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第9章 手折られぬひとつの花 カトリーヌ・ド・メディシス

フランス王世を去る 1547年 ランブイエ

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〈カトリーヌ・ド・メディシス、フランソワ1世〉

 カトリーヌが2人目の子(エリザベートと名付けられる)を懐妊した頃、イタリア戦争は転換期を迎えていた。
 1544年9月18日、神聖ローマ皇帝カール5世、フランス国王フランソワ1世の間でひとつの和約がなった。『クレピーの和約』である。この橋渡しをしたのはフランソワ1世の王妃レオノールと愛妾エタンプ公爵夫人だった。長く続く戦いに多額の費用がかかり、王室の財政を圧迫しているのは明白だった。それは神聖ローマ帝国でも同様だった。どちらかといえば、遠征の距離が長い皇帝側の方がより疲弊していた。レオノールはカール5世の姉なので、フランソワ1世に取り次ぐのには適役だった。
 そして、奇妙に思われるかもしれないがエタンプ公爵夫人はレオノールの後押しをして、フランソワ1世に和約を勧める。長い戦争が国民に与える不安も見過ごせないし、王室の財政が逼迫することもまったく望ましくない。
 エタンプ公爵夫人はこのように国政の一端を担える機会を逃さない。もとより、庇護者であるフランソワ1世が戦争で万が一の事態になったら、自身の立場は風前の灯である。レオノールとも繋がりを持つことは自身の今後にとって重要なことだった。

 どのような事情にしても、戦争に一区切りをつけるのは悪いことではなかった。

 条約の内容は、1538年の時点の領土をお互いが保持するというのが、基本的な内容である。
・ブルゴーニュを神聖ローマ帝国は放棄する
・ナポリをフランスは放棄する
・フランドルとアルトワをフランスは放棄する
・サヴォイアとピエモンテをフランスは放棄する

 それと同時にオルレアン公シャルル(フランソワ1世の子、アンリの弟)が皇帝カール5世の血縁の女性と結婚することも加えられ、その場合の持参金や領有地も定めている。さらに、フランスはカール5世のオスマン征伐を援助することや、プロテスタントの武力鎮圧、公会議の開催も密かに約束している。カトリック教会の重要な決定機関である公会議の開催に関しては、教皇パウルス3世が強く望んでいたのはもちろん、皇帝カール5世もプロテスタント問題の収拾のために開催を求めていたのである。

 ざっと見ればフランスが断念する件が多いことに気がつくが、これが王にとってもギリギリの到達点だった。

 妊娠中のカトリーヌはそれに深くかんではいなかったが、ここで王宮の女性たちが立ち回る姿に大きな関心を持って見守っていた。彼女がじかに知る人々が、国際政治というものに関わっていく。そこにどのような事情があっても、ひとつの方向に収斂していく。カトリーヌはそれをひとつのよいお手本だと考えている。

 ただし、夫のアンリは不満だった。弟のシャルルにずいぶんと篤い領地なり婚姻の話が用意されたことにである。もちろん公言したりはしないが、「商人の娘でなく、王の娘をめとればよかった」などとこぼしていたようだ。
 フランスはじきに自分のものになるという立場によるものだろう。

 もうひとり、面白くないと思っている君主がいたことは付け加えておかなければならないだろう。イングランドのヘンリー8世である。この人は簡単にいえばフランスの領地を求めているのだが、この和約がなったことで自分の思惑は外れた。王の失望は大きかった。これを挽回しようと考えてのことか、カトリーヌの生まれたばかりの子フランソワの妻として、スコットランド王女メアリー・スチュワートを送り込むことがその後すぐに決められた。
 メアリーはじきにフランスにやってくるだろう。


 1546年頃からフランソワ1世は体調を崩すようになった。高熱が続き寝込んだり、腫れ物が化膿して歩くのが困難になった時もあった。しばらくして病状は小康状態になったが、1547年になるとそれは再びぶり返すようになった。
 この年の1月にはイングランド王ヘンリー8世が亡くなった。彼はたいへんな肥満体だったので、「病がやってくるのも早かったのだろう」とフランソワ1世は見ていたが、自分も3つしか年齢が違わない。用心しなければと思っていたところに、それはやってきた。
 フランス国王は冬の盛りに高熱を出した。風邪だろうと思われたが熱は去ることがなかった。膿んだ腫れ物がまた現れており、以前より悪化していた。侍医たちは側にずっと付くことになる。
 熱はしばらくすると下がって、王は無理に日常の務めに戻る。しかし小康状態のわずかな無理は、さらなる体調の悪化をもたらした。
 梅毒だろうか、と人々は噂していた。実際の病名は結核ではないかといわれている。

 2月にはもう、王は身動きが取れない状態になった。愛妾のエタンプ夫人の嘆きようは痛々しいほどだった。王は彼女を心底愛していたようだ。彼女の行く末を案じて大臣ら側近にのちのちの生活を保証するようにと言いつけた。
 そう、王自身も臨終のときが近づいていることを悟ったのだ。

 そこから体調が戻ることはなかった。
 1547年3月31日、フランソワ1世は天に召された。
 享年53歳だった。
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