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第5章 起死回生のバスソルト
Epilogue
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日常が戻ってきた――とは言い難い。
花穂は意識が戻ってからいくつかの検査を受け、退院した。
両親は今まで通りに接しているつもりだろうが、どこかぎくしゃくとしていた。特に父親は過保護になって休日にちょっと出かけるだけでも、送り迎えをしたがった。
休職していた会社は退職することになった。上司は頑張っていたのにと惜しんでくれたし、同僚は寂しいと言ってくれた。
後悔はない。やりたいことが見つかったから。
智と待ち合わせたのは、寒い朝だった。
彼はずいぶん早くからきていたようで、花穂の姿を見ると立ち上がって軽く手を振った。
以前と変わらない、すり切れたジーンズとネルシャツの野暮ったい格好。今日はその上にサイズの合わない古着のコートを着ていた。
「花穂……痩せたな。本当にもう、大丈夫なのか」
「うん、すっかり元気だよ。体重だってすぐ戻っちゃうよ。お菓子もりもり食べてるし」
力こぶを作る振りをすると、智は少し情けない顔で笑った。
「来週からアルバイトするんだー。前にちょっとお世話になっていたところだけどね。そこで勉強したいことがあるの」
「そっか。無理すんなよ」
「うん。ずっと心配して病院に通ってくれて……ありがとう。ごめんね、お父さんが酷いこと言ったみたい」
「いや……俺が勝手にしたことだし」
「それもそっか」
花穂の軽い言葉に、智ははっとしたように顔を上げる。
「智が自分の納得のためにしていたんだよね。わたしのためじゃない。だけど、ありがとうね」
「うん、だから俺が勝手にしたことだし」
同じ台詞を繰り返して、智は笑った。堅さが少し解れて、親しみを込めた目で花穂を見つめてくる。不覚にも少しドキリとしてしまった。こういう表情、大好きだったなと思い出す。
「あのね。わたしも同じなんだ。智のためにしてあげたことなんて、ひとつもない。全部、わたしがそうしたいからしていたの。自分のためだったんだよ。だから、重荷に感じることなんてなかった。だけどね、重荷に感じてしまう真面目な智だから好きになったんだ、たぶん」
正直さや誠実さは、恐らくこれからも彼を苦しめ続けるのだろう。だけど彼の人柄はとても好ましく、誰かを慰め救うこともきっとたくさん、あるのだろう。
それは自分自身にも言えること。花穂の親切や優しさはときに疎ましく重荷になることもあるけれど、誰かの背中を押す日もある。
そういう巡り合わせは、上手くいったりいかなかったりするものだ。誰が悪いわけでもない。
智は目を瞬き、眩そうに花穂を見る。安堵と寂しさが入り交じったような複雑な表情をしていた。
「なんか、ちょっと変わったな、花穂」
「そう、かな。そうかもね。だって、生死の境を彷徨ったんだし」
胸を張って言うと、智は少し照れたように目を逸らしたあと、ふと笑った。
「花穂、俺……」
「さよなら、智。もう連絡しないけど、公演は気が向いたら行くね」
智が言いかけた言葉を遮り、きっぱりと告げて右手を差し出す。未練がないわけではない。だけど、これでいい。
ようやく、失恋が完了したのだ。
寒い朝、花穂は早起きして久しぶりにバスに揺られていた。住宅街を抜けてしばらく走ると、風景は一変する。
一面の緑。冬枯れの季節を前にしても、ハーブガーデンは緑の息吹に溢れていた。バス停に着き、歩き出す。
湿った草いきれは爽やかな香りを放つ。少し前に雨でも降ったのか、ハーブたちはそのはに水滴を留まらせ、光を浴びてキラキラと輝いていた。
少し向こうでラベンダーの花補が揺れる。カモミールは白い花びらを反り返らせて咲いていた。
もう少し先にはミントの畑があるはずだ。繁殖力旺盛なミントは、今もきっと元気に葉を茂らせていることだろう。
しばらく歩くと、萌葱色の屋根が見えてきた。二階建ての可愛らしい建物を目にして、花穂は思わず駆け出した。
玄関ポーチにはドライフラワーが無造作に籠に入れられていて、懐かしい香りを放っている。
ノッカーに触れる前に、扉は開いた。中に立っていたのは背の高い痩せた男の人だった。髪は寝癖なのかぼさぼさで、分厚い眼鏡をかけている。アロハシャツにワークパンツ、緑色のエプロン姿。
彼は照れているのかぎこちなく笑った。
「おかえり……なさい、花穂さん」
「ただいまです、マオさん」
ハーブガーデン・コイウラの店主は少し照れたようにずれた眼鏡を直す。そして、お揃いの緑のエプロンを花穂に手渡してくれた。
花穂は意識が戻ってからいくつかの検査を受け、退院した。
両親は今まで通りに接しているつもりだろうが、どこかぎくしゃくとしていた。特に父親は過保護になって休日にちょっと出かけるだけでも、送り迎えをしたがった。
休職していた会社は退職することになった。上司は頑張っていたのにと惜しんでくれたし、同僚は寂しいと言ってくれた。
後悔はない。やりたいことが見つかったから。
智と待ち合わせたのは、寒い朝だった。
彼はずいぶん早くからきていたようで、花穂の姿を見ると立ち上がって軽く手を振った。
以前と変わらない、すり切れたジーンズとネルシャツの野暮ったい格好。今日はその上にサイズの合わない古着のコートを着ていた。
「花穂……痩せたな。本当にもう、大丈夫なのか」
「うん、すっかり元気だよ。体重だってすぐ戻っちゃうよ。お菓子もりもり食べてるし」
力こぶを作る振りをすると、智は少し情けない顔で笑った。
「来週からアルバイトするんだー。前にちょっとお世話になっていたところだけどね。そこで勉強したいことがあるの」
「そっか。無理すんなよ」
「うん。ずっと心配して病院に通ってくれて……ありがとう。ごめんね、お父さんが酷いこと言ったみたい」
「いや……俺が勝手にしたことだし」
「それもそっか」
花穂の軽い言葉に、智ははっとしたように顔を上げる。
「智が自分の納得のためにしていたんだよね。わたしのためじゃない。だけど、ありがとうね」
「うん、だから俺が勝手にしたことだし」
同じ台詞を繰り返して、智は笑った。堅さが少し解れて、親しみを込めた目で花穂を見つめてくる。不覚にも少しドキリとしてしまった。こういう表情、大好きだったなと思い出す。
「あのね。わたしも同じなんだ。智のためにしてあげたことなんて、ひとつもない。全部、わたしがそうしたいからしていたの。自分のためだったんだよ。だから、重荷に感じることなんてなかった。だけどね、重荷に感じてしまう真面目な智だから好きになったんだ、たぶん」
正直さや誠実さは、恐らくこれからも彼を苦しめ続けるのだろう。だけど彼の人柄はとても好ましく、誰かを慰め救うこともきっとたくさん、あるのだろう。
それは自分自身にも言えること。花穂の親切や優しさはときに疎ましく重荷になることもあるけれど、誰かの背中を押す日もある。
そういう巡り合わせは、上手くいったりいかなかったりするものだ。誰が悪いわけでもない。
智は目を瞬き、眩そうに花穂を見る。安堵と寂しさが入り交じったような複雑な表情をしていた。
「なんか、ちょっと変わったな、花穂」
「そう、かな。そうかもね。だって、生死の境を彷徨ったんだし」
胸を張って言うと、智は少し照れたように目を逸らしたあと、ふと笑った。
「花穂、俺……」
「さよなら、智。もう連絡しないけど、公演は気が向いたら行くね」
智が言いかけた言葉を遮り、きっぱりと告げて右手を差し出す。未練がないわけではない。だけど、これでいい。
ようやく、失恋が完了したのだ。
寒い朝、花穂は早起きして久しぶりにバスに揺られていた。住宅街を抜けてしばらく走ると、風景は一変する。
一面の緑。冬枯れの季節を前にしても、ハーブガーデンは緑の息吹に溢れていた。バス停に着き、歩き出す。
湿った草いきれは爽やかな香りを放つ。少し前に雨でも降ったのか、ハーブたちはそのはに水滴を留まらせ、光を浴びてキラキラと輝いていた。
少し向こうでラベンダーの花補が揺れる。カモミールは白い花びらを反り返らせて咲いていた。
もう少し先にはミントの畑があるはずだ。繁殖力旺盛なミントは、今もきっと元気に葉を茂らせていることだろう。
しばらく歩くと、萌葱色の屋根が見えてきた。二階建ての可愛らしい建物を目にして、花穂は思わず駆け出した。
玄関ポーチにはドライフラワーが無造作に籠に入れられていて、懐かしい香りを放っている。
ノッカーに触れる前に、扉は開いた。中に立っていたのは背の高い痩せた男の人だった。髪は寝癖なのかぼさぼさで、分厚い眼鏡をかけている。アロハシャツにワークパンツ、緑色のエプロン姿。
彼は照れているのかぎこちなく笑った。
「おかえり……なさい、花穂さん」
「ただいまです、マオさん」
ハーブガーデン・コイウラの店主は少し照れたようにずれた眼鏡を直す。そして、お揃いの緑のエプロンを花穂に手渡してくれた。
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