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第3章 フィガロは広場に行く1 ニコラス・コレーリャ
カンブレー同盟と司令官 1509年 ヴェネツィア対同盟国
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<アルフォンソ・デステ、教皇ユリウス2世、フランス王ルイ12世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、スペイン王フェルナンド、バルトロメオ・ダルヴィアーノ、ニッコロ・デ・ピティリアーノ>
ルクレツィア・ボルジアやソッラとともにフェラーラのパーリオ(競馬)を堪能(たんのう)していたアルフォンソ・デステだったが、彼はこの時、大変な重責を担い、戦争の最前線に向かわなければならなかった。実際、パーリオが終了するとすぐにアルフォンソはフェラーラ軍を召集し、直ちにミラノ方面に進軍する命令を出した。
パーリオは出陣前に士気を鼓舞するための催しでもあった。
この前年に「カンブレー同盟」が結成され、フェラーラがそれに加わった話は前にも書いた。
イタリアはまだ不安定なままだ。
チェーザレ・ボルジアの手を離れたロマーニャ地方をはじめとする地域はヴェネツィアと教皇の間で取り合いのような状態に置かれている。
1508年、フランス、神聖ローマ帝国、スペイン、そしてフェラーラ公国によって「カンブレー同盟」が結成された。ヴェネツィアの動きを牽制(けんせい)するためである。教皇庁が最後に加わった。
その両者がこの時いよいよ本格的に交戦状態に入ろうとしていたのだ。4月19日、アルフォンソは教皇軍の最高司令官に任命された。子のエルコレがようやく1歳になった直後である。
この戦いではその上に総帥として、マクシミリアン1世が立っている。
かつてのチェーザレ・ボルジアが担っていたのと同等の大役である。この役割が回ってくることはアルフォンソも承知していただろう。何しろヴェネツィアに最も近いのだから。彼は1508年の間、他国の動きを見つつ、フェラーラがいかに上手にこの局面を乗り越えるかを考えていた。
それに、うがった見方をするならば、その役割にふさわしい人間、イタリア半島にそれだけの軍事的才覚を持つ人間がいなくなっていたということかもしれない。
そして、「カンブレー同盟」国を見渡しても、それだけの軍事的才覚を持つ司令官は少なかった。
前世紀の終盤から断続的に16世紀の半ばまで続く長い長い「イタリア戦争」である。今回の「カンブレー同盟戦争」もその一場面に過ぎない。
前世紀のイタリア戦争初期の様子は、チェーザレ・ボルジアの章でも紹介した。ローマまで攻め入ったにも関わらず、丸め込まれて反撃されたフランス。敗走したシャルル8世についても書いた。
しかし、都合8年もかかる「カンブレー同盟戦争」だけについて言うならば、結局どことどこが戦ったのかということがたいへん見えづらい。それぞれの国や教皇に折々の思惑が働いたからだ。
終始一貫しているのは、それがイタリア半島に対する「国盗り合戦」(くにとりがっせん)だということだけだ。主体や事情は当然異なるが、16世紀の日本を思わせる状況である。
教皇庁を朝廷に置き換えれば、日本人にも理解がしやすいのではないか。
今回はその戦争の背景について少し触れてみたい。
まずは、同盟の呼びかけ元である教皇庁、その長である教皇ユリウス2世についてである。
彼はイタリア半島中部が自身に恭順(きょうじゅん)しない状況を真っ先に打破したいと考えていた。そのために、教皇就任後しばらくして、勇ましく軍の先頭に立って行軍に出たほどである。それに続くのが枢機卿団に各国の外交官である。行軍というよりは行幸だったかもしれない。彼は皇帝のような行動を好んでいた。前の教皇にはなかった特徴だ。
彼は枢機卿(すうききょう、すうきけい)の頃にボルジア失脚を目論んで、逆に追放されている。現在の振る舞いは蟄居(ちっきょ)の身で長く辺境に置かれた反動かもしれない。「神の御名のもと正義のために戦う」という大義名分があるにせよ、きちんとした戦略は立てなければならない。
教皇には自身のしっかりした軍事プランがなかった。戦争となれば同盟国フランス、神聖ローマ帝国、スペインに呼びかけて軍勢をかき集める。しかし、同盟国は時に敵に回る。自身に忠実な将と強大な軍勢を持たなければ混乱を招くばかりだ。何よりそれは、イタリア半島を守るという意思を持つ者によってでなければならない。
教皇の軍事行使は今日さほど重要ではないが、16世紀の四方八方から狙われているローマを守るためには必須のものである。
この頃、ボローニャとペルージアはヴェネツィアが実質的に支配している。
覚えているだろうか、このふたつの地はチェーザレに反旗を翻した「シニッガリアの反乱」の首謀者が治めていた土地である。加えてその追討の際、ボローニャはチェーザレ・ボルジアがフランスの制止を受けて手を引いた。いわば因縁の地でもある。ヴェネツィアはそこを足がかりに、イタリア中部に勢力圏を広げ始めていたのだ。
ユリウス2世はヴェネツィアの脅威に対して再三、都市を「返還」するように抗議を続けていた。そしてローマ駐在のヴェネツィア大使はそれをのらりくらりとかわし続けた。
ヴェネツィアが今や海から陸へ力を注力していることは明らかだったので、教皇の懸念は自然だった。しかし、ヴェネツィア側としては半島の要衝(ようしょう)である共和国に教皇が宣戦布告してくるとは夢にも思っていなかった。
そのヴェネツィア共和国についてである。
イタリア半島で唯一、名実ともに独立国としての立場を保っているのはここだけである。フィレンツェは為政者の不安定さと、ローマに至る道に位置しているため、常にローマや周辺の情勢に左右されているありさまだった。マキアヴェッリが嘆いた通りである。
その、唯一の磐石な共和国がカンブレー同盟という、大国による連合軍の標的になったのである。そして、教皇の依頼というだけで、フランス、神聖ローマ帝国、スペインの3国が同盟に乗ったわけではないことを明記しておく必要がある。このときのヴェネツィアの勢力の伸長は大国が見過ごせないほどに広がっていたのである。
この国がキプロス、クレタ島を含む東地中海の領土とアドリア海の制海権を握っていることはチェーザレ・ボルジアやフランシスコ・ザビエルの項でも触れた。ここでは陸地についてもう少し書く。
北イタリアについては従来の半島の東の根っこの部分から、ベルガモ、クレモナを領して、西側のジェノヴァ近辺にまで海軍を駐留させている。
中部イタリアでは、さきに書いたボローニャ、ペルージャに加え、ラヴェンナを足がかりにしてアドリア海沿岸のファエンツァ、リミニの各都市を手中に収めている。ソッラがミケーレと立ち寄った海岸である。ここもかつてはチェーザレ・ボルジアが制圧した土地だった。
南イタリアにもヴェネツィアは拠点を置いている。イタリア半島の長靴型のかかとの先にあたるオトラントを含む地方一帯である。
ここまでのところで、フランスとスペインにとっては自国の領地が脅かされる事態となっていた。北イタリアのミラノはフランスが収めている。ここにソッラやミケーレやレオナルド・ダヴィンチが滞在していることはさきに書いた。シャルル・ダンボワーズ伯が総督を務めている。
そして、南イタリア、ナポリについてはスペインが領有している。こちらはゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドーバが総督を務めていたが、彼はすでにフェルナンド王に罷免(ひめん)される形で本国に帰っている。コルドーバはレコンキスタ(スペインの国土回復運動)をはじめ歴戦をくぐり抜けた猛者だったので、彼がいないナポリは守りが甘くなったと考えられていた。
ヴェネツィアの立場で見るならば、付け入る隙があるということである。
ローマの教皇疔とフランスとスペインがヴェネツィアを警戒するのはそのような事情による。では、神聖ローマ帝国(現在のドイツ)はどうだろう。この国は1509年当時、マクシミリアン1世の治世下にある。
マクシミリアン1世については次の回でも述べることになるが、ここではヴェネツィアとの関係についてだけ触れておく。
1508年の春、神聖ローマ皇帝の戴冠式を行うということで、マクシミリアン1世は彼の軍隊とともにローマに向かおうとしていた。この肩書はローマから与えられるものだからだ。
その彼らの前にヴェネツィア共和国が立ちはだかった。両軍は衝突した。そしてマクシミリアンの軍勢はあえなく敗れる。それだけではない。アドリア海沿岸のゴリツィア、トリエステ、フィウメ、もとは神聖ローマ帝国領の街を奪われたのである。この3つの街は年貢金と引き換えにヴェネツィアに譲渡される。
この地域は以降、現代まで複雑な変遷を辿ることになる。神聖ローマ帝国、イタリア、フランス、オーストリア、ハンガリー、クロアチア……それだけで1章を使えるほどだ。
名誉と皇位、プライドに領地も根こそぎ奪われた。
このことに対するマクシミリアンの怒りは激しかった。すでに反ヴェネツィアの立場を鮮明にしているフランス、スペインとの歩調が揃ったのだ。
すでに1507年、フランスのルイ12世とスペインのフェルナンド王はジェノヴァ近くのサヴォーナで会談している。そしてヴェネツィアに煮え湯を飲まされた格好のマクシミリアン1世が加わる。1508年12月、カンブレーの地で正式な同盟が成立したのである。これにはハンガリー王、サヴォイア公、マントヴァ侯、フェラーラ公、そしてすべてのお膳立てが整った後で教皇が加わっている。
教皇はギリギリまでヴェネツィアを懐柔(かいじゅう)できないかと考えていた。ヴェネツィア出身の枢機卿をリミニとファエンツァの統治者にするという譲歩案も示したが、ヴェネツィア側の拒否によって決裂した。
1509年3月23日、教皇からヴェネツィアを破門する旨の文書が発布される。実質的な宣戦布告である。ヴェネツィアは慌ててリミニとファエンツァの返還を申し入れるが、時すでに遅かった。
とはいえ、この時ヴェネツィア側の軍備は万全だった。大砲をはじめとする武器も十分に所持していた。総勢は5万にのぼるといわれる。オルシーニ家出身の傭兵隊長、バルトロメオ・ダルヴィアーノ、ニッコロ・デ・ピティリアーノが司令官となった。
海では自前の軍隊を備えるヴェネツィアだが、陸では大半が傭兵で構成されていた。
ルイ12世が率いるフランス軍は4月15日にミラノに向けて出発した。アルフォンソ・デステら半島の領主たちもフランス軍に合流する。フランス軍はルイ12世が自ら赴いており、ミラノ総督であるダンボワーズ伯が控える。だが、実質的に指揮を取るのはイタリア人の老将軍トリヴルツィオだった。
ヴェネツィアはミラノとの国境、アッダ川まで進んだ。ここでヴァネツィアは戦術確認に入る。ふたりの司令官の意見が割れる。ただちに川を越えて総攻撃するべきだと主張するダルヴィアーノに対して、老境にあって慎重派のピティリアーノが後退を訴えたのである。
おそらく、老将は講和の途が開かれることをかすかに期待していたのだろう。とはいえ、最前線まで出てきておいて、今さら……とダルヴィアーノは憤る。とても受け入れられる内容ではない。敵の襲来を目前にして後退することは恥も同然だからだ。
二人の主張はその場で決定できないため、本国の元老院に諮られた。早馬が急使を乗せて去っていく。フランスがその間に攻めてしまえば一巻の終わりである。この時間にそのような事態は起こらなかったが、指揮系統の分裂はじきに結果として表れる。
ヴェネツィア元老院はピティリアーノを支持した。「後退」である。そして、アッダ川からオーリオ川まで後退し、隊形を変えて野営する。しかし、フランスがもう川向こうまで近づいてきていた。
そして5月14日、川べりのアニャデッロの野で決戦の火蓋が切って落とされた。
ヴェネツィア軍は敵を迎え撃つ万全の態勢が取れていないし、大砲と砲手もまだ仕度が済んでいない。それでも、ダルヴィアーノが指揮する軽騎兵隊はよく統率が取れており、善戦する。
しかし、敵方の将トリヴルツィオは次に槍を手にした歩兵軍を繰り出す。
この時代の戦争における接近戦で最も組織的戦闘に長けているのがこの槍歩兵である。装備は軽く段構えで攻撃を止めずにいられる。態勢が不十分な敵を一気に仕留めるにはなお効果的である。
戦闘が繰り広げられるアニャデッロから少し後方に待機していたピティリアーノ率いる一団は、前線に駆けつけ応戦することもなくさっさと退却してしまった。かすり傷ひとつも負うことなく。
前線は悲惨だった。ヴェネツィア軍の多くの将兵が討たれ、野原の緑に倒れた。司令官のダルヴィアーノは捕虜になった。当初の戦力は十分に応戦できるものだったが、指揮系統が分裂したこと、態勢が不備だったことが決定的な理由だった。
この最初の会戦でヴェネツィアは敗れたのだ。
ルクレツィア・ボルジアやソッラとともにフェラーラのパーリオ(競馬)を堪能(たんのう)していたアルフォンソ・デステだったが、彼はこの時、大変な重責を担い、戦争の最前線に向かわなければならなかった。実際、パーリオが終了するとすぐにアルフォンソはフェラーラ軍を召集し、直ちにミラノ方面に進軍する命令を出した。
パーリオは出陣前に士気を鼓舞するための催しでもあった。
この前年に「カンブレー同盟」が結成され、フェラーラがそれに加わった話は前にも書いた。
イタリアはまだ不安定なままだ。
チェーザレ・ボルジアの手を離れたロマーニャ地方をはじめとする地域はヴェネツィアと教皇の間で取り合いのような状態に置かれている。
1508年、フランス、神聖ローマ帝国、スペイン、そしてフェラーラ公国によって「カンブレー同盟」が結成された。ヴェネツィアの動きを牽制(けんせい)するためである。教皇庁が最後に加わった。
その両者がこの時いよいよ本格的に交戦状態に入ろうとしていたのだ。4月19日、アルフォンソは教皇軍の最高司令官に任命された。子のエルコレがようやく1歳になった直後である。
この戦いではその上に総帥として、マクシミリアン1世が立っている。
かつてのチェーザレ・ボルジアが担っていたのと同等の大役である。この役割が回ってくることはアルフォンソも承知していただろう。何しろヴェネツィアに最も近いのだから。彼は1508年の間、他国の動きを見つつ、フェラーラがいかに上手にこの局面を乗り越えるかを考えていた。
それに、うがった見方をするならば、その役割にふさわしい人間、イタリア半島にそれだけの軍事的才覚を持つ人間がいなくなっていたということかもしれない。
そして、「カンブレー同盟」国を見渡しても、それだけの軍事的才覚を持つ司令官は少なかった。
前世紀の終盤から断続的に16世紀の半ばまで続く長い長い「イタリア戦争」である。今回の「カンブレー同盟戦争」もその一場面に過ぎない。
前世紀のイタリア戦争初期の様子は、チェーザレ・ボルジアの章でも紹介した。ローマまで攻め入ったにも関わらず、丸め込まれて反撃されたフランス。敗走したシャルル8世についても書いた。
しかし、都合8年もかかる「カンブレー同盟戦争」だけについて言うならば、結局どことどこが戦ったのかということがたいへん見えづらい。それぞれの国や教皇に折々の思惑が働いたからだ。
終始一貫しているのは、それがイタリア半島に対する「国盗り合戦」(くにとりがっせん)だということだけだ。主体や事情は当然異なるが、16世紀の日本を思わせる状況である。
教皇庁を朝廷に置き換えれば、日本人にも理解がしやすいのではないか。
今回はその戦争の背景について少し触れてみたい。
まずは、同盟の呼びかけ元である教皇庁、その長である教皇ユリウス2世についてである。
彼はイタリア半島中部が自身に恭順(きょうじゅん)しない状況を真っ先に打破したいと考えていた。そのために、教皇就任後しばらくして、勇ましく軍の先頭に立って行軍に出たほどである。それに続くのが枢機卿団に各国の外交官である。行軍というよりは行幸だったかもしれない。彼は皇帝のような行動を好んでいた。前の教皇にはなかった特徴だ。
彼は枢機卿(すうききょう、すうきけい)の頃にボルジア失脚を目論んで、逆に追放されている。現在の振る舞いは蟄居(ちっきょ)の身で長く辺境に置かれた反動かもしれない。「神の御名のもと正義のために戦う」という大義名分があるにせよ、きちんとした戦略は立てなければならない。
教皇には自身のしっかりした軍事プランがなかった。戦争となれば同盟国フランス、神聖ローマ帝国、スペインに呼びかけて軍勢をかき集める。しかし、同盟国は時に敵に回る。自身に忠実な将と強大な軍勢を持たなければ混乱を招くばかりだ。何よりそれは、イタリア半島を守るという意思を持つ者によってでなければならない。
教皇の軍事行使は今日さほど重要ではないが、16世紀の四方八方から狙われているローマを守るためには必須のものである。
この頃、ボローニャとペルージアはヴェネツィアが実質的に支配している。
覚えているだろうか、このふたつの地はチェーザレに反旗を翻した「シニッガリアの反乱」の首謀者が治めていた土地である。加えてその追討の際、ボローニャはチェーザレ・ボルジアがフランスの制止を受けて手を引いた。いわば因縁の地でもある。ヴェネツィアはそこを足がかりに、イタリア中部に勢力圏を広げ始めていたのだ。
ユリウス2世はヴェネツィアの脅威に対して再三、都市を「返還」するように抗議を続けていた。そしてローマ駐在のヴェネツィア大使はそれをのらりくらりとかわし続けた。
ヴェネツィアが今や海から陸へ力を注力していることは明らかだったので、教皇の懸念は自然だった。しかし、ヴェネツィア側としては半島の要衝(ようしょう)である共和国に教皇が宣戦布告してくるとは夢にも思っていなかった。
そのヴェネツィア共和国についてである。
イタリア半島で唯一、名実ともに独立国としての立場を保っているのはここだけである。フィレンツェは為政者の不安定さと、ローマに至る道に位置しているため、常にローマや周辺の情勢に左右されているありさまだった。マキアヴェッリが嘆いた通りである。
その、唯一の磐石な共和国がカンブレー同盟という、大国による連合軍の標的になったのである。そして、教皇の依頼というだけで、フランス、神聖ローマ帝国、スペインの3国が同盟に乗ったわけではないことを明記しておく必要がある。このときのヴェネツィアの勢力の伸長は大国が見過ごせないほどに広がっていたのである。
この国がキプロス、クレタ島を含む東地中海の領土とアドリア海の制海権を握っていることはチェーザレ・ボルジアやフランシスコ・ザビエルの項でも触れた。ここでは陸地についてもう少し書く。
北イタリアについては従来の半島の東の根っこの部分から、ベルガモ、クレモナを領して、西側のジェノヴァ近辺にまで海軍を駐留させている。
中部イタリアでは、さきに書いたボローニャ、ペルージャに加え、ラヴェンナを足がかりにしてアドリア海沿岸のファエンツァ、リミニの各都市を手中に収めている。ソッラがミケーレと立ち寄った海岸である。ここもかつてはチェーザレ・ボルジアが制圧した土地だった。
南イタリアにもヴェネツィアは拠点を置いている。イタリア半島の長靴型のかかとの先にあたるオトラントを含む地方一帯である。
ここまでのところで、フランスとスペインにとっては自国の領地が脅かされる事態となっていた。北イタリアのミラノはフランスが収めている。ここにソッラやミケーレやレオナルド・ダヴィンチが滞在していることはさきに書いた。シャルル・ダンボワーズ伯が総督を務めている。
そして、南イタリア、ナポリについてはスペインが領有している。こちらはゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドーバが総督を務めていたが、彼はすでにフェルナンド王に罷免(ひめん)される形で本国に帰っている。コルドーバはレコンキスタ(スペインの国土回復運動)をはじめ歴戦をくぐり抜けた猛者だったので、彼がいないナポリは守りが甘くなったと考えられていた。
ヴェネツィアの立場で見るならば、付け入る隙があるということである。
ローマの教皇疔とフランスとスペインがヴェネツィアを警戒するのはそのような事情による。では、神聖ローマ帝国(現在のドイツ)はどうだろう。この国は1509年当時、マクシミリアン1世の治世下にある。
マクシミリアン1世については次の回でも述べることになるが、ここではヴェネツィアとの関係についてだけ触れておく。
1508年の春、神聖ローマ皇帝の戴冠式を行うということで、マクシミリアン1世は彼の軍隊とともにローマに向かおうとしていた。この肩書はローマから与えられるものだからだ。
その彼らの前にヴェネツィア共和国が立ちはだかった。両軍は衝突した。そしてマクシミリアンの軍勢はあえなく敗れる。それだけではない。アドリア海沿岸のゴリツィア、トリエステ、フィウメ、もとは神聖ローマ帝国領の街を奪われたのである。この3つの街は年貢金と引き換えにヴェネツィアに譲渡される。
この地域は以降、現代まで複雑な変遷を辿ることになる。神聖ローマ帝国、イタリア、フランス、オーストリア、ハンガリー、クロアチア……それだけで1章を使えるほどだ。
名誉と皇位、プライドに領地も根こそぎ奪われた。
このことに対するマクシミリアンの怒りは激しかった。すでに反ヴェネツィアの立場を鮮明にしているフランス、スペインとの歩調が揃ったのだ。
すでに1507年、フランスのルイ12世とスペインのフェルナンド王はジェノヴァ近くのサヴォーナで会談している。そしてヴェネツィアに煮え湯を飲まされた格好のマクシミリアン1世が加わる。1508年12月、カンブレーの地で正式な同盟が成立したのである。これにはハンガリー王、サヴォイア公、マントヴァ侯、フェラーラ公、そしてすべてのお膳立てが整った後で教皇が加わっている。
教皇はギリギリまでヴェネツィアを懐柔(かいじゅう)できないかと考えていた。ヴェネツィア出身の枢機卿をリミニとファエンツァの統治者にするという譲歩案も示したが、ヴェネツィア側の拒否によって決裂した。
1509年3月23日、教皇からヴェネツィアを破門する旨の文書が発布される。実質的な宣戦布告である。ヴェネツィアは慌ててリミニとファエンツァの返還を申し入れるが、時すでに遅かった。
とはいえ、この時ヴェネツィア側の軍備は万全だった。大砲をはじめとする武器も十分に所持していた。総勢は5万にのぼるといわれる。オルシーニ家出身の傭兵隊長、バルトロメオ・ダルヴィアーノ、ニッコロ・デ・ピティリアーノが司令官となった。
海では自前の軍隊を備えるヴェネツィアだが、陸では大半が傭兵で構成されていた。
ルイ12世が率いるフランス軍は4月15日にミラノに向けて出発した。アルフォンソ・デステら半島の領主たちもフランス軍に合流する。フランス軍はルイ12世が自ら赴いており、ミラノ総督であるダンボワーズ伯が控える。だが、実質的に指揮を取るのはイタリア人の老将軍トリヴルツィオだった。
ヴェネツィアはミラノとの国境、アッダ川まで進んだ。ここでヴァネツィアは戦術確認に入る。ふたりの司令官の意見が割れる。ただちに川を越えて総攻撃するべきだと主張するダルヴィアーノに対して、老境にあって慎重派のピティリアーノが後退を訴えたのである。
おそらく、老将は講和の途が開かれることをかすかに期待していたのだろう。とはいえ、最前線まで出てきておいて、今さら……とダルヴィアーノは憤る。とても受け入れられる内容ではない。敵の襲来を目前にして後退することは恥も同然だからだ。
二人の主張はその場で決定できないため、本国の元老院に諮られた。早馬が急使を乗せて去っていく。フランスがその間に攻めてしまえば一巻の終わりである。この時間にそのような事態は起こらなかったが、指揮系統の分裂はじきに結果として表れる。
ヴェネツィア元老院はピティリアーノを支持した。「後退」である。そして、アッダ川からオーリオ川まで後退し、隊形を変えて野営する。しかし、フランスがもう川向こうまで近づいてきていた。
そして5月14日、川べりのアニャデッロの野で決戦の火蓋が切って落とされた。
ヴェネツィア軍は敵を迎え撃つ万全の態勢が取れていないし、大砲と砲手もまだ仕度が済んでいない。それでも、ダルヴィアーノが指揮する軽騎兵隊はよく統率が取れており、善戦する。
しかし、敵方の将トリヴルツィオは次に槍を手にした歩兵軍を繰り出す。
この時代の戦争における接近戦で最も組織的戦闘に長けているのがこの槍歩兵である。装備は軽く段構えで攻撃を止めずにいられる。態勢が不十分な敵を一気に仕留めるにはなお効果的である。
戦闘が繰り広げられるアニャデッロから少し後方に待機していたピティリアーノ率いる一団は、前線に駆けつけ応戦することもなくさっさと退却してしまった。かすり傷ひとつも負うことなく。
前線は悲惨だった。ヴェネツィア軍の多くの将兵が討たれ、野原の緑に倒れた。司令官のダルヴィアーノは捕虜になった。当初の戦力は十分に応戦できるものだったが、指揮系統が分裂したこと、態勢が不備だったことが決定的な理由だった。
この最初の会戦でヴェネツィアは敗れたのだ。
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