを振る。
「私は明のことは何一つわかりませぬ」
「貴殿に明のことを尋ねようとは思うておらんでや。しかし、貴殿の目には龍がおる」
帰蝶は信長がいきなり発した言葉を聞いて目を丸くしている。
「目に、何がおるのでしょうか」
一同が信長にまなざしを注ぐ。信長はにやりと笑って言った。
「龍よ」
皆は不思議そうな顔をしている。
帰蝶は少し不機嫌になった。
「龍だの何だのと、現世にないものを見る目をお持ちなのですなあ。私の父もいつかあなた様が昇り龍じゃと申しておりましたが、私には何のことやら。傍にいてもさっぱり見えませぬ」
信長はハッハッハと続けた。
「こなたの兄弟には龍があまたおる。いくらおっても分からんで。しかし確かに龍が見える」
帰蝶は黙った。
彼女の兄弟の半分は龍の字が入っていることを信長はさして言ったのだ。
策彦は雪沙を見やってから、信長に告げた。
「天龍寺から来たからですかな。いや、失敬。雪沙は天竺でも同様のことを日本の破戒僧に言われたそうにございます。確かに、京に至るまでの雪沙の道筋は他に類なきものと存じますが」
信長はふと思案顔になった。
「うむ、面白そうだで」
「政秀寺に好きなだけご滞在いただけますので、宿はお気になさらず」
沢彦が付け足した。
場もそろそろお開きになるかと思われたとき、それまで黙っていた雪沙が口を開いた。
「一つお伺いいたしてもよろしいでしょうか」
「うむ」と信長は応じる。
「私の生まれた地は二千三百年ほど昔に都とされたと言われております。そこから強大な帝国を築き、わずかの間繁栄を享受してまいりました。しかし次第に他国に攻め込まれ帝国は瓦解し、侵入してきた民族のものとなりました。かの都も今は寺院の大本山が威勢を誇るばかりになっております。そして周辺は都市ごとに四分五裂し他国を巻き込んで小競り合いを続けております。
織田さま、私が初めて京の都を訪れたとき、一帯は荒れ果てておりました。戦の後ずいぶん経つというのに。その光景が故郷の都と重なりました。縁あって天龍寺にお世話になることとなり師に学ぶにつれ、私の国とあい通じるものがあるとの感を一層強くいたしました。
織田さまはこの国の有様をどう見ておられましょうや」
雪沙のいう異国の都がどの辺りにあるのか知るはずもないものの、信長はにやりとして、大きな声で言った。
「言うまでもなく、貴殿の申す故国の通りでや」
雪沙は静かに平伏した。
周囲はその話の都が今一つ想像できず、一様に狐につままれたような表情でいる。
帰蝶は不思議な心持ちでそのやりとりを見ていた。
策彦一行が城を退出した後、彼女は侍女に髪をすいてほしいと伝える。侍女が結ばれた彼女の髪をほどく。美しく長い黒髪がはらりと広がっていく。侍女が髪を櫛けずるのに身を預けながら、彼女はポツリとつぶやく。
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