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第5章 フィガロは広場に行く3 ニコラス・コレーリャ
成熟 1540年 フェラーラ、ヴェネツィア
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〈エルコレ・デステ、レナータ公妃、ジャン・カルヴァン、ニコラス・コレーリャ、ソッラ、フランシスコ・ボルハ〉
※今回のお話には性的な表現があります。ご了承のうえお読みください。
フェラーラ公国の当主、エルコレ・デステは悩みを抱えていた。
妻のレナータのことである。フランスから嫁入りした彼女はなかなかフェラーラの風土に馴染めない。お互いに歩み合えた時期には子供も次々に生まれたが、長くは続かなかった。1女アンナ、1男アルフォンソ(次期当主)が物心つく頃には夫婦の関係は冷えきっていた。
その主な理由はレナータが新教(プロテスタント)に傾倒していることである。
エルコレ自身はカトリックの環境で生まれ育って、それに反発を感じたことがない。何より、彼の母ルクレツィアは元教皇の娘だったし、デステは代々枢機卿(すうきけい、すうききょう)を出している家なのだ。現にエルコレの弟イッポーリトはローマにいるし、2年前に生まれた2男ルイージも枢機卿にするべく話を進めているのだ。
したがって、身内に新教に傾倒する者がいるのは許されないことだった。
もともとレナータは新教びいきだったが、ジャン・カルヴァン(カルヴァン派の創始者)との手紙のやりとりを通じて、その考えはいっそう堅固になっていった。
ここで、レナータの立場を擁護するわけではないが彼女の故国であるフランスの状況を述べておこう。
フランスはもともと、歴代の王に始まり敬虔なカトリックの国であった。しかし、カトリック批判からはじまったルターの運動はみるみる間に広まっていき、聖職者にも同調者が現れる。1520年代には修道士が火あぶりにされるなど、国は弾圧する姿勢を強めた。
そこで新教の勢いが弱まったかのように思われたが、完全に消えることはなかった。1530年代にはパリ大学の総長がカトリックのミサの中止を求める事件も起こる。最高学府でもカトリックに批判的な流れが浸透していたということだ。
それは、パリ大学でイグナティウス・ロヨラやフランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーブルらが誓願をしたのと同じ時期である。彼らが修道会を結成したのは、そのような状況の中だったということを付記しておこう。
少し話を進めてしまうが、1540年代後半になるとジャン・カルヴァンが聖書に忠実な信仰を唱える運動をフランス国外から広げていく(彼は亡命していた)。そして、フランスにおける新教徒は「ユグノー」と呼ばれる一大勢力になる。そして、それがのちのフランスに大きな内乱を引き起こすこととなる。
エルコレの妻レナータは、そのカルヴァンと文通していたのである。当時はまだそれほど有名ではなかったが、カルヴァンの一派はルター派の作った礎石を大きな建物に仕上げるような役割を果たすのだ。
夫婦の間の行き違いなら穏便に済ませようと思っていたエルコレだが、この問題について見逃すことはいよいよできなくなっていた。
レナータには新しい侍女が付けられ、他とは一切連絡を取らせないことにした。いわゆる軟禁状態といえる。
「そんなわけだ。どうしてこういう風になってしまったのだろうと思うよ。私の両親はそのようなことがなかったのに、私がよほどひどく扱ったのだろうかと……」とエルコレがニコラスにつぶやく。
ニコラスが言えることは何もない。プロテスタントの問題は彼には身近ではないのだ。
「そうか……君がそう決めたことなら仕方がない」
エルコレは寂しげな目でうなずく。
この結婚は失敗だった。
単に配偶者の多情に起因するならば、愛情の消失によるならば、結婚が存続する例は多々ある(浮気が原因で処刑される例はあるが)。
しかし、政治や宗教、犯罪がからんだ場合は難しい。エルコレとレナータの場合はそこまで悪化してしまったのだ。
エルコレは壁にかけられた母の肖像画を眺めながら、ためいきをつく。
「ああ、ニコラス、私の方はそれぐらいで、フェラーラは今のところマントヴァともうまく行っているし、イタリア半島では戦争の召集もかかっていない。海戦の影響は多少あるけれど、ヴェネツィアほどではないよ。幸い子どもも皆元気だ。まだルクレツィアやルイージは小さいから、ソッラがついてくれるなら願ってもないことだ。で、いつ頃出発するつもりかい?」
「そうだな、秋になったらすぐ出たいと思う。ティッツィアーノ師匠とも話したんだけど、それまでは大きな壁画制作の目処がたたないだろう。それが終わったら……」
「ああ、庁舎の壁画か。いよいよだな」とエルコレが応じる。
「よく知っているね」
「それはもう、ティッツィアーノはマントヴァからも注文を出しているからね。現当主のフェデリーコはたいそうお気に入りで、ティッツィアーノ本人でないとイヤだと言う。そういう時は君たちも困るだろう」とエルコレがニヤリとする。
「ああ、その通りだよ」とニコラスも苦笑する。
すでにニコラスから直接、スペイン・ヴァリャドリードにいるフランシスコ・ボルハには手紙を出して、返信が届いていた。
スペイン領内ではフランシスコ・ボルハ起筆の紹介状(同封されていた)を見せれば通行に困難は生じないだろうと記されていた。また、船でガンディアから上陸するのであれば、父のホアン・ボルハを訪問してほしいこと、ヴァリャドリードにぜひ立ち寄ってほしいとも書いてあった。
「何かこう、至れり尽くせりで申し訳ない気がする」とニコラスがエルコレに告げる。
「……イタリアのボルジア家の人間はスペインに行ったことがない。きみは厳密に言うとそうではないけれど、一族に連なる人間だ。会いたいと思うのは自然なことだろう。君ならミケロットの話も、私の母ルクレツィアの話もできる。あ、渡した剣は持っていってくれよ。あれは護身用でもあるし、使うことがないにしても、きっと君を守ってくれるはずだ。あれにはボルジアの歴史が刻まれているからね」
ニコラスは静かにうなずいた。
ニコラスがヴェネツィアの自宅に戻ると、妻のラウラが食事を用意して待っていた。
「今日帰るって分かっていたの?」とニコラスは驚く。この時代には、遠方に出た家族がいつ帰るかあらかじめ知る手段がない。
「昨日も、おとといも作っていたわ」とラウラが微笑む。
ニコラスはリスボンに一人で行くことに決めている。リスボンへはどう短く見積もっても片道で2ヶ月ほどかかるだろう。従者が多くつく王侯貴族ならまだしも、それほどの異国の旅に女性を連れていくことはできない。エルコレはフェラーラから従者を出すと言われたが、それも断った。母をすぐに連れて帰れるかも分からないのだ。
一人で行こうと決めていた。
ラウラはニコラスの意思をすでに聞いている。幸いラウラは刺繍の仕事で引く手あまたになっていたので、数ヶ月夫が不在でも一人で十分暮らしていける。それでも、リアルト橋のたもとで10年前に知り合って以降、これほど長く離れるのは初めてのことだった。
本当は一緒に行きたい。
ラウラはその言葉を飲み込んで、ニコラスを笑って送ろうと思っていた。
食事を終えると、ニコラスは紙とチョークを取ってラウラに声をかけた。
「少し、描かせてもらってもいい?」
「ええ」と答えるとラウラは髪をほどいた。
金色に輝く髪が波打って流れおちてていく。ニコラスは髪をほどいた彼女を描くのが好きだった。ラウラは髪をとかして、左側に長い髪を寄せた。
ニコラスは椅子に腰かけた彼女の上半身をスケッチしていく。これまでにもう数えきれないほどしてきたことなので、お互いに勝手知ったるものである。それでも、10年の間に少しずつ歳月の変化は現れる。ラウラはほんの少しふっくらしてきたし、頬骨もわずかに上がったようだ。ニコラスはそんなことを考えながら、チョークを動かしている。
ニコラスがラウラを描いたスケッチは膨大な数にのぼる。その1枚1枚が二人の10年の記録でもあるのだ。
一通りスケッチが終わると、ラウラはニコラスに言う。
「今日は私、あなたを描きたいわ」
「え、ラウラがそんなことを言うなんて珍しいな」
ニコラスは紙とチョークをラウラに手渡すと、今度は自分が椅子に腰かけた。ラウラはニコラスがしていたように寝台に腰かけて、膝の上に板と紙を載せて、スケッチを始めた。
ニコラスほどではないが、ラウラも絵は上手である。勤め先の刺繍工房では腕を見込まれて、図案を起こす作業もしているのだ。
ラウラが紙にチョークを走らせる音を、ニコラスは心地よく聴いている。ラウラは1枚描き終えて、もう1枚紙を取る。そしてまた無心にチョークを紙に走らせる。ニコラスはうつむきがちなラウラの目を見る。その目には涙がいっぱいたまっていた。ニコラスは思わず席を立つ。ラウラは涙がいっぱいの目のままで、笑顔をつくった。
「だめ、だめなの。私は上手く描けないの。ニコラスがいないとき、淋しくなったら見るために絵を描こうと思ったの。でもだめ、私の絵ではあなたにならないわ」
ニコラスはラウラのそばに寄ると、彼女の頬を両手で包み込んだ。その手に、あふれてこぼれた涙が伝い落ちる。
ニコラスはラウラの涙をすくいとるように唇を頬にあてる。
「必ず、母さんを連れて帰ってくるから」
「うん、分かっているわ。分かっているけれど、淋しくてたまらないの。自分の身体がちぎれて持っていかれてしまうようにつらいの……」
ニコラスもつらい目になる。
二人はしばらく見つめ合ったまま、しばらく動かずにいた。視線でお互いをつかまえようとするかのように。
そして、どちらからともなく服を脱ぎ捨てていく。生まれたままの姿でゆっくりと寝台に横たわった二人はぴったりと身体を合わせる。お互いの鼓動が身体を通して響き合う。
ゆっくりと唇どうしが近づいて重なる。まるで磁石のように、少し離れてもすぐに強く引き寄せ合う。何度も何度も繰り返すうちに、吐息と舌と唾液が渾然一体となって、熱く絡まりあう。
ゆっくりと官能の密度が高くなっていく。
ラウラは唇と同じぐらい潤んだ瞳で、目の前にあるニコラスの顔をじっと見ている。相手の動き、連続する呼吸まですべて見ようとしている。
うなじにニコラスの唇が滑るように移動すると、ラウラの頬は熟した果実のように紅潮していく。
あぁ……熱い。
ニコラスがラウラの耳たぶを軽く噛む。
ラウラの背中に痺れるような感覚が走る。抑えようとした声が仔猫のようにかすかな啼き声になって、ニコラスの耳に届く。それを耳にした彼は昂りを押さえられない。むしゃぶりつくようにうなじから肩まで責め立てていく。彼女はそのたびに反応して、びくっ、びくっと身を震わせる。
潤んだ彼女の目はだんだん虚ろになっていく。快楽の波がやってきているのだ。
急に彼女はニコラスの身体にしがみつくように強く抱き締める。溺れる人が必死に誰かにそうするように。ニコラスの顔がまた目の前に現れる。そしてまた長い長い長いキスが繰り返される。その間にニコラスの大きな手はラウラの柔らかい胸を思うままに扱っている。ラウラはキスに夢中になるが、息が上がって苦しくなる。
もう抑えられない。
彼女の切ない声は途切れなく部屋に響き渡る。それに応えるようにニコラスの息もだんだん荒くなってくる。
彼はラウラの両腕を上げさせて頭の上で組ませる。そして彼女の細い両手首を左手で押さえる。
「ラウラのこの姿は……描きたいぐらいきれいだ……美しい」
そうつぶやくと、彼女の脇の下から乳房にかけて現れた曲線を舌でたどるように念入りに愛撫し始めた。そうしながら右手は胸の先をころころと転がすようにそうっと、小刻みに動き続けている。
「汗をかいているのに……いや」
ラウラが泣きそうな声で訴えても、ニコラスはいっそう夢中になって舐め続ける。
ラウラは両腕を上げたままで、身をくねらせる。そして、吐息の下から彼に言う。
「あなたは……私に火を点けるのが……とても上手になったわ。私、あなたをもっとよく見たいの……あなたを見ていたいのに……おかしくなって……どこかにいってしまいそう」
「僕はおかしくなって、熱くなっていくきみを見たいよ。もっと、もっとよく見せて」
「だめよ……だめよ……ニコラス……」
ニコラスはラウラの胸にむしゃぶりつきながら、懇願するような調子で問いはじめる。
「ラウラ、僕に飽きないの? 10年も抱き合ってきて、飽きたりしない?僕は不安になるときがある。僕がいないときに、もっといい男が現れたら……ラウラがそちらに行ってしまうかもしれないって……」
ラウラは切ない不安の言葉を聞くと、胸にある彼の頭を柔らかく抱き締める。
「どんな男が私の前に現れようと、私は……あなたにしか、心も身体も開けない。あなたが触れるから、私はこんなに感じるのよ。こんなに恥ずかしい姿もさらせるの……だから、こんなにたくさん、たくさん…………濡れてしまうの。
あなただけ、あなただけなの。私が欲しいのはあなただけなの……」
その言葉がニコラスに火を点けた。ニコラスはラウラの両脚を広げて尻を高く上げた。そしてそこに口をつける。
変わらない。
柔らかい金色の毛におおわれた二つの丘が見える。唇で触れたときのその丘の柔らかさ。そっと手を添えてその丘をゆっくりと、ゆっくりと広げていく。まず、鼻を押し付けて彼女の香りを嗅ぐ。そうしたら、丘の間に広がる谷間を舌で丹念に行ったり戻ったり、何度もたどり続ける。時には鈴を転がすように、時には突き入れるように。彼女を残らず味わい尽くす。
僕だけのラウラ。ずっと僕だけのラウラ。
僕の唾液だけではない。
彼女が言う通り、そこには溢れこぼれてなお尽きない泉がある。その潤った水面が僕を心から招くように待っている。
僕は彼女の脚を高く上げたまま、そこにゆっくりと自分を突き入れる。何度も、何度も、何度も。どんどん奥に進んでいく。
ラウラはそれに応えて、いや、もっともっと奥に来てほしいと言わんばかりに、小刻みに腰を振り続ける。彼女の中が時おりきつくぎゅうっと締まって、そのたびに彼女のあえぐ声は激しさを増していく。
変わった。
彼女はどんどん、女として成熟している。
僕の快楽がどんどん強くなるように、
彼女の快楽もどんどん深くなっている。
美しい。何と美しい。
離したくない。
離れたくない。
僕は彼女から一端身体を離して、彼女をうつぶせにする。そして腰を上げさせる。
彼女の柔らかい尻をつかんで、また彼女の中に一気に飛び込んでいく。
突いていくごとに、
彼女の金色の髪がふぁさっと流れ落ち、ふわりと揺れている。
美しい。
僕の大切なたからもの。
注ぎ込んだ僕の液体が、彼女の体液と混ざり合って流れ出している。
交わり合った二人の確かな痕跡のような気がして、僕はそれをしばらく眺めていた。
月明かりに照らされて、ラウラは仰向けになっているニコラスの髪を撫でている。
「ずいぶん、夜更かししてしまったわね」
「そうだね、寝坊しないようにしないと」
ラウラはずっとニコラスの髪を撫でている。
「できれば、出発するまで、たくさん抱いてほしい……」
「そうなると……思うよ」
ラウラは少しためらいながら、ニコラスに告げる。
「今まで強がっていたのだけど……私はやっぱり、あなたの子どもがほしいの……すごく、ほしいの」
それは二人が交わり合った確かな痕跡に違いない。
ニコラスはラウラの方を向いて、彼女の手を取った。
そして、その手の甲に柔らかくキスをした。
※今回のお話には性的な表現があります。ご了承のうえお読みください。
フェラーラ公国の当主、エルコレ・デステは悩みを抱えていた。
妻のレナータのことである。フランスから嫁入りした彼女はなかなかフェラーラの風土に馴染めない。お互いに歩み合えた時期には子供も次々に生まれたが、長くは続かなかった。1女アンナ、1男アルフォンソ(次期当主)が物心つく頃には夫婦の関係は冷えきっていた。
その主な理由はレナータが新教(プロテスタント)に傾倒していることである。
エルコレ自身はカトリックの環境で生まれ育って、それに反発を感じたことがない。何より、彼の母ルクレツィアは元教皇の娘だったし、デステは代々枢機卿(すうきけい、すうききょう)を出している家なのだ。現にエルコレの弟イッポーリトはローマにいるし、2年前に生まれた2男ルイージも枢機卿にするべく話を進めているのだ。
したがって、身内に新教に傾倒する者がいるのは許されないことだった。
もともとレナータは新教びいきだったが、ジャン・カルヴァン(カルヴァン派の創始者)との手紙のやりとりを通じて、その考えはいっそう堅固になっていった。
ここで、レナータの立場を擁護するわけではないが彼女の故国であるフランスの状況を述べておこう。
フランスはもともと、歴代の王に始まり敬虔なカトリックの国であった。しかし、カトリック批判からはじまったルターの運動はみるみる間に広まっていき、聖職者にも同調者が現れる。1520年代には修道士が火あぶりにされるなど、国は弾圧する姿勢を強めた。
そこで新教の勢いが弱まったかのように思われたが、完全に消えることはなかった。1530年代にはパリ大学の総長がカトリックのミサの中止を求める事件も起こる。最高学府でもカトリックに批判的な流れが浸透していたということだ。
それは、パリ大学でイグナティウス・ロヨラやフランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーブルらが誓願をしたのと同じ時期である。彼らが修道会を結成したのは、そのような状況の中だったということを付記しておこう。
少し話を進めてしまうが、1540年代後半になるとジャン・カルヴァンが聖書に忠実な信仰を唱える運動をフランス国外から広げていく(彼は亡命していた)。そして、フランスにおける新教徒は「ユグノー」と呼ばれる一大勢力になる。そして、それがのちのフランスに大きな内乱を引き起こすこととなる。
エルコレの妻レナータは、そのカルヴァンと文通していたのである。当時はまだそれほど有名ではなかったが、カルヴァンの一派はルター派の作った礎石を大きな建物に仕上げるような役割を果たすのだ。
夫婦の間の行き違いなら穏便に済ませようと思っていたエルコレだが、この問題について見逃すことはいよいよできなくなっていた。
レナータには新しい侍女が付けられ、他とは一切連絡を取らせないことにした。いわゆる軟禁状態といえる。
「そんなわけだ。どうしてこういう風になってしまったのだろうと思うよ。私の両親はそのようなことがなかったのに、私がよほどひどく扱ったのだろうかと……」とエルコレがニコラスにつぶやく。
ニコラスが言えることは何もない。プロテスタントの問題は彼には身近ではないのだ。
「そうか……君がそう決めたことなら仕方がない」
エルコレは寂しげな目でうなずく。
この結婚は失敗だった。
単に配偶者の多情に起因するならば、愛情の消失によるならば、結婚が存続する例は多々ある(浮気が原因で処刑される例はあるが)。
しかし、政治や宗教、犯罪がからんだ場合は難しい。エルコレとレナータの場合はそこまで悪化してしまったのだ。
エルコレは壁にかけられた母の肖像画を眺めながら、ためいきをつく。
「ああ、ニコラス、私の方はそれぐらいで、フェラーラは今のところマントヴァともうまく行っているし、イタリア半島では戦争の召集もかかっていない。海戦の影響は多少あるけれど、ヴェネツィアほどではないよ。幸い子どもも皆元気だ。まだルクレツィアやルイージは小さいから、ソッラがついてくれるなら願ってもないことだ。で、いつ頃出発するつもりかい?」
「そうだな、秋になったらすぐ出たいと思う。ティッツィアーノ師匠とも話したんだけど、それまでは大きな壁画制作の目処がたたないだろう。それが終わったら……」
「ああ、庁舎の壁画か。いよいよだな」とエルコレが応じる。
「よく知っているね」
「それはもう、ティッツィアーノはマントヴァからも注文を出しているからね。現当主のフェデリーコはたいそうお気に入りで、ティッツィアーノ本人でないとイヤだと言う。そういう時は君たちも困るだろう」とエルコレがニヤリとする。
「ああ、その通りだよ」とニコラスも苦笑する。
すでにニコラスから直接、スペイン・ヴァリャドリードにいるフランシスコ・ボルハには手紙を出して、返信が届いていた。
スペイン領内ではフランシスコ・ボルハ起筆の紹介状(同封されていた)を見せれば通行に困難は生じないだろうと記されていた。また、船でガンディアから上陸するのであれば、父のホアン・ボルハを訪問してほしいこと、ヴァリャドリードにぜひ立ち寄ってほしいとも書いてあった。
「何かこう、至れり尽くせりで申し訳ない気がする」とニコラスがエルコレに告げる。
「……イタリアのボルジア家の人間はスペインに行ったことがない。きみは厳密に言うとそうではないけれど、一族に連なる人間だ。会いたいと思うのは自然なことだろう。君ならミケロットの話も、私の母ルクレツィアの話もできる。あ、渡した剣は持っていってくれよ。あれは護身用でもあるし、使うことがないにしても、きっと君を守ってくれるはずだ。あれにはボルジアの歴史が刻まれているからね」
ニコラスは静かにうなずいた。
ニコラスがヴェネツィアの自宅に戻ると、妻のラウラが食事を用意して待っていた。
「今日帰るって分かっていたの?」とニコラスは驚く。この時代には、遠方に出た家族がいつ帰るかあらかじめ知る手段がない。
「昨日も、おとといも作っていたわ」とラウラが微笑む。
ニコラスはリスボンに一人で行くことに決めている。リスボンへはどう短く見積もっても片道で2ヶ月ほどかかるだろう。従者が多くつく王侯貴族ならまだしも、それほどの異国の旅に女性を連れていくことはできない。エルコレはフェラーラから従者を出すと言われたが、それも断った。母をすぐに連れて帰れるかも分からないのだ。
一人で行こうと決めていた。
ラウラはニコラスの意思をすでに聞いている。幸いラウラは刺繍の仕事で引く手あまたになっていたので、数ヶ月夫が不在でも一人で十分暮らしていける。それでも、リアルト橋のたもとで10年前に知り合って以降、これほど長く離れるのは初めてのことだった。
本当は一緒に行きたい。
ラウラはその言葉を飲み込んで、ニコラスを笑って送ろうと思っていた。
食事を終えると、ニコラスは紙とチョークを取ってラウラに声をかけた。
「少し、描かせてもらってもいい?」
「ええ」と答えるとラウラは髪をほどいた。
金色に輝く髪が波打って流れおちてていく。ニコラスは髪をほどいた彼女を描くのが好きだった。ラウラは髪をとかして、左側に長い髪を寄せた。
ニコラスは椅子に腰かけた彼女の上半身をスケッチしていく。これまでにもう数えきれないほどしてきたことなので、お互いに勝手知ったるものである。それでも、10年の間に少しずつ歳月の変化は現れる。ラウラはほんの少しふっくらしてきたし、頬骨もわずかに上がったようだ。ニコラスはそんなことを考えながら、チョークを動かしている。
ニコラスがラウラを描いたスケッチは膨大な数にのぼる。その1枚1枚が二人の10年の記録でもあるのだ。
一通りスケッチが終わると、ラウラはニコラスに言う。
「今日は私、あなたを描きたいわ」
「え、ラウラがそんなことを言うなんて珍しいな」
ニコラスは紙とチョークをラウラに手渡すと、今度は自分が椅子に腰かけた。ラウラはニコラスがしていたように寝台に腰かけて、膝の上に板と紙を載せて、スケッチを始めた。
ニコラスほどではないが、ラウラも絵は上手である。勤め先の刺繍工房では腕を見込まれて、図案を起こす作業もしているのだ。
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「だめ、だめなの。私は上手く描けないの。ニコラスがいないとき、淋しくなったら見るために絵を描こうと思ったの。でもだめ、私の絵ではあなたにならないわ」
ニコラスはラウラのそばに寄ると、彼女の頬を両手で包み込んだ。その手に、あふれてこぼれた涙が伝い落ちる。
ニコラスはラウラの涙をすくいとるように唇を頬にあてる。
「必ず、母さんを連れて帰ってくるから」
「うん、分かっているわ。分かっているけれど、淋しくてたまらないの。自分の身体がちぎれて持っていかれてしまうようにつらいの……」
ニコラスもつらい目になる。
二人はしばらく見つめ合ったまま、しばらく動かずにいた。視線でお互いをつかまえようとするかのように。
そして、どちらからともなく服を脱ぎ捨てていく。生まれたままの姿でゆっくりと寝台に横たわった二人はぴったりと身体を合わせる。お互いの鼓動が身体を通して響き合う。
ゆっくりと唇どうしが近づいて重なる。まるで磁石のように、少し離れてもすぐに強く引き寄せ合う。何度も何度も繰り返すうちに、吐息と舌と唾液が渾然一体となって、熱く絡まりあう。
ゆっくりと官能の密度が高くなっていく。
ラウラは唇と同じぐらい潤んだ瞳で、目の前にあるニコラスの顔をじっと見ている。相手の動き、連続する呼吸まですべて見ようとしている。
うなじにニコラスの唇が滑るように移動すると、ラウラの頬は熟した果実のように紅潮していく。
あぁ……熱い。
ニコラスがラウラの耳たぶを軽く噛む。
ラウラの背中に痺れるような感覚が走る。抑えようとした声が仔猫のようにかすかな啼き声になって、ニコラスの耳に届く。それを耳にした彼は昂りを押さえられない。むしゃぶりつくようにうなじから肩まで責め立てていく。彼女はそのたびに反応して、びくっ、びくっと身を震わせる。
潤んだ彼女の目はだんだん虚ろになっていく。快楽の波がやってきているのだ。
急に彼女はニコラスの身体にしがみつくように強く抱き締める。溺れる人が必死に誰かにそうするように。ニコラスの顔がまた目の前に現れる。そしてまた長い長い長いキスが繰り返される。その間にニコラスの大きな手はラウラの柔らかい胸を思うままに扱っている。ラウラはキスに夢中になるが、息が上がって苦しくなる。
もう抑えられない。
彼女の切ない声は途切れなく部屋に響き渡る。それに応えるようにニコラスの息もだんだん荒くなってくる。
彼はラウラの両腕を上げさせて頭の上で組ませる。そして彼女の細い両手首を左手で押さえる。
「ラウラのこの姿は……描きたいぐらいきれいだ……美しい」
そうつぶやくと、彼女の脇の下から乳房にかけて現れた曲線を舌でたどるように念入りに愛撫し始めた。そうしながら右手は胸の先をころころと転がすようにそうっと、小刻みに動き続けている。
「汗をかいているのに……いや」
ラウラが泣きそうな声で訴えても、ニコラスはいっそう夢中になって舐め続ける。
ラウラは両腕を上げたままで、身をくねらせる。そして、吐息の下から彼に言う。
「あなたは……私に火を点けるのが……とても上手になったわ。私、あなたをもっとよく見たいの……あなたを見ていたいのに……おかしくなって……どこかにいってしまいそう」
「僕はおかしくなって、熱くなっていくきみを見たいよ。もっと、もっとよく見せて」
「だめよ……だめよ……ニコラス……」
ニコラスはラウラの胸にむしゃぶりつきながら、懇願するような調子で問いはじめる。
「ラウラ、僕に飽きないの? 10年も抱き合ってきて、飽きたりしない?僕は不安になるときがある。僕がいないときに、もっといい男が現れたら……ラウラがそちらに行ってしまうかもしれないって……」
ラウラは切ない不安の言葉を聞くと、胸にある彼の頭を柔らかく抱き締める。
「どんな男が私の前に現れようと、私は……あなたにしか、心も身体も開けない。あなたが触れるから、私はこんなに感じるのよ。こんなに恥ずかしい姿もさらせるの……だから、こんなにたくさん、たくさん…………濡れてしまうの。
あなただけ、あなただけなの。私が欲しいのはあなただけなの……」
その言葉がニコラスに火を点けた。ニコラスはラウラの両脚を広げて尻を高く上げた。そしてそこに口をつける。
変わらない。
柔らかい金色の毛におおわれた二つの丘が見える。唇で触れたときのその丘の柔らかさ。そっと手を添えてその丘をゆっくりと、ゆっくりと広げていく。まず、鼻を押し付けて彼女の香りを嗅ぐ。そうしたら、丘の間に広がる谷間を舌で丹念に行ったり戻ったり、何度もたどり続ける。時には鈴を転がすように、時には突き入れるように。彼女を残らず味わい尽くす。
僕だけのラウラ。ずっと僕だけのラウラ。
僕の唾液だけではない。
彼女が言う通り、そこには溢れこぼれてなお尽きない泉がある。その潤った水面が僕を心から招くように待っている。
僕は彼女の脚を高く上げたまま、そこにゆっくりと自分を突き入れる。何度も、何度も、何度も。どんどん奥に進んでいく。
ラウラはそれに応えて、いや、もっともっと奥に来てほしいと言わんばかりに、小刻みに腰を振り続ける。彼女の中が時おりきつくぎゅうっと締まって、そのたびに彼女のあえぐ声は激しさを増していく。
変わった。
彼女はどんどん、女として成熟している。
僕の快楽がどんどん強くなるように、
彼女の快楽もどんどん深くなっている。
美しい。何と美しい。
離したくない。
離れたくない。
僕は彼女から一端身体を離して、彼女をうつぶせにする。そして腰を上げさせる。
彼女の柔らかい尻をつかんで、また彼女の中に一気に飛び込んでいく。
突いていくごとに、
彼女の金色の髪がふぁさっと流れ落ち、ふわりと揺れている。
美しい。
僕の大切なたからもの。
注ぎ込んだ僕の液体が、彼女の体液と混ざり合って流れ出している。
交わり合った二人の確かな痕跡のような気がして、僕はそれをしばらく眺めていた。
月明かりに照らされて、ラウラは仰向けになっているニコラスの髪を撫でている。
「ずいぶん、夜更かししてしまったわね」
「そうだね、寝坊しないようにしないと」
ラウラはずっとニコラスの髪を撫でている。
「できれば、出発するまで、たくさん抱いてほしい……」
「そうなると……思うよ」
ラウラは少しためらいながら、ニコラスに告げる。
「今まで強がっていたのだけど……私はやっぱり、あなたの子どもがほしいの……すごく、ほしいの」
それは二人が交わり合った確かな痕跡に違いない。
ニコラスはラウラの方を向いて、彼女の手を取った。
そして、その手の甲に柔らかくキスをした。
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当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
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第8回歴史時代小説参加しました!
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した
若き日の滝川一益と滝川義太夫、
尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として
天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が
からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。
戦国の華と徒花
三田村優希(または南雲天音)
歴史・時代
武田信玄の命令によって、織田信長の妹であるお市の侍女として潜入した忍びの於小夜(おさよ)。
付き従う内にお市に心酔し、武田家を裏切る形となってしまう。
そんな彼女は人並みに恋をし、同じ武田の忍びである小十郎と夫婦になる。
二人を裏切り者と見做し、刺客が送られてくる。小十郎も柴田勝家の足軽頭となっており、刺客に怯えつつも何とか女児を出産し於奈津(おなつ)と命名する。
しかし頭領であり於小夜の叔父でもある新井庄助の命令で、於奈津は母親から引き離され忍びとしての英才教育を受けるために真田家へと送られてしまう。
悲嘆に暮れる於小夜だが、お市と共に悲運へと呑まれていく。
※拙作「異郷の残菊」と繋がりがありますが、単独で読んでも問題がございません
【他サイト掲載:NOVEL DAYS】
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