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第4章 フィガロは広場に行く2 ニコラス・コレーリャ

ルクレツィアのくれたカード 1519年

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〈ニコラス、ソッラ、アルヴァロ・ノヴェルダ、ミケランジェロ・ブォナローティ、ルクレツィア・ボルジア、アルフォンソ・デステ、イザベッラ・デステ〉

 ナポリとフィレンツェに離れて住むことになったソッラとニコラス母子である。

 1519年はふたりにとって永く記憶に残る年になる。

 レオナルド・ダ・ヴィンチの死の報を受けて間もない、翌月の6月末のことだった。ナポリのアルヴァロ・ノヴェルダ邸とフィレンツェのディエゴの鍛冶屋に急報が届けられた。

 フェラーラ公妃、ルクレツィア・ボルジア逝去の知らせである。

 それはフェラーラ公アルフォンソ・デステの直筆でソッラとニコラスあてに届けられた。

 ルクレツィアは6月14日、難産の末に女児を出産した。
 しかし、イザベッラ・マリーア・デステと名付けられることになっていたその子が産声を上げることはなかった。それに加えて、ルクレツィア自身も産褥(さんじゅく)熱に襲われ、重篤(じゅうとく)の状態に陥った。10日間高熱にさいなまれた後、ルクレツィアはアルフォンソに看取られて、力尽きるように、静かにこの世を去った。

 アルフォンソの手紙にはそれが簡潔に記されていた。そして、何かの折があったら、ぜひフェラーラに顔を出してほしい。エルコレもイッポーリトも会いたいと思っているだろうからーーとひとこと添えられていた。


 ナポリはもう盛夏の日差しが照りつけている。
 アルヴァロの邸宅は港を見下ろせる高台にある。パティオ(中庭、あるいは裏庭)には木が多く植えられ、適当な木陰を作っている。海からの風と木陰があれば、強烈な陽光もさほど苦にはならない。

 ソッラは風通しのよい邸内で、衝撃のあまり立ち尽くしていた。小刻みに震える手はアルフォンソの手紙を握りしめている。

 ルクレツィアさま……。

 もう子どもを産むことは無理なお身体だったのに。せめて、せめて、側にいたかった……。もう少し、もう少しだけ、フェラーラにいればよかった。私の決断は間違っていたのだろうか。

 ソッラはすぐフェラーラに飛んでいきたいと思う。ルクレツィアはソッラとニコラスの恩人なのだ。しかし、ほんの数ヵ月前にナポリに嫁いだばかりの身で、すぐさま向かえるはずもない。フィレンツェにいるニコラスもまだ12歳、一人でフェラーラに行けるはずがない。立ち尽くしているソッラに、夫のアルヴァロがひとつの提案をする。

「私は仕事の都合で行くことができないが、あなたはフェラーラに行ったらいい。ちょうどナポリからマルセイユに向かう船がある。フィレンツェの近隣にも寄港するから、そこで降りてニコラスを連れて行ってきたらどうだろうか。懇意にしている商人も船に乗るから、道中不便がないように話をしておくよ」

 夫の優しい言葉にソッラの心は揺れ動く。フェラーラ公妃への恩義もあるし、何よりもニコラスに会いたいはずだ。そう案じて申し出てくれたのだろう。

 ソッラは思い悩んだ末に夫の申し出を断った。
 フェラーラでは皆悲嘆に暮れているだろう。そこに自分が行ったからと言って、どれほどの慰めになるのか。それに、ニコラスに会ってしまったら何としてでもナポリに連れて帰りたくなるに決まっている。
 そう考えたのである。

 アルヴァロはそれでも、何とかしてあげたいと伝える。すると、ソッラは夫の目をまっすぐに見て、ひとつだけ頼みごとをした。
 夫は、「すぐに手配するよ」と言って人を呼んだ。


 フィレンツェでもミケランジェロが同じようにニコラスのことを心配していた。そして、ナポリから届いた荷物をニコラスに手渡す。
「おまえとおっ母さんが世話になったんだろう。ナポリからだとさすがに遠いから、おまえが行ってきたっていいのに。誰か付き添いを頼んだっていいんだ。ああ、マキアヴェッリ元書記官どのに言ってみたらどうだ。喜んで行ってくれるぞ、きっと……」

 ニコラスはちょっと困ったような顔をして母からの荷物を開ける。そこには、母からの手紙とワインにチーズが入っていた。ニコラスはワインとチーズをミケランジェロに渡す。ミケランジェロは、「こんなときまで気遣いをしなくてもいいのにな」と苦笑しながら受けとる。ニコラスは手紙を読んで、無言でうなずいている。

「なんて書いてあった?」とミケランジェロが聞く。

「今フェラーラに行ってもみんなの助けにはならないから、もう少し待ちましょう、と書かれています」とニコラスが手紙の趣旨を簡単に伝える。

「そうか……」とミケランジェロがつぶやくように言う。

「あと、これをそれまで大切に持っていなさいと」とニコラスが同封されていた封筒をミケランジェロに渡す。

「え、見ていいのか? あ、これは、トリオンフィじゃないか。しかも金で装飾された見事な……あ、もしかして、ボルゾ・デステの?」とミケランジェロは驚く。

 トリオンフィとは現代で言う「タロット・カード」である。グーテンベルグが活版印刷を発明して以降、この頃には多くの印刷物が出回るようになっているが、トリオンフィはまだ印刷物として扱われていない。従って、この頃のカードは、1枚1枚が手書きの受注生産品である。現代のトランプのように扱えばすぐに汚損してしまうだろう。この種の「贅沢品」は王侯貴族、あるいは富裕な商人しか持つことができなかった。

 この頃のトリオンフィで現代まで残っているのは、『ヴィスコンティ・スフォルツァ』のものと、『エステンシ』などほんのわずかである。ヴィスコンティ・スフォルツァはミラノの名門貴族である。後世まで複製が出ているほどのカードだ。
 一方、エステンシはデステ家の~という意味で、ミケランジェロが「ボルゾ・デステの?」と聞いたのがこれである。

 手書きに金彩を加えた大変豪華なこのカードは占いではなく、まじない札として珍重されていた。現代で言うところの「勝守」のようなものである。トリオンフィというのは、「勝利・凱旋」の意である。特に22枚(ではないこともある)の絵札はそれぞれ象徴する意味があり、すべてを揃えておくことが重要だと考えられていた。

 ミケランジェロもトリオンフィの実物を目にしたことがあまりない。しかもこのカードはデステの家宝と言ってもよい。それがどうしてソッラからニコラスに届いたのか、芸術家の鋭い眼力だけでは想像することができなかった。そこでニコラスが説明する。

 ソッラとニコラスがエステンセ城にいた頃、このカードが1枚なくなったことがあった。絵に興味のあるニコラスのしわざではないかと母親のソッラは一瞬疑ってしまう。しかし、それは公爵家嫡子エルコレのしたことだった。ニコラスが自分のもとを去っていくのを止めさせたかったのだ。それを察した公妃ルクレツィアが騒ぎにせずに事態を収めたのである。

「それで、貴重なカードを餞別にくれたというわけか。世の中にはそういう美しい話もあるんだな」とミケランジェロは頬杖をついて感心する。

「そうですね。でも、これはいつかデステ家にお返ししたいと思います」とニコラスは落ち着いた調子で言う。それを聞いて、ミケランジェロはうなずく。
「いつか返すのならば、これを石板に彫ってレリーフに仕上げてやったらいい。面白い構図だしな」

 そのカードは『世界』と呼ばれるカードだった。
(カードの詳細については第1章「ルクレツィアのカード」参照)


 世界はこのとき、また一段と多くの線が引かれるようになっていた。そのことについて、少し触れておこう。

 ヴァスコ・ダ・ガマの船団がアフリカ大陸を回ってインド洋に抜ける航路を開拓したのは前世紀末のことだった。それから20年も経たないうちに、船団を派遣したポルトガルはインド沿岸やアフリカの拠点都市を占領するに至った。
 『植民地』である。
 航海者はそれでは満足しない。インドからさらに奥(東南アジア、オセアニア)に進み、香辛料産地の根っこを押さえた。ここで直接仕入れた胡椒などの香辛料を中継点のインドから巨大船で大量に運搬し、ヨーロッパ各地に売りさばいていく。

 このようなポルトガルの一人勝ちの状態を阻止しようと狙っているのは、強大な隣国スペインだった。
 1519年、ポルトガル船団で航海の知識と技術を得た者がスペインに雇われて新しい航海に出ようとしている。
 フェルナン・マゼランである。
 このポルトガル人が率いる船団はスペイン・セビーリャの港を出て大西洋を南下し、南アメリカの最南端を越えて太平洋に進んだ。そして、グアム、フィリピンに到達し、従来のインド航路を辿ってスペインに帰港したーーと書いてしまうと簡単に過ぎる。

 航路の距離は地球一周とされる距離約4万㎞より長かったと想定されるが、正確な道筋が分からないので正確には言えない。航海にかかった期間は3年である。まるまる3年を荒れる海か凪の海、寒さと日照り、あるいは見も知らぬ土地で過ごすのだ。
 このような数字だけではない。食糧や水不足、それによって壊血病を発症する人々、他の疾患で倒れる人々、度重なる内乱、粛清、船長の交替、現地の人々との衝突……5隻の船団が見舞われた困難は想像を絶するものだった。世界一周はたいへんな偉業であるが、その内実は、人間の限界がどのようなものか知る場所だったともいえる。
 マゼランは途上のフィリピンで殺されたし、スペインに帰ることができたのは18人しかいなかった。

 それが、「地球は丸い(球体)」ことを初めて実証した人たちについての話である。

 地理上の発見はどんどん進んでいて、次の「科学の世紀」への道を拓こうとしていた。そして、さきに書いたように、ヨーロッパ各国で為政者の世代交代が進んでいた。文化もそうである。
 そして、ヨーロッパの宗教も大きな転機を迎えている。神聖ローマ帝国の神学教授は一部選帝侯を筆頭に今や多くの支持者を得ている。そして、それが他の国にも広がりはじめていた。その神学教授、マルティン・ルターは国内で討論会を開き、著作を次々と印刷している。

 その矛先は教皇レオ10世に向けられる。

 芸術家にもそれが大きな影となって現れ、じきに襲いかかってくることになるのである。


 ルクレツィア・ボルジアの葬儀に参列したマントヴァのイザベッラ・デステは空を仰いでいた。彼女はフェラーラ公爵アルフォンソ・デステの実姉である。

「私の夫に続いて、ルクレツィアも亡くなるなんて、本当に憎らしいこと」

 イザベッラの夫であるフランチェスコ・ゴンザーガ侯爵は先頃他界した。夫とルクレツィアはいっとき親密な関係にあって、それを解消した後も信頼によって結ばれた友人関係を保ち続けていた。

 結婚という軛(くびき)はときに男女の関係を根こそぎ凍らせてしまうらしい。

 イザベッラはそんな風に考えてはいるが、この期に及んで夫もルクレツィアも責める気はなかった。ルクレツィアは確かに多情ではあったけれど、後年は敬虔で貞淑な妻として生き、天に召された。それはまるで聖女の一生のようである。イザベッラはひとつ、ため息をつく。

「レオナルド・ダ・ヴィンチも逝ってしまった。本当に、これでひとつの時代が終わった気がするわ。でも、私はまだまだしなければならないことがある」

 イザベッラはそうつぶやくと、遺族に慰めの言葉をかけるため、参列者の中にゆっくりと戻っていった。
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