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第6章 海の巡礼路(東洋編) フランシスコ・ザビエル
ヘレニズムの名残り 1542年 メリンデ(ケニア)からソコトラ島(イエメン)
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〈フランシスコ・ザビエル、イスラム教のカシズ、セサル・アスピルクエタ〉
メリンデ(ケニア)の町にはそれほど長くいたわけではない。ソーザ新総督も長居することは望んでいない。早く目的地であるゴアに着きたいのは皆同じだ。私たちは数日の滞在でその土地を去ることになった。
この辺りは乾いてはいるものの、モザンビークよりは緑が濃いようだった。季節ごとに陸の風、海の風と風向きが変わることが理由だろうか(著者注 : 季節風、モンスーンのこと)。その風に乗って船も航行するのだ。この辺りはもっとも暑い地域(赤道上)なはずだが、2月だからかそれほど暑くも感じない。私は人々が日陰を求める木々を仰いで見る。
モザンビーク島で見たようなバオバブの木はない。代わりに少し背の高い木がよく見られる。それはアカシアの木のようだが、ここの木はバオバブほど水を溜め込む必要がないようだった。
船が出港する前の日、私たちがメリンデの町を歩いていると、現地のイスラム教徒の男性に話しかけられた。その男性が話をしたいというので少し時間を取ることにした。年配のその男性は私たちが聖職者だと分かっているようだ。セサルは従者らしく一緒についてくる。それで私の威厳が増すものかは分からないが、安全上一人で出歩かない方がよいのも確かだった。ふと見ると、遠巻きに人々がこちらを見ている。私たちは注目されているらしい。
彼は私たちをイスラム教の寺院であるモスクの前に導いてきた。私はどきりとした。彼は私たちを改宗させようとしているのかと一瞬考えた。しかし、彼は私たちを中に入れることはせず、門前でモスクを指して言った。
「Kuna misikiti mingi hapa.Hata hivyo, watu wachache wanakuja kuabudu. Je, watu wote wanaenda kanisa kuabudu katika nchi yako?」
もちろん、私たちにその言葉が理解できるはずはなかった。「分からない」という風に首を傾げると、遠巻きに見ていた男性が一人私たちの前に進み出て、たどたどしいポルトガル語で告げる。
「Há muitas mesquitas aqui, mas poucas pessoas vêm para adorar. Todas as pessoas vão à igreja para adorar no seu país?」
(ここにはたくさんのモスクがあります。しかし、礼拝に来る人はほとんどいません。あなたの国では、すべての人が礼拝のために教会に行きますか)
「Sim(はい)」と私は答えて、進み出た男性を急場の通訳にして話を続けた。
聞けば、この国では古くからイスラム王朝が進出し、交易都市として発展させてきたので、大半の人々がイスラム教徒であるという。メリンデにも17のモスクがあるが今日にいたって、人が訪れるのは3つのモスクだけで、礼拝に訪れることを始め戒律を守る人も減っているという。話しかけてきた男性はイスラム教のカシズ(礼拝を指導する教師)であるとのことだが、現状を嘆いていて、皆が熱心な信者になるにはどうしたらよいのかと私たちの事情を聞きに来たのだ。
私は彼の率直さに感じ入ったので、キリスト教の司祭として自身の考えをポルトガル語で答える。それを間に入ってくれた男性が現地の言葉(スワヒリ語)に通訳する。通訳の問題ではなかったと思うが、私の主張と彼の主張はまったく噛み合わなかった。それでも男性は自分の言い分を話せたことが満足だったようで、最後に、「こちらにも神がお出ましにならないと、やれやれ」と苦笑して去っていった。
セサルはそのやりとりをじっと聞いていたが、後で静かに私に言う。
「主イエス・キリストは自身の過酷な受難の人生を通して、神の大きな愛と救いを説き、自らも十字架の死と復活を体現した。それが多くの人々に愛と救いを与えたのだ。そのことを常に心に持つことが信者として最も大切なことだろう。私たちはイエスを通して愛と救いを受けていると感じている。生かされていると感じる。だから信者は善く生きようとし、すすんで礼拝に行くのだ。礼拝が先にあるのではない。それは伝わっただろうか」
私はセサルの顔を見る。彼の指摘はもっともなことだった。イエス・キリストがどのような存在であるかをまったく知らない人と話す。その場合、私たちがあたりまえ、常識だと思っていることから、語り起こす必要があるのだ。
セサルはかすかに微笑みを浮かべて続ける。
「いずれにしても対話することが大切だ。こういった対話がローマやコンスタンティノープル、あるいはイェルサレムでできれば言うことはないな。当然、お互いが違う考えであることを十分承知した上でなければならないが」
セサルの言うような「対話」がローマやコンスタンティノープル、イェルサレムで行うことができたら……しかしこのときはカトリックとプロテスタントですら、対話のテーブルに着くことが困難だったのだ。教皇パウルス3世が呼びかけている公会議もすぐに開催できる見通しはない。プロテスタントが勃興した神聖ローマ帝国では皇帝カール5世が対応に苦慮している。
ましてや政治の世界では、オスマン・トルコがその神聖ローマ帝国とにらみ合いを続けている。私たちが当初誓願していたイェルサレムへの巡礼を断念したのも、それが原因だったのだ。
政治と宗教は別であるのが理想だろう。しかしそうではない。私だってその例にもれないのだ。ポルトガル王の意思に沿って東方宣教の旅に出ているのだから。ポルトガルが支配した地域で宣教を行うというのが王の御意であるが、その務めを遂行するだけなら、政治の一端に過ぎないだろう。例えば強制的に現地の人々を改宗させても、その地に信仰が根付かなければ形だけのものになってしまうのではないか。メリンデの、礼拝者のいないモスクはその見本のように思えた。ただ、根付かせるためには何世代にも渡って受け継ぐだけの素地が必要だし、素地を築く能力のある者が指導的な役割を担わなければならない。
後に私はそのような道を開く役割を与えられたのだと思うようになった。
このように、宣教の意味について旅が進むほどに深く考えるようになったのだが、その最初はアフリカの東海岸を進んでいたこの頃だったように思う。
メリンデを出発する日、セサルはずっと海を眺めていた。私は声をかけたが、しばらく彼は名残惜しそうにそこに立っていた。もう皆乗船を始めている。私がもう一度声をかけようとすると、セサルは微笑んで振り向いた。
「さあ、行こうか」
ーーーーーーーーーー
とはいえ、すぐにゴアに着いたわけではないのだよ、アントニオ。
そういえば、あなたははマラッカから三洲島に至る船の中で、鄭和(ていわ、15世紀初頭に中国からインド洋までの大航海を行った)の話をしていた。彼もメリンデまでたどり着いたのだった。
私はそのとき、海の道が私の前に無限に広がっていくようにも思えたのだ。100年以上前の航海者がどのような思いで海に出たのかと想像を繰り返した。今は海禁策で門戸が閉ざされていても、そのような航海者をもつ国であれば、いつか開くことがあるはずだとも思った。
しかし、それは今ではないようだ。
話を続けよう。
私たちは季節風の助けを受けて、アフリカの東部を北上していった。そして、アフリカとアラビア半島の海の境目にある、ソコトラ島(現在イエメンの一県)にたどり着いた。
この島はアフリカとアラビアの間に位置することから、古くから交易の中継地として栄えたと聞いて、私は賑やかな港町を想像した。しかし、その想像は簡単に覆された。
周囲25~30レグア(125~150km)というこの島は不思議な場所だった。
まず目に入ったのは人ではなく、木だった。
変わった木だった。もちろん、これまで目にしてきたヤシの木も多く見られたが、それ以上に目を引いたのが大きな傘のような木だった。傘であるとかキノコとか、そのような形容しかできない。見事な形なのだ。この木はメリンデでもモザンビークでも目にしたことがない。セサルもその木には大いに興味を引かれていた。上陸した後で、「あの木は何と言う木だ」と聞いたところ、「シナバル」という言葉が返ってきた。(※1)この木から産する樹脂が「竜血」として、古代ローマ時代から鎮痛、消炎、止血剤として珍重されているということだった。ソコトラ島の主な貿易品だという。
この島は静かでのどかな雰囲気だった。その土地は痩せており、小麦も米もとうもろこしも産み出せない。果物もない。人々の主食はヤシの実である。海には魚がいるしヤギが人の数ほどいる。それで食糧はこと足りているというのだ。
この国で最も不思議なことは、その風景の独特さではなく、人々の言葉だった。古くから交易で栄えてきたためなのか、いろいろな地域の影響があるようなのだが、その言語には書き文字がない。話されるだけである。私の母語であるバスク語も他から見ると馴染みの薄い言葉になるかと思うが、書き文字がない言語というのに出会ったのは初めてだった。
このことが私の想像力をかき立てて止まなくなった。音だけを聞けば、アラビア語に通ずるというのが周囲の意見だったが、アラビア語とも異なるものらしい。そのような未知の部分も含めて、発語だけで言語が成り立つということに私は感動したのだ。それはきっとはるか昔から受け継がれたものだからではないのか。
そう、パリ大学バルバラ学院でアリストテレスを学んでいたときの情熱がふっと蘇ったのだ。古代ギリシア(ヘレニズム)の時代、この土地で話されていた言葉の名残かもしれない。そんな風に思ったのだ。その話をするとセサルも興味深そうに耳を傾けた。
「それならば、アレクサンドロス大王がペルシアのダレイオス3世とガウガメラの戦いで雌雄を決したときに、アラビア半島で語られていた言葉かもしれない」
セサルは生き生きとアレクサンドロス大王の東征の話をはじめる。真偽のほどはわからないのだが、それはあまり問題ではなかったのだ。私も彼につられるように気分が高揚するのを覚えた。
幼い頃に読んだプルタルコスの『英雄伝』を思い出したし、嬉々として話しているセサルはその時も私とともにいたのだ。
ソコトラ島にはしばらく滞在することになる。
〈本文注〉※1 竜血樹(りゅうけつじゅ)のこと。
メリンデ(ケニア)の町にはそれほど長くいたわけではない。ソーザ新総督も長居することは望んでいない。早く目的地であるゴアに着きたいのは皆同じだ。私たちは数日の滞在でその土地を去ることになった。
この辺りは乾いてはいるものの、モザンビークよりは緑が濃いようだった。季節ごとに陸の風、海の風と風向きが変わることが理由だろうか(著者注 : 季節風、モンスーンのこと)。その風に乗って船も航行するのだ。この辺りはもっとも暑い地域(赤道上)なはずだが、2月だからかそれほど暑くも感じない。私は人々が日陰を求める木々を仰いで見る。
モザンビーク島で見たようなバオバブの木はない。代わりに少し背の高い木がよく見られる。それはアカシアの木のようだが、ここの木はバオバブほど水を溜め込む必要がないようだった。
船が出港する前の日、私たちがメリンデの町を歩いていると、現地のイスラム教徒の男性に話しかけられた。その男性が話をしたいというので少し時間を取ることにした。年配のその男性は私たちが聖職者だと分かっているようだ。セサルは従者らしく一緒についてくる。それで私の威厳が増すものかは分からないが、安全上一人で出歩かない方がよいのも確かだった。ふと見ると、遠巻きに人々がこちらを見ている。私たちは注目されているらしい。
彼は私たちをイスラム教の寺院であるモスクの前に導いてきた。私はどきりとした。彼は私たちを改宗させようとしているのかと一瞬考えた。しかし、彼は私たちを中に入れることはせず、門前でモスクを指して言った。
「Kuna misikiti mingi hapa.Hata hivyo, watu wachache wanakuja kuabudu. Je, watu wote wanaenda kanisa kuabudu katika nchi yako?」
もちろん、私たちにその言葉が理解できるはずはなかった。「分からない」という風に首を傾げると、遠巻きに見ていた男性が一人私たちの前に進み出て、たどたどしいポルトガル語で告げる。
「Há muitas mesquitas aqui, mas poucas pessoas vêm para adorar. Todas as pessoas vão à igreja para adorar no seu país?」
(ここにはたくさんのモスクがあります。しかし、礼拝に来る人はほとんどいません。あなたの国では、すべての人が礼拝のために教会に行きますか)
「Sim(はい)」と私は答えて、進み出た男性を急場の通訳にして話を続けた。
聞けば、この国では古くからイスラム王朝が進出し、交易都市として発展させてきたので、大半の人々がイスラム教徒であるという。メリンデにも17のモスクがあるが今日にいたって、人が訪れるのは3つのモスクだけで、礼拝に訪れることを始め戒律を守る人も減っているという。話しかけてきた男性はイスラム教のカシズ(礼拝を指導する教師)であるとのことだが、現状を嘆いていて、皆が熱心な信者になるにはどうしたらよいのかと私たちの事情を聞きに来たのだ。
私は彼の率直さに感じ入ったので、キリスト教の司祭として自身の考えをポルトガル語で答える。それを間に入ってくれた男性が現地の言葉(スワヒリ語)に通訳する。通訳の問題ではなかったと思うが、私の主張と彼の主張はまったく噛み合わなかった。それでも男性は自分の言い分を話せたことが満足だったようで、最後に、「こちらにも神がお出ましにならないと、やれやれ」と苦笑して去っていった。
セサルはそのやりとりをじっと聞いていたが、後で静かに私に言う。
「主イエス・キリストは自身の過酷な受難の人生を通して、神の大きな愛と救いを説き、自らも十字架の死と復活を体現した。それが多くの人々に愛と救いを与えたのだ。そのことを常に心に持つことが信者として最も大切なことだろう。私たちはイエスを通して愛と救いを受けていると感じている。生かされていると感じる。だから信者は善く生きようとし、すすんで礼拝に行くのだ。礼拝が先にあるのではない。それは伝わっただろうか」
私はセサルの顔を見る。彼の指摘はもっともなことだった。イエス・キリストがどのような存在であるかをまったく知らない人と話す。その場合、私たちがあたりまえ、常識だと思っていることから、語り起こす必要があるのだ。
セサルはかすかに微笑みを浮かべて続ける。
「いずれにしても対話することが大切だ。こういった対話がローマやコンスタンティノープル、あるいはイェルサレムでできれば言うことはないな。当然、お互いが違う考えであることを十分承知した上でなければならないが」
セサルの言うような「対話」がローマやコンスタンティノープル、イェルサレムで行うことができたら……しかしこのときはカトリックとプロテスタントですら、対話のテーブルに着くことが困難だったのだ。教皇パウルス3世が呼びかけている公会議もすぐに開催できる見通しはない。プロテスタントが勃興した神聖ローマ帝国では皇帝カール5世が対応に苦慮している。
ましてや政治の世界では、オスマン・トルコがその神聖ローマ帝国とにらみ合いを続けている。私たちが当初誓願していたイェルサレムへの巡礼を断念したのも、それが原因だったのだ。
政治と宗教は別であるのが理想だろう。しかしそうではない。私だってその例にもれないのだ。ポルトガル王の意思に沿って東方宣教の旅に出ているのだから。ポルトガルが支配した地域で宣教を行うというのが王の御意であるが、その務めを遂行するだけなら、政治の一端に過ぎないだろう。例えば強制的に現地の人々を改宗させても、その地に信仰が根付かなければ形だけのものになってしまうのではないか。メリンデの、礼拝者のいないモスクはその見本のように思えた。ただ、根付かせるためには何世代にも渡って受け継ぐだけの素地が必要だし、素地を築く能力のある者が指導的な役割を担わなければならない。
後に私はそのような道を開く役割を与えられたのだと思うようになった。
このように、宣教の意味について旅が進むほどに深く考えるようになったのだが、その最初はアフリカの東海岸を進んでいたこの頃だったように思う。
メリンデを出発する日、セサルはずっと海を眺めていた。私は声をかけたが、しばらく彼は名残惜しそうにそこに立っていた。もう皆乗船を始めている。私がもう一度声をかけようとすると、セサルは微笑んで振り向いた。
「さあ、行こうか」
ーーーーーーーーーー
とはいえ、すぐにゴアに着いたわけではないのだよ、アントニオ。
そういえば、あなたははマラッカから三洲島に至る船の中で、鄭和(ていわ、15世紀初頭に中国からインド洋までの大航海を行った)の話をしていた。彼もメリンデまでたどり着いたのだった。
私はそのとき、海の道が私の前に無限に広がっていくようにも思えたのだ。100年以上前の航海者がどのような思いで海に出たのかと想像を繰り返した。今は海禁策で門戸が閉ざされていても、そのような航海者をもつ国であれば、いつか開くことがあるはずだとも思った。
しかし、それは今ではないようだ。
話を続けよう。
私たちは季節風の助けを受けて、アフリカの東部を北上していった。そして、アフリカとアラビア半島の海の境目にある、ソコトラ島(現在イエメンの一県)にたどり着いた。
この島はアフリカとアラビアの間に位置することから、古くから交易の中継地として栄えたと聞いて、私は賑やかな港町を想像した。しかし、その想像は簡単に覆された。
周囲25~30レグア(125~150km)というこの島は不思議な場所だった。
まず目に入ったのは人ではなく、木だった。
変わった木だった。もちろん、これまで目にしてきたヤシの木も多く見られたが、それ以上に目を引いたのが大きな傘のような木だった。傘であるとかキノコとか、そのような形容しかできない。見事な形なのだ。この木はメリンデでもモザンビークでも目にしたことがない。セサルもその木には大いに興味を引かれていた。上陸した後で、「あの木は何と言う木だ」と聞いたところ、「シナバル」という言葉が返ってきた。(※1)この木から産する樹脂が「竜血」として、古代ローマ時代から鎮痛、消炎、止血剤として珍重されているということだった。ソコトラ島の主な貿易品だという。
この島は静かでのどかな雰囲気だった。その土地は痩せており、小麦も米もとうもろこしも産み出せない。果物もない。人々の主食はヤシの実である。海には魚がいるしヤギが人の数ほどいる。それで食糧はこと足りているというのだ。
この国で最も不思議なことは、その風景の独特さではなく、人々の言葉だった。古くから交易で栄えてきたためなのか、いろいろな地域の影響があるようなのだが、その言語には書き文字がない。話されるだけである。私の母語であるバスク語も他から見ると馴染みの薄い言葉になるかと思うが、書き文字がない言語というのに出会ったのは初めてだった。
このことが私の想像力をかき立てて止まなくなった。音だけを聞けば、アラビア語に通ずるというのが周囲の意見だったが、アラビア語とも異なるものらしい。そのような未知の部分も含めて、発語だけで言語が成り立つということに私は感動したのだ。それはきっとはるか昔から受け継がれたものだからではないのか。
そう、パリ大学バルバラ学院でアリストテレスを学んでいたときの情熱がふっと蘇ったのだ。古代ギリシア(ヘレニズム)の時代、この土地で話されていた言葉の名残かもしれない。そんな風に思ったのだ。その話をするとセサルも興味深そうに耳を傾けた。
「それならば、アレクサンドロス大王がペルシアのダレイオス3世とガウガメラの戦いで雌雄を決したときに、アラビア半島で語られていた言葉かもしれない」
セサルは生き生きとアレクサンドロス大王の東征の話をはじめる。真偽のほどはわからないのだが、それはあまり問題ではなかったのだ。私も彼につられるように気分が高揚するのを覚えた。
幼い頃に読んだプルタルコスの『英雄伝』を思い出したし、嬉々として話しているセサルはその時も私とともにいたのだ。
ソコトラ島にはしばらく滞在することになる。
〈本文注〉※1 竜血樹(りゅうけつじゅ)のこと。
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