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第3章 エルダーフラワーのお茶をもう一杯
§2§
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その日の夜、お風呂を済ませて部屋に戻ると、モアはそわそわした様子でベッドに座ったり窓の外を覗いたりしている。
マオから贈られたワンピースは、クロゼットの手前に飾るようにして吊されていた。
「ね、そのワンピース、着て見せてよ」
「えっ……今ですか」
モアは少し戸惑う素振りを見せたけれど、素直に着替え始めた。
きっと早く着てみたかったのだろう。
少し張りのあるリネン地はゆったりとドレープを描き、モアのほっそりとした身体を包む。
大人っぽい色合いながら、緩やかに広がるスカートラインは少女っぽいイノセントな雰囲気を残していた。
「わぁ、可愛いなぁ。似合うよ、髪を下ろしたらもっと似合うかも」
「そ、そう……?」
言われるまま、モアは結わえていた髪を解いて肩に垂らした。
それだけでずいぶん雰囲気が違う。オリーブ色はモアの白い肌や艶々の黒髪をとても魅力的に際立たせていた。
「うん、下ろしたほうが似合う。サイドを編むと可愛いかな。やってあげる」
花穂は腕まくりをして、モアの髪を指で掬い、編み上げる。形のよい耳が現れて、すっきりした印象になった。
「上手ね、花穂さん。髪飾りがなくても華やかに見えるのね」
満足そうな口ぶりだけれど、鏡に向かうモアは浮かない顔だ。
「本当に、似合っているかしら」
「見慣れないから違和感があるだけだよ。ほら、スーツとかも着慣れるとそれなりに似合うようになるし」
「花穂さんはスーツをお召しになっていたの?」
モアの何気ない問いにふと浮かんだのは、満員電車の光景だ。
知らない人と一緒にぎゅっと詰め込まれて、どこかに運ばれていく。
「花穂さん?」
「わたし、毎朝電車に乗っていたみたい」
「お勤めされていたのね」
モアは穏やかに頷いてくれた。その表情は全然、子どもっぽくなんかない。優しくて不安な気持ちを和らげてくれる。
花穂は恐る恐る、頭の中を探る。
ぼんやりと脳裏に浮かぶのは、重苦しい空気と灰色の景色。人の顔はみんな落書きしたみたいに平坦で表情がない。そんな人たちと一緒に電車に揺られて、駅から駅へ運ばれていく。
そこが、自分の本当の場所? 戻るべき日常?
あまり、帰りたいとは思えないなぁ……。
「仕事は、ここのほうが楽しいよ! ずっといい香りに包まれて、緑がいっぱいで、マオさんもモアさんも優しいし、お客様は楽しい方が多いし」
言葉にしてみると、存外に薄っぺらくて花穂は唇を嚙む。
この場所が好きだと、とても楽しいと、みんなが大好きだと口にすればするほど、なんだか遠ざかっていくような気がして。
花穂は肩を寄せて、耳打ちするように小声で告げる。
「……わたし、ここが好きだよ」
「ええ、わたしも……」
モアは控えめに同意して、微笑む。
その夜は、あまりおしゃべりは弾まなかった。眠りを誘うカモミールのお茶を飲んで、ベッドに入った。
カーテンを閉めていても、隙間から月明かりが細く差し込んでいる。
夜空はずいぶん明るいようだ。その光の道を見つめていると、
だんだん目が冴えてしまって、モアが寝息を立てる頃にはすっかり花穂は眠れなくなってしまった。
こんなに月が明るいのだから、今夜は満月なのかな……。少しだけ、外の風に当たってこよう。
そう思い、モアを起こさないようにベッドを抜け出してカーディガンを羽織った。一階に下りると、店にはまだ明かりが点いている。
テーブルにはいくつかの商品が並び、マオはノートパソコンに向かっていた。
「まだ起きてらしたんですか」
「ええ。お客様にメールのお返事を。花穂さんこそ、どうしました。眠れませんか」
「はい。ちょっと月でも見ようかな、なんて」
「それはいいですね。今宵は満月ですよ」
「わぁ、やっぱり。どうりで空が明るいと思いました。ちょっと見てきます」
月を眺めるなんて、以前の自分なら思いつきもしなかっただろう。
月の満ち欠けなんて気に留めてもいなかった。ずっと地面ばかり見て歩いていた気がする。
音を立てないようにそっと扉を開けたところで、マオに呼び止められた。
「ああ、そうだ。花穂さん、明日は――」
マオから贈られたワンピースは、クロゼットの手前に飾るようにして吊されていた。
「ね、そのワンピース、着て見せてよ」
「えっ……今ですか」
モアは少し戸惑う素振りを見せたけれど、素直に着替え始めた。
きっと早く着てみたかったのだろう。
少し張りのあるリネン地はゆったりとドレープを描き、モアのほっそりとした身体を包む。
大人っぽい色合いながら、緩やかに広がるスカートラインは少女っぽいイノセントな雰囲気を残していた。
「わぁ、可愛いなぁ。似合うよ、髪を下ろしたらもっと似合うかも」
「そ、そう……?」
言われるまま、モアは結わえていた髪を解いて肩に垂らした。
それだけでずいぶん雰囲気が違う。オリーブ色はモアの白い肌や艶々の黒髪をとても魅力的に際立たせていた。
「うん、下ろしたほうが似合う。サイドを編むと可愛いかな。やってあげる」
花穂は腕まくりをして、モアの髪を指で掬い、編み上げる。形のよい耳が現れて、すっきりした印象になった。
「上手ね、花穂さん。髪飾りがなくても華やかに見えるのね」
満足そうな口ぶりだけれど、鏡に向かうモアは浮かない顔だ。
「本当に、似合っているかしら」
「見慣れないから違和感があるだけだよ。ほら、スーツとかも着慣れるとそれなりに似合うようになるし」
「花穂さんはスーツをお召しになっていたの?」
モアの何気ない問いにふと浮かんだのは、満員電車の光景だ。
知らない人と一緒にぎゅっと詰め込まれて、どこかに運ばれていく。
「花穂さん?」
「わたし、毎朝電車に乗っていたみたい」
「お勤めされていたのね」
モアは穏やかに頷いてくれた。その表情は全然、子どもっぽくなんかない。優しくて不安な気持ちを和らげてくれる。
花穂は恐る恐る、頭の中を探る。
ぼんやりと脳裏に浮かぶのは、重苦しい空気と灰色の景色。人の顔はみんな落書きしたみたいに平坦で表情がない。そんな人たちと一緒に電車に揺られて、駅から駅へ運ばれていく。
そこが、自分の本当の場所? 戻るべき日常?
あまり、帰りたいとは思えないなぁ……。
「仕事は、ここのほうが楽しいよ! ずっといい香りに包まれて、緑がいっぱいで、マオさんもモアさんも優しいし、お客様は楽しい方が多いし」
言葉にしてみると、存外に薄っぺらくて花穂は唇を嚙む。
この場所が好きだと、とても楽しいと、みんなが大好きだと口にすればするほど、なんだか遠ざかっていくような気がして。
花穂は肩を寄せて、耳打ちするように小声で告げる。
「……わたし、ここが好きだよ」
「ええ、わたしも……」
モアは控えめに同意して、微笑む。
その夜は、あまりおしゃべりは弾まなかった。眠りを誘うカモミールのお茶を飲んで、ベッドに入った。
カーテンを閉めていても、隙間から月明かりが細く差し込んでいる。
夜空はずいぶん明るいようだ。その光の道を見つめていると、
だんだん目が冴えてしまって、モアが寝息を立てる頃にはすっかり花穂は眠れなくなってしまった。
こんなに月が明るいのだから、今夜は満月なのかな……。少しだけ、外の風に当たってこよう。
そう思い、モアを起こさないようにベッドを抜け出してカーディガンを羽織った。一階に下りると、店にはまだ明かりが点いている。
テーブルにはいくつかの商品が並び、マオはノートパソコンに向かっていた。
「まだ起きてらしたんですか」
「ええ。お客様にメールのお返事を。花穂さんこそ、どうしました。眠れませんか」
「はい。ちょっと月でも見ようかな、なんて」
「それはいいですね。今宵は満月ですよ」
「わぁ、やっぱり。どうりで空が明るいと思いました。ちょっと見てきます」
月を眺めるなんて、以前の自分なら思いつきもしなかっただろう。
月の満ち欠けなんて気に留めてもいなかった。ずっと地面ばかり見て歩いていた気がする。
音を立てないようにそっと扉を開けたところで、マオに呼び止められた。
「ああ、そうだ。花穂さん、明日は――」
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