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第9章 手折られぬひとつの花 カトリーヌ・ド・メディシス
忠誠を尽くすに値する人は 1536年 トゥールーズ
しおりを挟む〈フランソワ・ラブレー、ミシェル・ド・ノートルダム、フランス王フランソワ1世、神聖ローマ皇帝カール5世、カトリーヌ・ド・メディシス〉
さて、逃亡中のフランソワ・ラブレーはピレネー山脈寄りのトゥールーズにいるが、世話になっているモンペリエの後輩(年齢的に)ミシェルとは長い付き合いになる。どちらかといえば、ラブレーの弁論をミシェルが拝聴する体が多いのだが、ミシェルもそれをあくび混じりではなく、興味津々に聞けるだけの見識を持ち合わせていた。
もっぱら二人の話題は最近の祖国フランスの情勢についてだった。二人とも資格を取得していたので、公的な職業は医師であるが、ラブレーは著述家だったし、ミシェルははからずも独り身に戻ったので、旅に出たいと考えていた。
トゥールーズは妻子と暮らした町から近かったので、悲しい里心をどうしても捨てられないのだった。そのような空虚にさいなまれる日々に、ラブレーが登場したことはミシェルにとってありがたいことだった。
無理矢理にでも気分を上げてくれる存在は貴重である。もっとも、ラブレーがそこまでミシェルのことを考えていたか定かではない。
「ところで、ハプスブルグ家に挟まれた我がフランスはどのように舵取りをしていくのがよいのだろうな」
「そうですね……信頼に足る同盟相手がいればよいのですが」とミシェルは思案する。
ハプスブルグ家というのは神聖ローマ皇帝カール5世の父方の出自だ。神聖ローマ帝国は現在のドイツ、オーストリア、イタリア半島のナポリ、スペイン全土に及び、広大な領地を得ていた。9世紀に始まる長い長い、紆余曲折も多々あった治世の中で、初期のカール大帝(シャルルマーニュ)に匹敵するほど最大の勢力範囲を得ただろう。この時にはフィレンツェも庇護する役割を担い、どの国も敵わないほどの勢いである……と書きたいところだ。しかしことはそう単純ではない。
「まあ、神聖ローマ皇帝も磐石ではない。外からはオスマン帝国が押し寄せてくるし、内には言うことを聞かない選帝侯がいるし、それがルター派を標榜して陰に陽に圧力をかけている。内憂外患というやつだ。ローマとは上手くやっていても、軍備遠征ににかかる費用は半端ではない。戦争はできる限り回避して、帝国領を維持するので精一杯というのが本当のところだろう。わが国が進むとすれば、その間隙を狙うのが得策だろうな。遮二無二イタリア半島を攻めにいくのでは、これまでの繰り返しになるだろう」
政治学者のようにラブレーはとうとうと語る。
それをミシェルはうなずきながら聞き、しばらく経ってから話し出す。
「やっぱり、内憂の部分は気をつけないといけないでしょう。軍備に傭兵を頼むにしても、かり出される諸侯が領地を離れている間に民が逃散してしまうこともある。農民の力は2百年前よりはるかに強い。帝国領で農民の反乱が起こったのはそんなに昔のことではないでしょう。それにまだ黒死病(ペスト)が小規模ながら思い出したように流行している。それが重なったら、国力は弱まるばかりです。戦争に打って出る前には、足もとを磐石にすることが必要不可欠です」
ラブレーは目を見開いて、満足そうな顔をしている。
「かつて、フォントネー・ル・コントでエラスムスの『愚神礼賛』をきみに見せた甲斐があった。かの偉大なエラスムスのことを。知の交流を尊び、良き信仰を持って平和を目指すというのが彼の根本の考えだ。今はバーゼルにいるようだが、あの方もルター派と一緒にされて不本意だろうな。俗な諧謔はそのための手段だ」
「あなたもそれで、人々が大笑いするような話を書いているのですか」とミシェルはニヤニヤして聞き返す。
それを聞いてラブレーは意地悪な目をして、きっぱりと言う。
「俺は、人間の本性をむき出しにする面白い話が好きなのだ。きれいに取り繕ったものに真理はない」
「ああ、これがラブレーさんだ」とミシェルは少し安心する。長く修道士でいるのに、高潔な聖職者になろうとはかけらも思っていない。その人間臭さがラブレーなのだ。
エラスムスやトマス・モアと並んで、ラブレーはのちに人文主義者と呼ばれるようになるが、人間臭さをとことん追求していくのがこの人の特徴だといえる。
人間臭いラブレーは、宮廷の重臣ジャン・デュ・ペレーの元で医師として勤めていた間、いろいろと王にまつわる話を聞いていた。宮廷にゴシップは付きものだが特に王子の妻であるカトリーヌ・ド・メディシスに関わるものは多かった。それはカトリーヌの素行ではなく、主に実家のメディチ家に関するものだった。
それは仕方ないかもしれない。
教皇は実子のアレッサンドロをメディチの当主にするために、イッポーリトを聖職者にして遠ざけ、正嫡のカトリーヌをフランスに嫁がせた。それだけではない。神聖ローマ皇帝をアレッサンドロの後ろ楯につけて、共和制という政治体制まで変えてしまったのだ。
そして最近の、教皇とイッポーリトの死も宮廷の格好の話題になっていた。二人とも毒殺だと皆が口にする。メディチ家の人間は毒を盛る趣味があるのかと陰口を叩く人もいた。
そこも二人の話題になる。
「それは……メディシスの令嬢だった侯爵夫人にはたいへんなお心の負担でしょう」とミシェルは顔をしかめる。
「そうだな、ただカトリーヌさまはたいそう賢くていらっしゃる。王はそこをひどく気に入っておられるんだ。イタリアの実家がどうであろうが、突き返したりはしないだろう。ただなぁ……」とラブレーがいいよどむ。彼にしては珍しいことだ。
「ただ、どうだと言うんですか」とミシェルは尋ねる。
「ポワティエ伯爵夫人が侯爵の愛情を独り占めにしようと画策しているらしい」とラブレーは遠回しに答える。
「ああ……そちらも内憂ですね……」
ミシェルはカトリーヌの寄る辺なさに思いを馳せる。彼女がイタリアの古典(ダンテを含む)から政治学まで勉強しているというのはよく知られている話でもあった。それだけ聡明な少女が実家の助けも得られず孤軍奮闘しているのがひどく理不尽に思えたのだ。
何とか、侯爵夫人をお助けすることはできないだろうか……とミシェルは思うようになる。
彼はアヴィニョン大学に入った少年の頃、漠然と誰かに仕えたいと思っていた。それが脳裏に甦ってくる。ジャンヌ・ダルクに忠誠を誓ったジル・ド・レエのように、誠を尽くす主はもしかすると彼女なのではないか。
カトリーヌ・ド・メディシスではないのか。
一度、じかにお目にかかる機会が得られればよいのだが……。
その機会は紆余曲折を経て、じきにやってくるだろう。
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