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第4章 思い出のマローブルー
§3§
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夜になってももやもやとした気分は抜けなくて、花穂はバスソルトを取り出して、バスタブに入れた。白い結晶はさらさらとお湯の中に沈んで、緩やかに溶けていく。
「いい香り……」
爽やかな芳香が全身を包む。
だけど、違う。ここにくる以前、落ち込んだ日にはいつも使っていたバスソルト。
あれは、どんな香りだったかな……。お姫様にでもなったみたいな、優雅な気分にさせてくれる。とても特別な香りだった。
確かに悲しみを洗い流してくれた。それらが排水溝へ呑み込まれてくのを、何度も見ていた。
戯れに水面をぱしゃぱしゃと指で弾く。波紋は花穂の身体に当たって不定形に崩れていく。
「ラウレアさんは……わたしの、何かを見ていたのかな……」
見たくないもの。自分自身も気づいていないこと。それが、彼女には見えたのかな。訊いたら、教えてくれるだろうか。
ラウレアの顔を思い出し、花穂はぷるぷると頭を振る。
「ダメダメ。自分で、確かめなくちゃ……」
彼女は、今は穏やかな日々を送っている。お父さんから引き継いだパン屋さんでおいしいパンを焼いて、ご近所の人に喜ばれているのだろう。
またいらしてと言ってくれたけど、それはお客として、或いは気軽な話し相手としてだろう。
以前は、見たくもないものを見て辛い思いをしていた。もしも今、平穏に日々を過ごせているのなら、邪魔をしてはいけない。
自分の力で、向き合わなくては。どこかに置いてきてしまった自分に。
花穂は息を深く吸い込み、バスタブの中に潜る。頭のてっぺんまでお湯に浸かって、髪が揺らめくのを感じた。
一、二、三……二十まで数えて花穂は勢いよく水面から顔を出した。むせ返りながら、花穂は笑う。
馬鹿げているけれど、実感する。息苦しさに、思い知らされる。生きていること。生きたいと思っていること。花穂は自分の腕をさすり、バスタブの中で膝を抱く。
以前、ラウレアに指摘された。自分が生きているのかどうか不安なのねと。
その通りだ。ハーブガーデン・コイウラを訪れるのは少し変わった人たち。死者と訳ありの生者。ラウレアによると花穂は生きている者だ。だとしたら、どんな理由があってここに辿り着いたのか。
その前の自分は、どのように生きていたのか。今、自分はどのような状態なのか。
怖いけれど……確かめなくては。
長い入浴を終えてバスルームを出ると、一階から明かりが漏れているのに気づいて、花穂は階下に降りた。カウンターの中で一つだけ照明をつけて、マオはぼんやりと頬杖をついていた。手元のティーカップにはすっかり冷めた様子の飲みかけのお茶。
「まだ、お仕事ですか」
「いえ、眠れなくて」
少し困ったように笑う。眼鏡の奥の目は心なしか、いつもより疲れているように見えた。
花穂は自分用にローズがブレンドされたお茶を淹れ、椅子をもう一つ引っ張ってきてマオの隣に座った。お風呂上がりは喉が渇いているから、あっという間に一杯飲み干してしまう。
なんとなく隣に座ったものの、話すことは思い浮かばなくて、花穂はカップを手の中でゆらゆらと弄んでいた。
マオもしばらくは黙ってぼんやりとしていたけれど、ふいに、まるで今、花穂に気づいたかのようにこちらを向いて言った。
「気になることがあるなら、確かめてくるといいですよ。なんなら明日にでも行ってきたらどうですか」
「えっ、でも仕事は……」
モアがいなくなって、二人だけになってしまった。来客はそれほど多くないものの、日々の細々とした仕事は分担しても徐々に溜まりつつある。ハーブガーデン・コイウラは今、人手不足の状態にあるのだ。
「では、お使いをお願いしましょうか。ええっと、切らしている物はあったかな……」
「そんな、無理に用事を作ってもらうなんて……」
花穂がやんわりと止めたけれど、マオは買い物リストをさらさらと書きつける。
「いいから、行ってきてください。あなたは、あちら側にとても近い……今はね」
今は……。これから、遠退いてしまうのだろうか。
マオは微笑む。それはとても優しい表情だったけれど、心は笑っていない。そんな気がした。
「花穂さん。何事にもちょうどいいときというものがあるのですよ。それは目には見えないけれど、確実に」
そこで言葉を切り、マオは冷めたお茶を飲み干す。彼が俯くと、ちょうど眼鏡が明かりを反射して、目元が見えなくなってしまう。
吐き出した声は少し強ばって、それは本心ではあるけれどどこかに彼自身が抵抗を感じている様子だった。
「今できることというのは、とても大切なことなのだと、わたしは思いますよ」
マオはメモを花穂の手元に置く。苦し紛れに彼が書いたリストには、消しゴムやクリップ、付箋紙を何種類か。それから『好みのお菓子をお願いします』と。
花穂はしばしメモを眺めたあと、笑ってしまった。本当に、明日買わなければいけない物なんて何一つない。それでも少しは花穂の気持ちが軽くなるのではないかと、マオは考えて書いてくれた。それがおかしくて、嬉しくて。
「では、明日は出かけてきますね」
「はい。お使い、よろしくお願いします」
二人して微笑み合う。空気はカサカサと乾いてぎこちない。ぎこちないけれど……冷たくは、なかった。
「いい香り……」
爽やかな芳香が全身を包む。
だけど、違う。ここにくる以前、落ち込んだ日にはいつも使っていたバスソルト。
あれは、どんな香りだったかな……。お姫様にでもなったみたいな、優雅な気分にさせてくれる。とても特別な香りだった。
確かに悲しみを洗い流してくれた。それらが排水溝へ呑み込まれてくのを、何度も見ていた。
戯れに水面をぱしゃぱしゃと指で弾く。波紋は花穂の身体に当たって不定形に崩れていく。
「ラウレアさんは……わたしの、何かを見ていたのかな……」
見たくないもの。自分自身も気づいていないこと。それが、彼女には見えたのかな。訊いたら、教えてくれるだろうか。
ラウレアの顔を思い出し、花穂はぷるぷると頭を振る。
「ダメダメ。自分で、確かめなくちゃ……」
彼女は、今は穏やかな日々を送っている。お父さんから引き継いだパン屋さんでおいしいパンを焼いて、ご近所の人に喜ばれているのだろう。
またいらしてと言ってくれたけど、それはお客として、或いは気軽な話し相手としてだろう。
以前は、見たくもないものを見て辛い思いをしていた。もしも今、平穏に日々を過ごせているのなら、邪魔をしてはいけない。
自分の力で、向き合わなくては。どこかに置いてきてしまった自分に。
花穂は息を深く吸い込み、バスタブの中に潜る。頭のてっぺんまでお湯に浸かって、髪が揺らめくのを感じた。
一、二、三……二十まで数えて花穂は勢いよく水面から顔を出した。むせ返りながら、花穂は笑う。
馬鹿げているけれど、実感する。息苦しさに、思い知らされる。生きていること。生きたいと思っていること。花穂は自分の腕をさすり、バスタブの中で膝を抱く。
以前、ラウレアに指摘された。自分が生きているのかどうか不安なのねと。
その通りだ。ハーブガーデン・コイウラを訪れるのは少し変わった人たち。死者と訳ありの生者。ラウレアによると花穂は生きている者だ。だとしたら、どんな理由があってここに辿り着いたのか。
その前の自分は、どのように生きていたのか。今、自分はどのような状態なのか。
怖いけれど……確かめなくては。
長い入浴を終えてバスルームを出ると、一階から明かりが漏れているのに気づいて、花穂は階下に降りた。カウンターの中で一つだけ照明をつけて、マオはぼんやりと頬杖をついていた。手元のティーカップにはすっかり冷めた様子の飲みかけのお茶。
「まだ、お仕事ですか」
「いえ、眠れなくて」
少し困ったように笑う。眼鏡の奥の目は心なしか、いつもより疲れているように見えた。
花穂は自分用にローズがブレンドされたお茶を淹れ、椅子をもう一つ引っ張ってきてマオの隣に座った。お風呂上がりは喉が渇いているから、あっという間に一杯飲み干してしまう。
なんとなく隣に座ったものの、話すことは思い浮かばなくて、花穂はカップを手の中でゆらゆらと弄んでいた。
マオもしばらくは黙ってぼんやりとしていたけれど、ふいに、まるで今、花穂に気づいたかのようにこちらを向いて言った。
「気になることがあるなら、確かめてくるといいですよ。なんなら明日にでも行ってきたらどうですか」
「えっ、でも仕事は……」
モアがいなくなって、二人だけになってしまった。来客はそれほど多くないものの、日々の細々とした仕事は分担しても徐々に溜まりつつある。ハーブガーデン・コイウラは今、人手不足の状態にあるのだ。
「では、お使いをお願いしましょうか。ええっと、切らしている物はあったかな……」
「そんな、無理に用事を作ってもらうなんて……」
花穂がやんわりと止めたけれど、マオは買い物リストをさらさらと書きつける。
「いいから、行ってきてください。あなたは、あちら側にとても近い……今はね」
今は……。これから、遠退いてしまうのだろうか。
マオは微笑む。それはとても優しい表情だったけれど、心は笑っていない。そんな気がした。
「花穂さん。何事にもちょうどいいときというものがあるのですよ。それは目には見えないけれど、確実に」
そこで言葉を切り、マオは冷めたお茶を飲み干す。彼が俯くと、ちょうど眼鏡が明かりを反射して、目元が見えなくなってしまう。
吐き出した声は少し強ばって、それは本心ではあるけれどどこかに彼自身が抵抗を感じている様子だった。
「今できることというのは、とても大切なことなのだと、わたしは思いますよ」
マオはメモを花穂の手元に置く。苦し紛れに彼が書いたリストには、消しゴムやクリップ、付箋紙を何種類か。それから『好みのお菓子をお願いします』と。
花穂はしばしメモを眺めたあと、笑ってしまった。本当に、明日買わなければいけない物なんて何一つない。それでも少しは花穂の気持ちが軽くなるのではないかと、マオは考えて書いてくれた。それがおかしくて、嬉しくて。
「では、明日は出かけてきますね」
「はい。お使い、よろしくお願いします」
二人して微笑み合う。空気はカサカサと乾いてぎこちない。ぎこちないけれど……冷たくは、なかった。
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