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第10章 ふたりのルイスと魔王1

村木砦の戦い 1554年 三河

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〈織田上総介信長、水野藤四郎信元、水野金吾忠分、帰蝶〉

 天文23年(1554)1月20日、信長の那古野城に弓鑓刀を連ね、万全に戦備えをした千ほどの一勢が到着した。安藤守就を大将にした美濃衆である。千人がすべて那古野の城には詰められないので、近隣の志賀・田幡の村落に陣を張る。
 上総介信長と妻の帰蝶が陣取り見舞い(迎え)に出た。
「こたびは城番のつとめを受けていただき、誠に恐縮至極。礼の言いようもない」と信長は大将に告げる。安藤は軽く兜の頭で会釈をして、はきはきと応える。

「礼は無事三河から戻った暁にいただければ結構にござる。お屋形からも戦況を逐次伝えよと命じられておりますで、次第によっては、さらに兵を増やしますぞ。存分に駿河どもを叩き潰して参られませ。留守居は確かに預り申す」
 安藤はじめ美濃勢をよく知っている信長の妻、帰蝶はそれを聞いてうなずきつつ微笑む。それを横目に信長もカカカと笑う。
「帰蝶が城代だで、まあ城は安泰だわ」
「それは、間違いございませぬな」と安藤も笑っている。

 駿河の今川義元が三河への攻勢を強め、有力な豪族である水野の緒川城(小河とも)に照準を定めた。そして水野家の頭領、水野信元が織田信長に援軍を頼んだ。今川勢との直接対決に打って出ることにしたのだ。
 信長は信元の頼みに応じた。ただ、戦いに出ている間に那古野の自城を襲撃されないとも限らない。そこで、信長は舅の斎藤利政(道三)に那古野の留守を守ってもらうことにした。安藤率いる軍勢はそれに応じてやってきたのである。

「お屋形が誂えよと仰せられたのでな」
 安藤は三間半の大鑓でドンと地面を叩いて見せた。それが合図だったのか、すでに役目を伝えられている美濃の留守居勢は慣れた様子で持ち場に付く。

 今川勢は緒川城からほど近い、村木に急造の砦を築き虎視眈々と攻めるときを待っている。水野と信長勢は合流し、そこを攻めることにした。

 1月22日、兵二千を引き連れ信長は那古野を出立した。
 この出発前後のゴタゴタは信長を少々イラつかせていた。美濃勢には感謝の心しかないが、肝心の家中がいけなかった。家老の林秀貞兄弟が穏便ながらもなんやかんやと難癖をつけて、与力の前田与十郎のところに引きこもってしまった。
 信長は平手政秀亡きあと一層横柄になった一部の家臣を何とかしなければならないと考えたが、今はその時ではなかった。

 その日は熱田に宿を得て、翌日、知多半島に海路で向かうこととしたが、荒天で船が出せない。ここで信長は天を仰いで泣き崩れただろうか。刀を松の根本に放り投げただろうか。
 そんなことはなかった。
「摂津福島で源義経と梶原景時が逆櫓をつけるかで言い争った故事があるが、せいぜいこれほどの荒れようだったでや。是非もない。渡海するで」

 源平の故事が効いたのかどうかはわからないが、言ったもの勝ちのようだ。船はとにかく人を載せ上げつ下がりつ20里ばかりを急ぎゆき、義経ばりの早さで知多の津に到着した。信長は一同をそこで宿営させ、みずからは緒川の水野信元のもとへ愛馬で駆けた。

 信元は屈託のない笑顔で出迎える。
 信長はその姿を見て、不思議な感覚にとらわれた。
「ああ、来てよかった」と思ってしまったのだ。 この笑顔を見るために駆けてきたのではないかとさえ思える。これが藤四郎の手練なところだで。その表情には人を推し量るような裏がない。
「わしにもこういう日向くささがあれば、家中が荒れることもなかったであろうか」と信長は心中でつぶやく。

「荒れた海から回ってきてくれたと聞いた。まことにかたじけない」と信元は援軍の将をねぎらう。
「うむ。他ならぬ貴殿の依頼だで。まあ、それはよい。さっそく攻め口を思案しよまい」

 天候はまだ荒れている上にすでに日も傾きかけていた。緒川城主である金吾忠分と信長の呼び掛けに応じて先に到着していた叔父の信光も加わり、翌朝出陣するための戦略を練ることにした。

 村木のほうは今川方が整備をすすめ、今では砦というよりも堅固な城と化している。北は要害、東は大手門、西に城壁、南には堀が築かれている。攻め口がひとつしかない。敵ながらあっぱれな造りである。
 信元は言う。
「まずは東西を押さえんといかんで、わしらは東へ行き、北へ回る。貴殿らは西から助力いただければ助かる」
 信長はしばし思案してから言った。
「いや、われらは南に行く。西は叔父上にお願いしたい」と静かに言った。同道している信光はちらりと水野の頭領を見た。信元は大きくかぶりを振った。
「いや、あの堀は深すぎるで、攻めるにはかなり手間取る。逃げるのも難儀、貴殿が付く要はあるまい」
「こちらがあり得ぬ方から攻めれば、必ず中は混乱する。それに乗じて東を取ればええで」

 信元はそれ以上、信長に異議を唱えなかった。
「あい分かった。貴殿は大軍の将なり。ただ南の攻めにこだわらず、機を見てどこにでも回ってくれみゃあ」
 信長はうなずいた。

 日の出から一斉に攻撃を仕掛けることになったので一同は早めに休む。信長と信元だけが差しで座している。荒天は収まり、緒川の城の一室には月の光が襖越しに差し込んでいた。
「那古野は大丈夫か」
「舅から兵を借りた。帰蝶がおるで問題はない」
「よき奥方さまだでな」
「あれは、将のほうが合うとるで。美濃衆はおのれが任されたと思うとる。そのせいか最近は市まで何やら勇ましくなってもうたでや」
 市とは、信長の妹でこのとき7歳である。
 信元は陽気に笑った。数時間後には出陣するというのに、差し迫った雰囲気はない。

「ああ頭領なんぞ、面倒だでいかん」
 突然信元がそうつぶやいて寝ころんだので、信長は目を丸くした。
「貴殿には向いとると思うとったが」
 信元は大きくかぶりを振った。
「このご時世、仁徳などは何の役にも立たん。幼少よりの学は何のためだったか。真逆だで。常に人を疑い、嘘を付いて生きねばならぬ。ああ、いやじゃいやじゃ」
「駄々をこねとるでいかん。水野の衆には見せられぬな」
「おうよ、貴殿にしかこぼせんわ」
 信長はすぐに、これが信元なりの励ましであることに気が付いた。藤四郎はこういう人好きのする男なのだ。
「今度はわしも熱田に詣でるで……」
 信元はぶつぶつ言ってそのまま鼾をかいて寝てしまった。
 信長は立ち上がって襖を少しだけ開いて、煌々と輝く月を見上げた。
「このつながりに起請文は必要ないようだで」
 つぶやいて、ほほえみを浮かべた。

 翌朝、三河・尾張、すなわち水野・織田軍は一斉に村木砦に襲いかかった。
 信長が担う南方の掘はただの水路の跡のようなものではなく、瓶のように掘り下げられていた。進んでいった者たちが這いずり上がっていくのはたいへんな難事だった。若い兵らが死にもの狂いで堀を上がり、落ちてはまた登る。堀の上にある敵陣からは石つぶてや矢が降ってくる。登りかかった兵がそれで再び落下し、倒れていく。
「狭間は三つ、こちらで引き受けたぞっ」
 信長がそう叫んで、あまり多くはない鉄砲隊を交互に替え敵の攻撃地点に撃ち放っていく。しかし、それで敵の勢いはなかなか収まらない。それでも信長の掛け声に気勢を上げ、兵は次々と堀をよじ登っていく。
 西方の織田信光隊は優勢に戦いを進めて、六鹿という郎党が一番乗りを果たした。東方の水野信元はやや苦戦したが、息つく間もなく攻めかかったので敵方にも負傷者が多く、しだいに優勢に立つ。
 この戦いは日がくれるまで続いた。そして村木城を守る側にも犠牲者が多く出たため、使者によって降参と謝罪が入れられ、戦いは終結した。

 水野・織田方の勝利だった。

 戦いは終わり、次々と傷つき倒れた兵たちがかつぎこまれてくる。信長はその光景をただ凝視していた。
 堀をよじ登り攻め立てる策は効を奏した。敵はそれに撹乱され動揺し、他が手薄となった。寡勢となったところから犠牲が増え、最終的には降参する気になった。

 ただ、信長は内心、打ちのめされていた。

 この累々と横たわる亡骸は何とする。
 皆わが兵ぞ。
 若いもんがこんなにたくさん、
 亡骸になってしもうたでや。
 わしを見限る奴らぁになびくことなく、
 付いてくれとる者ばかり。
 こんなに大きな犠牲を払うことを、
 わしはついぞ思い至らんかった。 
 こんな戦いを数日続けたら、
 わが軍は全滅だでや。
 その前に皆怖じ気付いて逃げてまうわ。
 勢いだけで城を落とせると甘く見とった。
 その代償がこれかや。

 信長は自らに強い憤りを覚え、亡骸の一つ一つに語りかけた。
「済まぬ」
 手負いの者、無事だった者たちもその姿を見てむせび泣いた。信長の振る舞いには、真心があると感じられたからである。

 気づくと、甲冑姿の水野信元と叔父の信光が脇に立っていた。信元が声をかける。
「わしこそ相済まぬ。早よう援軍を南に出すべきじゃった」
 信長は大きくかぶりを振った。
「貴殿の忠告を聞かず、兵を難所で動かしたのはわしじゃ。貴殿らぁが手いっぱいだったのは分かっとるで」
 信元は悲しげな顔になった。
「いや、自らを責めるようなことを言うてくれるな。わしらを窮地から救ったのはここにいるみなみなだで。お礼申し上げる」
 信元は地べたに座すと、地に頭が付くほど深々と頭を下げた。一同はその姿を見て感極まった。ところどころから嗚咽の声が漏れだす。
 信長も彼の態度に感動を覚えた。

 わが衆の犠牲も報われるほどの一言でや。

 しかし、もう信長は疲れはてて、言うべき言葉を持たなかった。
「藤四郎、後の和議の取り仕切り一切、任せてもよいか」
「承知つかまつった」と信元は一礼した。
 帰途、信長軍は寝返った主もとうに逃げた途上の寺本城に火を放ち、陸路をすすんで尾張に戻った。

 那古野城に戻ると、帰蝶が迎えに出てきた。
 その様子で那古屋城が無事であることを確信できる。美濃衆の安藤守就らも後ろに付いている。すでに勝利の一報は伝えられていたが、帰蝶は信長の様子がいつもと違うことに気が付いた。

 信長は真っ先に美濃衆に頭を下げた。
「留守居の守り、まことにかたじけない。おかげさまで緒川を守ることができ申した」
 安藤が賞賛の言葉を述べる。
「いやはや、上総殿が背後より間断なく攻め立て、敵は戦意をなくしたと聞く。捨て身の戦法、まこと見事にござった」
 捨て身という言葉に信長は少し眉をしかめたが、すぐにそれを消した。
「いや、ぜひ舅殿に直に礼を申したいが、よくよくお伝え下され」
 美濃衆が宿所に去ると帰蝶は着替えた夫のために湯と膳の指図をした。夫のうちひしがれた様子にはとうに気づいている。
 今夜は一人にしておいた方がよいと思い、彼女も静かに部屋から下がった。

 信長は誰もいなくなった部屋の真ん中にどさっと座り込み、呻きながら頭をかきむしった。
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