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第8章 さまよえる小公女 カテリーナ・デ・メディチ
きみが「継ぐ人」なんだ 1531年 フィレンツェ
しおりを挟む〈カテリーナ・ディ・メディチ、イッポーリト・メディチ、ルクレツィア・サルヴィアーティ、ヤコボ・サルヴィアーティ、教皇クレメンス7世〉
お互いに好意を持っているふたりが再会したとき、出会い頭に飛び出す言葉は飾り立てたものにはならないだろう。それは昔も今もあまり変わらない。
それぞれが「会えたら絶対に伝えたい」、「会えたらこうしたい」という希望を種々思い描いてきたはずだ。会えなかった日々の長さ、距離がようやくここに来て帳消しになるのだ。不在の空白を埋めるような言葉を探して、用意して、その時を迎える。でも感情がいっぱいになればなるほど、器用に出すことは難しい。
ローマのサルヴィアーティ邸にいる二人にとって、それはお互いにしか分からない、かけがえのない再会だった。フィレンツェの反乱による襲撃から逃れて、住み慣れた家から離れて、ペストの足音を間近に聞きながら過ごしてきた3年である。
この2人の場合も、会えない間に溜めていた想いが流麗な言葉になったわけではなかった。
「イッポーリトにいさま……」
カテリーナの口から出たのはそれだけで、他に何も言えない。ただ、その目はイッポーリトの姿をしっかりととらえ、語られなかった言葉を雄弁に物語っていた。イッポーリトもそれは同じだった。いや、少女が3年を経てどのように変わるのか、それを目の当たりにしたイッポーリトの方がより感情を揺さぶられたはずだ。
「あ……きみも疲れているだろう。今日は食事をとったらゆっくり休んだ方がいい。明日にでもゆっくり話そう」
イッポーリトはそう言うと、すぐに去っていった。カテリーナはほんの少し肩透かしを食ったように感じたが、それがイッポーリトの気遣いであると分かっていたので、落胆はしなかった。
その晩の食事はテーブルに座る全員にとって、明るく心安らぐ時間となった。かつての日々が戻ってきたような懐かしさに溢れている。当時、その場にいなかったヤコボ・サルヴィアーティも歓待役に徹して、カテリーナに心を配っていた。ルクレツィアはカテリーナとイッポーリトに話題を振り分けながら、失った3年の時間を埋めようとしていた。
カテリーナとイッポーリトが席を立つと、ヤコボとルクレツィア夫妻は今後の話を始める。
「バチカンの教皇さまのところには、明日出向くのか」とヤコボが尋ねる。
「ええ、でも午後にしてもらうように伝えてあります。私が一緒に行きます」
「イッポーリトは?」
「イッポーリトは一緒ではない方がいいでしょう」とルクレツィアがきっぱりと言う。
ヤコボはふぅとため息をつく。
「ジョヴァンニがもう少し長く生きていてくれたら、また違ったのだろうが……」
ジョヴァンニとはすでに世を去って10年になる教皇レオ10世のことだ。カテリーナの後見役だった教皇は、カテリーナをイッポーリトと結婚させようとしていた。それでメディチ家の血脈を太くしっかりしたものにしようと考えたのだ。
しかし、レオ10世の従兄弟であるジュリオが少し後に教皇クレメンス7世となって、その話は片隅に追いやられるようになった。公ではないが実子のアレッサンドロをフィレンツェの君主に立てることにしたのだ。
そうなると、イッポーリトとカテリーナを結婚させるわけにはいかない。
カテリーナはメディチ家当主の第一子なのである。他に同格の子はいない。それはごまかしようのない事実だ。
継ぐべきなのは彼女だった。
ルクレツィアはカテリーナをずっと見守っていた。生まれた途端に両親を失った赤子をきちんと養育するのは、メディチの女性にとって当然の役割だった。大ロレンツォの妻でメディチの女家長として長く健在だったクラリーチェ・オルシーニもそのようにしてきた。ルクレツィアもそれを引き継いでカテリーナを育ててきたのである。
この3年間のカテリーナはまるで、狼の群れに放り込まれた子羊のようだった。何とか助けられないかとルクレツィアは強く思い、そう教皇にも伝えてきた。しかし結局、フィレンツェが解放されるまで修道院にやられて、そのまま留められた。
その負い目がルクレツィアにはある。
だからせめて……。
「カテリーナとイッポーリトはお似合いだと思うわ。フィレンツェでもずっと仲がよかったし。メディチ家の今後を思えば、ふたりが結婚してくれるのは望ましいことだと私は今でも思っているの」とルクレツィアは夫に告げる。
「そうだな、きみはずっとそのように言ってきた。私もそれが望ましいことだと思うよ。ただ、教皇を説得するのは、少し思案が必要だね」
ヤコボの言葉にルクレツィアは力強くうなずいて、そっと彼の頬にキスをした。
◆
翌朝早くから、カテリーナとイッポーリトは部屋で作業を始める。小さくなったドレスの代わりに運ばせた、多くの書物の荷ほどきをするのだ。それはすべてフィレンツェにあったイッポーリトの蔵書だった。全部というわけにはいかなかったので、カテリーナが見つくろって運ばせたのだ。イッポーリトは彼女の心遣いに感激していた。
「きみは、ぼくの秘書みたいだね、カテリーナ。ローマにある本もあるけれど、いつでも自分の本が手元にあるというのは頼もしい」
「ええ、最初はマキアヴェッリの『ディスコルシ』を持っていかなくてはと思ったの。そのうちにプラトンとかアリストテレスの本も持ってきた方がいいわって。そんな風にどんどん広がっていってしまって……」とカテリーナは恥ずかしそうに言う。
イッポーリトは嬉しそうな顔になる。
「きみがそんな風に本を選んでいる間、ぼくのことを考えていてくれたということだ。最高だよ。何より、『君主論』の写本まで持ってきてくれた。これはね、読もうかと思っているうちに、逃げ出さなければならなくなった。だからまだ読んでいないんだよ」
「その表紙を見た?」とカテリーナは尋ねる。
「ああ、ピエロとロレンツォ・メディチに捧ぐ、だね」とイッポーリトは写本を見る。
「わたしは、それをアレッサンドロにいさまに渡そうとしたの。でも、いらないって……」
カテリーナのその一言で、イッポーリトはハッと気がついたことがあった。
アレッサンドロは以前から自分を疎んじていた。
それは彼の複雑な生い立ちを考えれば自然なことかもしれない。すべてを知るようになってから、自分は結局後見人であるクレメンス7世の言う通りに生きなければいけないと諦めてきた。しかし、カテリーナまでそのような扱いを受けているのだ。反乱の間は閉じ込めておいて、平和になった後にフィレンツェから出るように命じられるというのは、そのようなことではないのか。
ぼくはまだいい。
でも、カテリーナは違う。
カテリーナはメディチ家を継ぐ唯一の人なのだ。
それがなぜこんな目に遇わなければならないのか。
カテリーナは『君主論』を、アレッサンドロに渡そうとした。メディチの当主になるアレッサンドロに。それはカテリーナの、精一杯の謙譲、敬意の表明だったはずだ。
それを、いらないだと?
バカにするにもほどがある。
イッポーリトは拳を固く握り締めていた。
「おにいさま?」
カテリーナの声にイッポーリトは我に返る。
「カテリーナ、『君主論』の表紙をもう一度読んでごらん」
カテリーナはすらすらとそれを読む。
「IL PRINCIPE
DI NICOLO MACHIAVELLI,
AL MAGNIFICO LORENZO
DI PIERO DE MEDICI」
(君主論
ニッコロ・マキアヴェッリ著
ロレンツォ・マニーフィコと
ピエロ・ディ・メディチに捧ぐ)
「きみは大きなロレンツォの曾孫で、ピエロの孫で、ロレンツォの子だ。それは、きみしかいない。それは知っているね。きみしかいないんだ」
カテリーナはうなずく。
イッポーリトはカテリーナの両肩に手を置いて、その目をまっすぐ見る。
「この写本はきみのものだ。きみに捧げられたものだ。ロレンツォの子であるきみに。きっと、天国のマキアヴェッリもそう認めてくれるさ」
カテリーナは目を丸くする。
「マキアヴェッリさんは、死んじゃったの?」
「ああ、ローマ劫略の後に……きみが修道院に行かされた頃に、共和国政府に復職することが叶わず失意のうちに天に召された。本当に、もったいないことだった。あれほど政治というものを考えていた人はいなかったんだ」
カテリーナは熱心に語るイッポーリトを見て、今まで感じたことのないような気持ちになっていた。
カテリーナはこれからルクレツィアとバチカンに向かう。クレメンス7世に面会するのだ。サルヴィアーティ家の皆が見送ってくれる。カテリーナがイッポーリトを見つめると、イッポーリトは、深くうなずいて見つめ返した。
カテリーナの中に新しく、尽きることのない力が湧いてくる。
愛という力である。
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