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第9章 手折られぬひとつの花 カトリーヌ・ド・メディシス

祝祭の夜 1533年 マルセイユ

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〈カトリーヌ・ド・メディシス、オルレアン公アンリ、フランス王フランソワ1世、王妃エレオノール、教皇クレメンス7世、マリア・サルヴィアーティ、イッポーリト・ディ・メディチ〉

「こんなに豪華な衣装を身につけることは、もうないかもしれないわ」

 マルセイユの急造の(そうは見えないほど豪華な)宮殿で衣装を着せられながらカトリーヌはつぶやく。側に付くマリアが同意するようにイタリア語で言う。
「ええ、私も自分の結婚式のときにそう思ったけれど、あのときよりはるかに見事な衣装なことは事実だわ。苦しくはない?」
 カトリーヌは小さくうなずくようなそぶりをする。
「ええ、重くて動きにくいわ。でも大したことではない。これからの日々を思うと」
「逃げたくなった?」とマリアが彼女に一歩近づいてささやく。
「いいえ、あなたがいるだけずいぶん楽だわ、マリア」
 マリアはカトリーヌを抱きしめることができないので、その手を取ってキスをするにとどめた。

 婚礼の当日、1533年10月23日だった。

 王子の花嫁を一目見ようと、すでに町中に人々が集まっていた。
 衛兵たちが一帯に立っているので人々は整然としている。ただ声や音だけは境界を越えてしまうようだった。それはカトリーヌの耳にも届いていた。普通の娘ならばそれを聞いただけで緊張して怖じ気づいてしまうところだが、彼女はそのようなことがなかった。
 まだまだ若い彼女がこれまで経験したことに比べればーーことあらば城壁に吊るしてやろうという輩に引き連れられたことだがーーものの数ではなかった。それでも、これは一世一代の大舞台である。彼女は背筋を真っ直ぐにさせる類いの緊張を感じながら、外に一歩出た。

 歓声、ワーッという歓声と、衛兵の後ろに集まる人々の姿が彼女に映った。カトリーヌは重たい衣装を御するように胸を開き、背筋を真っ直ぐにして、人々に対して微笑みを投げた。
 歓声が大きくなる。
 カトリーヌは用意された馬に、介助を受けてスマートに乗った。小さな頃から馬に乗っているのでそれはとても簡単なことだった。

 彼女は全体に金の刺繍が施されたドレスに、揃いのガウンを身に着けていた。それは、マントヴァの職人が工房丸がかりになって大車輪で仕上げた品だった。そして少し開いた胸元には、メディチ家から持参した大きな真珠の首飾りが華やかな彩りを添えていた。

 実は婚礼はこの日だけでなく1週間ほど、いやもっと長く続くので、衣装や装身具はその分用意する必要があった。後世に豪商として名を残すメディチ家の娘がそれで困ることは決してないのだが、王侯貴族の列に加わるというのは持参金も含め大層な出費が要るということだ。
 もっとも持参金のほうは、クレメンス7世がかなり値切ったと先にも書いた。

 彼女はゆく。
 王の衛兵と、マルセイユの人々の歓声に包まれて。海沿いの町の風はもう冷たさを感じるほどだったが、彼女の心は冷たく縮こまったりはしない。彼女を先導するのは絹とビロードの服に身を包んだ8人の小姓たち。そして6頭の馬もその役割を果たす。どれも今日のために選ばれた選りすぐりの馬である。もちろん、絹とビロードの馬衣を身に着けている。カトリーヌの後に続く女官たちはしずしずとしているが、あるじと同様、金の刺繍で覆われた衣装に身を包み荘厳な雰囲気を醸し出している。

 この花嫁行列はそれほど長い距離を行くわけではない。花婿のアンリと王のフランソワ1世、王妃のエレオノール、そして教皇クレメンス7世が待つ離宮までのわずかの距離である。それでもマルセイユの人々にとって、このときだけが王子の花嫁を公に目にできる唯一の機会なので、興奮は最高潮といえた。
「カトリーヌ! カトリーヌ!」という声もほうぼうから上がった。
 そう呼ばれた当人はまだほんのわずかな違和感を感じたが、微笑みをもってそれに応えることができた。

 その行列の途中で、ふと、カトリーヌは見慣れた人の姿を群衆の中に見つけたような気がして、一瞬だけ軽く振り返った。しかし、その姿はもう確かめることができなかった。

「そうよね、いるはずはない……」

 カトリーヌは誰にも気づかれないように、そう小さくつぶやいてまた離宮への道を進んでいった。

 離宮に到着すると、あとは儀式の連続となる。
 はじめに教皇の滞在する広い部屋に案内され、花婿のアンリ、フランス王と王妃、教皇クレメンス7世と公式な対面式をする。花嫁のカトリーヌはまず、「神の代理人」である教皇の前に膝まずき、その足にキスをする。続いてカトリーヌはフランス王のほうに進むが、教皇にしたことと同じ所作は求められなかった。王は膝まずこうとした彼女を立ち上がらせ、自身も立ち上がる。初々しい花嫁を抱き寄せ、その頬に優しくキスをした。花婿であるアンリと、同席した末子のアングレーム公も父に倣ってカトリーヌにキスをした。王妃のエレオノールは恭しく挨拶をした花嫁に微笑みを返した。

 それが終わると祝宴である。
 これは前夜祭とでもいおうか、顔合わせのようなものだった。イタリアから出張した芸人が余興の栄誉を請け負ったが、異国の興行だからかぎこちなくなったようである。万雷の拍手とはならなかった。

 このマルセイユの婚礼において、俗に言う結婚式というものは2度に分けられるようだった。何しろ教皇に枢機卿も付いているので必要と考えられたのかもしれない。
 それにしても長い。王と教皇が結婚に関する契約の調印をしたのが10月27日である。そして、そこからまた儀式が続くのだ。もともとこのように、万事のんびりと進めるのがこの時代の当世風なのかもしれない。

 この頃にはキリスト教徒としての祝日が当然ある。しかし、この国家的慶事の間ずっと町の人々が休んでいたということはなかっただろうと思われる。

 とにもかくにも10月27日、教皇クレメンス7世と国王フランソワ1世との間で、アンリとカトリーヌの婚姻に関する契約が調印された。調印のあとさっそく、教皇がみずから花婿アンリの手を取り、広間に導いた。花嫁はフランス王の代理として廷臣モンモランシーに導かれ広間に入る。そしてふたりはフランス出身のブルボン枢機卿の前に立ち、誓いの言葉を交わした。

 アンリはカトリーヌに誓いのキスをする。

 それを合図に、広間の一画に陣取っていた楽隊が演奏をはじめる。同様に、広間で誓いの成り行きを見守っていた人々がダンスをはじめる。
 われわれが思い浮かべる、結婚式と披露宴が一緒になったようなものだろうか。
 これが第一の儀式だった。しかし、まだ続きがあるのだ。

 それは翌日のことだった。再びふたりは教皇クレメンス7世の前に座る。結婚に際してのミサが執り行われるのだ。
 カテリーナは王家の女性のための金の冠を戴き、またも神妙な面持ちで大叔父である教皇の前にいる。14歳という年齢を考えれば、カトリーヌがこの、フィレンツェ出発から延々と続く日々に膿み飽いても仕方ないほどだった。

 しかし、彼女は変わらなかった。
 彼女のこれまでの人生を考えれば、これほどの忍耐力、自制力が身についていることは不思議でも何でもなかった。それにカトリーヌは、婚礼の聖なる儀式はこれで終わりだと聞いていた。区切りが見えているのだ。
 一方のアンリは、ミサの間以外は明らかに退屈そうだったのだが。

 聖なる儀式は終わったが、祝宴はまだ終わらない。いや、この日の祝宴がもっとも盛大だった。
 楽隊の演奏にはいっそう熱がこもり、前日よりさらに多くの人が招かれた大広間は満員御礼の大盛況といった趣だ。さすがのフランス王も肩の荷が下りたのか、早くから顔を赤らめて、誰彼なくダンスの相手に引っ張り出していた。

 この祝宴にはクレメンス7世の命令でイッポーリトも参加していた。
 ただ、マリアと話したこともあるので、他の枢機卿の陰に隠れてひたすら目立たないようにしている。

 するとあろうことか、王が他の枢機卿とともにイッポーリトを踊りの輪に誘ったのだ。
「バチカンの皆さんも今夜は無礼講だ。さあ、踊りましょう。これぐらいならば、神も大目に見てくださる」
 フランス王の誘いを断ることはできなかった。
 イッポーリトはおそるおそる、何とか人の群れに埋もれようとしたのだが、王に引き連れられるのだから目立たないはずがない。

 カトリーヌは賑やかな一画にふと目をやって、そこにイッポーリトがいることに気がついた。
 その心はこれまでに経験したことがないほど、動揺しはじめる。側にいたマリアもすぐにそれに気がついた。しかし、この祝宴の場で王とともにダンスを踊るイッポーリトに何かすることもできない。
「カトリーヌ……」
 カトリーヌは少しうつむいて、しばらく黙っていた。
 マリアは心配してカトリーヌの顔を覗き込む。するとカトリーヌはマリアの手を握った。その手はかすかに震えている。

 それは時間にすれば、本当にわずかだった。
 手の震えは次第に収まっていく。
 カトリーヌはマリアの手を握ったまま、静かに顔を上げて微笑みを浮かべた。

「マリア……これは私が望んでいたことなの」

「望んで……いた?」とマリアはおうむ返しに聞いた。

「そう……私ね、この夜が来る前に、一目でいいから……イッポーリトに会いたかったの。それは叶ったわ」
 他の誰にも聞こえないほど小さな声で、カトリーヌはマリアに告げた。

 祝宴はまだまだ賑やかに続いている。
 誰もがワインでしたたかに酔っていた。
 イッポーリトもしたたかに酔っているようだ。
 カトリーヌは素面のまま、祝宴の場で微笑んでいた。

 その夜、カトリーヌはアンリと夫婦の契りを交わした。
 
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