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第9章 手折られぬひとつの花 カトリーヌ・ド・メディシス

国王は知性を尊ぶ 1533年 マルセイユ

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〈カトリーヌ・ド・メディシス、オルレアン公アンリ、フランス王フランソワ1世、教皇クレメンス7世〉

 この時代の貴族であるとか王族の婚姻の際は、花嫁が処女であるかを確かめる役目をする人間が側に付いている。また、処女でなくなったかも同様に調べられる。
 花婿が無事にことを果たせるかというのも重要で、事前に練習をしておく場合もあった。女性はそういうわけにはいかないので、あえて不平等と指摘することもできるだろう。
 処女であるということがそれだけ重要なのだが、これはひとつの契約条項である。

 契約なのだ。

 王族の婚姻ではそれが厳格に遂行される。
 カトリーヌ・ド・メディシス、14歳の少女もそのように新婚初夜を迎え女になった。この婚礼を差配したフランス王フランソワ1世だけではなく、花嫁の親族であり司式を担う立場である教皇クレメンス7世もことの推移を注意深く見守っていた。
 注意深すぎたようにも思える。
 教皇は婚礼が済んだあともしばらくフランスに留まっていたからである。カトリーヌがフランスの王家でうまくやっていけるのかと案じていたようだ。もしかしたら肉親の情愛によるところがあったのかもしれないが、ここまでのいきさつを考えれば、政治的な意図の方が多かっただろう。

 フランス王はカトリーヌをオルレアン公爵妃として迎え入れる代わりに、イタリア半島のいくらかを寄進(という表現は正しくないにしても)してもらうつもりだった。ただ、教皇にはそれをまるごと履行するつもりはなかった。さきに書いた通りだが、教皇がまず尊重しているのはフランスの仇敵である神聖ローマ皇帝だったからだ。

 この風見鶏のようなクレメンス7世の動向を、後世の歴史家は公正でないと表現するだろうが、ここではそのように表すつもりはない。ローマ劫略で、殺戮と破壊の現場に居合わせたことはーーそれが安全な場所だったにせよーー大きなトラウマになっただろうと推察できる。皇帝はカトリックの忠実なしもべだったとしても、兵(ランツクネヒト)の多くはそうではないのだ。

 神聖ローマ帝国は決して刺激してはならない相手だった。そして、フランスとも関係をつないでおかなければならなかった。フランスがそっぽを向いて、プロテスタントに寄っていく可能性もあったからである。

 すでにそのような先例があった。イングランド王のヘンリー8世である。王妃との離婚をローマが認めなかったことから、王は激怒しカトリックからの離脱を宣言して独自の道を取ろうとしていた。のちのイングランド国教会である。国教会の正式な成立はこの翌年、1534年になる。
 イングランドの動静やヘンリー8世の6人の妻については、それだけで本が1冊書けるほど膨大なのでここでは触れない。ただ、この30年ほど後に生まれた詩人・戯曲作家がそれらの王朝史を史劇として次々と書き綴ったことだけ述べておこう。
 ウィリアム・シェイクスピアである。
 傑出した人である。

 さて、フランスに戻ろう。

 クレメンス7世の注意深さに反して、フランソワ1世は意外なほど鷹揚だった。自国での盛大な祝宴が成功に終わったという安堵があっただろう。また、イタリア半島に領地を得られるという期待に胸を弾ませていたかもしれない(空手形だったとしても)。

 フランソワ1世がもっともおおらかだったのは、カトリーヌに対してだった。初対面で彼女の賢い振る舞いに、すっかり心を奪われてしまったのである。連日連夜続いた祝宴でも、王は息子の花嫁に感心させられる機会が何度もあった。この少女はフランス語を多少解していたし、教養にあふれていた。ギリシアの古典も、イタリア半島の知恵の数々も、当世の政治学も身につけていた。王がさらに感嘆したのは、少女が数学や計算もしてのけたことだった。
 王はそのような資質を持った子どもを持っていなかったので、大いに感動し周囲の者たちの前でカトリーヌを賛美するのだった。

 少なくとも王はカトリーヌの中に、他の女性にはない知性を感じていた。それに王は晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチを呼び寄せてしまうほど、イタリア半島の文化に憧れているのである。カテリーナは王にとって、ミネルヴァのような存在だったのかもしれない。

 残念なことにカトリーヌの素晴らしさを見分ける目を花婿は持っていなかった。もちろん、情を交わしたのだから嫌うということはなかったものの、深い愛情を持つところまでには至っていないようだ。彼の想い人である年上の女性、ディアンヌも祝宴で華やかに舞っていたので、気がそぞろになるときもあっただろう。彼女はまた登場する。

 教皇の長い逗留は1ヶ月にも及んだのだが、王の態度を見て安心したのか、ようやく艦船団を引き連れてローマに戻ることになった。教皇がクリスマスや新年、ローマにいなければどうなるだろうか。

 カトリーヌは王家の人とともに教皇の見送りに出て、うやうやしく膝まずいた。彼女の様子を見てクレメンス7世は白い衣を風に翻して、まじまじとメディチの娘を見た。

「またこれから苦労もあると思うが、よくつとめなさい」

 その言葉を聞いて膝まずいている娘はそうっと顔を上げる。
「教皇さま、神はいつもともにいてくださいます。そうでございましょう」
 クレメンス7世はその言葉を聞いてうなずいた。そして、ふと気づいたように懐から何かを取り出した。
「カトリーヌ、いや、カテリーナ、これを」
 カテリーナはそのまま受けとる。

 十字架だった。

 カトリーヌはそれをうやうやしく戴くと、それを握りしめる。
「ありがとうございます。大切にいたします」
 教皇は軽くうなずくと、そのまま船上の人になるために、去っていった。


 カトリーヌが教皇クレメンス7世に会うのは、これが最後となった。
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