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第5章 起死回生のバスソルト

§1§

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「花穂、おはよう」

 女性の声にはっとする。気がつくとカーテンの隙間から陽光が差し込んで、部屋はずいぶんと明るくなっていた。
 電子音も通常通りの控えめで無味乾燥なものに戻っている。

 女性は花穂に近づいてきて、柔らかく微笑みかけてくる。年齢相応の時間と疲れを刻んだ顔は、とても慕わしいものに感じた。

「お母……さ、ん……?」

 声が出た。
 ようやく呪縛が解けたらしい。花穂は前につんのめりながらも、なんとか体勢を立て直す。

「お母さん、見えているの? 聞こえてる……の?」

 こちらに向かってくる母親に、花穂は問いかける。鼓動が速くなる。上手く思い出せないけれど、彼女は自分の母親だ。

「お母さ……」

 駆け寄ろうとした。だけど母親は花穂の横をすり抜けて、カーテンを開けた。

「今日はいいお天気よ。だいぶ寒くなってきたから、明日はあなたのお気に入りだったショールを持ってくるわ」

 母親はベッドの上に花穂を覗き込み、髪を優しく撫でた。
 いつも、こうして声をかけてくれているのだろう。なんの反応も示さない花穂に。

「お母さん。わたし、花穂だよ。こっちだよ……ここにいるよ……」

 お母さん、お母さんと花穂は子どものように繰り返した。
 ちゃんと思い出せないのが申し訳なくて、声音は湿り気を帯びる。

 母親はとりとめもなく、花穂に話しかけ続けている。昨夜の晩ごはんのおかずとか、父親は相変わらず忙しいこと、親戚の誰かに子どもが生まれたとか、お隣さんから林檎のお裾分けをもらったとか。他愛のない日常を、教えてくれている。

「こんなに長い時間一緒に過ごすのは、あなたが赤ちゃんのとき以来かもね」

 ふと笑う。目尻に皺が寄って、そこに押し出された雫が粒になって頬へと流れ落ちた。

 しばらく、花穂は母親に寄り添うように佇んでいた。声をかけても、背をさすっても彼女は気づいてはくれない。それでも、離れがたくて。

 今、身体に戻って目を覚ましたら、彼女はどれほど安心して、喜んでくれるだろう。

 花穂は自分の身体に触れてみた。だけど何も起こらない。
 そう簡単には戻れないのか。どうしよう。どうしたら、戻れるんだろう。

『戻りたいんですか、本当に?』

 マオの問いかけが蘇る。
 戻りたいと……思っていないのだろうか。自分の心がわからない。

 涙が乾くと、母親は鞄からパッチワークを取り出して縫い始めた。色とりどりの小さな布が繋がって星のような模様ができあがっていく。

「あなたが大好きだったレモンスターよ。昔、一緒に作ったわね……」

 そうなんだ。そんなことがあったんだ。きっと素敵な思い出なのだろう。
 霞む記憶のもどかしさに耐えきれず、花穂は病室をあとにした。
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