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第9章 手折られぬひとつの花 カトリーヌ・ド・メディシス
怖がりの侍医 1535年 フォンテーヌブロー
しおりを挟む〈マリア・サルヴィアーティ、コジモ・メディチ、フランス王フランソワ1世、ジャン・デュ・ペレー、逃亡中の侍医〉
イトリ、1535年にイタリア半島の町で起こったことについて、フランスのカトリーヌもじきに知ることになるだろう。
フィレンツェにいて、カトリーヌのことを思う人は彼女にどう知らせるべきか悩んでいた。
その筆頭であるマリア・サルヴィアーティは暗澹たる気持ちでいる。早くフランスに戻ってやりたいのに、アレッサンドロの邸宅に詰めることになってしまった。イッポーリトの死と自分がフランスに戻れないこと、まったく喜ばしくない二つのことがらを綴るペンはいっこうに先に進まなかった。
「マンマ、僕もカトリーヌに手紙を書くよ。そう、これからも。アレッサンドロのところに行ったら、やりとりもしづらくなるだろうし……」
息子コジモの言葉を聞いて、マリアは机から顔を上げる。
「ありがとう、コジモ。ここで、フランスのカトリーヌにしてあげられることは何もないのだけれど、少なくとも彼女を思っているということは伝えられる。せめてそれだけでもしたいのよ」
「わかるよ。カトリーヌはひとりで頑張らなければいけないんだからね。まあ、公爵に愛想をつかしたら、フィレンツェに戻ってこいと書いておく。そのときには、アレッサンドロには内緒でね」
「そうね」とマリアはうなずいて微笑む。
◆
そのような会話がフィレンツェで交わされているのとさほど変わらない時期に、噂というのは陸地を、海を風のように渡っていくものである。
フランスでは、マリアの手紙より早く国王フランソワ1世がその情報を知るに至る。カトリーヌの夫アンリもじきに知るだろう。しかし、フランソワ1世が心配していたのはイッポーリトという個人についてではなかった。
クレメンス7世が他界して、フィレンツェが神聖ローマ帝国とどんどん親密さを増している。
そもそも、カトリーヌの持参金も何だかんだと減らしていたし、イタリア半島に領地を約束されていたのもウヤムヤになって消えた。
頼みの綱のひとつはバチカンの枢機卿であるイッポーリトだった。メディチ家出身の枢機卿が新しい教皇との太いパイプになってくれるだろうと思っていたのだ。
しかし、それもなくなった。
しかも、イッポーリトの死の理由はメディチ家の内紛のようだ。
このようなありさまではフランスは、まるで飽きて片隅に追いやられた人形のようではないか。
フランソワ1世は再び、「戦いを厭わない方向に進む」必要があると感じていた。
宮廷の重臣たちはフランソワ1世の考えを聞く機会が折々にある。彼らについては別に字数を割いて述べる必要があるが、その中の一人を今回は取り上げよう。ジャン・デュ・ベレーという人物である。
彼はローマに特使として派遣され、前年の1534年に帰国した。クレメンス7世の大喪に参列していたようだ。つまりはローマの情勢に詳しいということで今後の相談をするに足る人物だった。
さて、彼は王と密談の機会を持った際に、ひとつ別件について尋ねられた。
「そういえば、あの侍医はまだ雲隠れしたままか」
デュ・ペレーは目を丸くして、何と答えるべきか一瞬迷ったが、正直に答えた。
「仰せの通りでございます。ほとぼりがさめたら、ひょいと顔を出してくると思いますが」
「それはたいそうな風来坊だ」と王は笑う。
「陛下、あの男はいろいろ本を書いてはいるようですが、たいていは諧謔なのです。何かことを起こそうという輩ではございません。異能の徒といいますか……変わり者ということで」
「ああ、事件の審理についても報告は受けている。パリ大学の騒ぎとも関わりはなかったと聞いた。もう済んだことだ」とフランソワ1世はうなずく。
読者諸氏は覚えているだろうか。
カトリーヌとアンリの婚礼行列がのろのろとマルセイユからパリに戻る時、パリ大学で騒乱があったことを。
実はことはそれだけでは済まなかったのだ。
その後、フランスの諸都市では不穏な貼り紙やビラが出回った。それはフランス王室に対してではなく、カトリック教会に対するもので、特に教皇の行う儀礼を批判したものだった。
ご丁寧に、この貼り紙とビラは1534年10月18日、同時にばら撒かれた。さらに念入りなことに、アンボワーズの王宮にもこの貼り紙がされたのだ(王宮はいくつもある)。
この『檄文事件』で首謀者は捕えられ、異端とされた者は極刑に処された。貼り紙と同じ内容の主張をしていたジャン・カルヴァンは逃亡した。
彼はのちにジュネーヴを拠点に活動し、ルターと並ぶ新教(プロテスタント)の旗手となる。
一方、パリ大学で学んでいたフランシスコ・ザビエルやイグナティウス・ロヨラは機を一にして、カトリックの修道会を結成するために動き出した。彼らがイエズス会として具体的な活動を始めるのはもう少し後のことだ。
いずれにしても、1534年の夏から秋はキリスト教にとって分裂の分水嶺だったといえる。特にフランスではその後の旧教(カトリック)と新教(ユグノーと呼ばれることになる。プロテスタント)の争いの発端をここに見いだすことができる。
ジャン・デュ・ペレーの侍医をしていた人物はその前にローマに随行していたので、特に強い疑いがかけられたわけではない。しかし、自分の著作の内容が咎められるのではないかと恐れて、事件後すぐに逐電してしまった。デュ・ペレーも自身の関係者であるので、顔を青くしてきちんと調べさせたことは言うまでもない。でないと今度はデュ・ペレーに火の粉が降りかかってくる。
その侍医は大胆なことを書くくせに、たいへん怖がりだった。
王もそのことは把握している。
「いや、その侍医はたいそう占星術に詳しいそうだな。何でもモンペリエでは医学以上に熱心に研究していたとも聞いた」
王の言葉を聞いて、重臣は何をいわんとしているか理解したようだ。ようやく安心して答える。
「仰せの通りでございます。何でも、当時のモンペリエ(大学)には風変わりな人間が多かったそうで、占星術をもとにして、詩作を試みることもあったようです」
王は鼻の下の薄く整えている髭をさすりながらうなずく。
「姿を現すことがあったら、一度話してみたい。何しろ、これほど堂々と笑い話にされると腹を抱えて読むしかない。面白い輩だ。占星術師として来てもらってもいい」
王が本を一冊、デュ・ペレーに渡す。押しいただいてそれを見たデュ・ペレーはギョッとする。
「陛下、この本をお読みになられたのですか?」
「うむ」
その本のタイトルは『パンタグリュエル物語』で、著者はAlcofrybas Nasierと印刷されている。
フランソワ・ラブレーである。
筆名は自身の名前のアナグラムになっていた。
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