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第2章 お母さんによく眠れるサッシェを

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 結局、マオはまるまる一週間休んで、今日はようやく店に出てきた。少し痩せたけれど、顔色はいい。
 みんなお揃いの緑のエプロンを見るとほっとする。

「すみません、お二人にはご迷惑をおかけしました」
「迷惑なんてことはありませんわ。ねぇ、花穂さん」
「そうですよ。元気になってよかったです」

 丁寧に詫びるマオに、花穂とモアは口々に言う。
 モアは特に嬉しそうだった。面映ゆい笑顔でマオを見つめる彼女を見ていると、こちらまでなんだか頬が熱くなってしまう。

「頼もしいスタッフのおかげで、充分に休養を取ることができました。感謝しています」

 マオは今まで通りのマオだった。穏やかで優しい空気を放っている。
 雨の中で佇んでいたときに纏っていた影や、熱に浮かされて花穂を誰かを間違えたときの焦燥はもう見られない。消えてしまったわけはない。きっと心の奥底にしまい込んだのだろう。

 花穂にも経験がある……ような気がする。
 苦しいことや悲しいことをぎゅうぎゅう心の中に押し込んで、笑顔を纏う。いつものほほんと気楽な仮面を被って、悩みなんかなさそうに振る舞うのだ。
 そういう自分でいなければ、いけないような気がしたから。

「花穂さん、ここにあったサッシェ、売れたんですね」
「ええ、エウ君が買っていきましたよ。お母さんにあげるんだって言って」
「あれはいい品物でしたね。手刺繡がとても見事でした。安らぎとともに華やいだ気分にもさせてくれるでしょう」

 マオは納得したように頷く。

「そうだ、エウ君、お兄ちゃんになるんですよ」

 あの家庭にはいろいろ問題がありそうだけれど、とにかく新しい命が宿っているのは、明るいニュースだ。
 しかし、マオの表情は俄に曇る。肌を刺すようなピリリとした空気に、緊張が走った。

「……その方、妊娠していらっしゃるんですか」
「ええ、多分」
「お元気かどうか、わかりますか」
「え? ええっと……ちょっと具合が悪そうでした。疲れている様子で……」

 マオは珍しく渋面になり、早口に花穂に命じる。

「花穂さん、急いで商品を回収してきてください。今すぐに」
「な、何か問題があったんですか?」

 モアも顔色を変えてこちらにやってきた。マオは首を振り、カウンター内のパソコンに向かい、調べ物を始めた。

「説明はあとでします」

 切迫したマオの顔を見て、花穂も事態の重さをまざまざと感じた。バス代だけを握り締めて、花穂はエプロンをしたまま店を飛び出した。


 バス停を降りて、うろ覚えの道を走る。
 気は急くのに身体は思うように動かなくて、もどかしかった。
 目の前には有紗の住むタワーマンションが見える。だけど、一向に近づいてこないような気がした。

「花穂ちゃん!」

 聞き慣れた子どもの声に、辺りを見渡す。
 少し先の角で、路上に倒れている女性を発見した。有紗だ。運の悪いことに人通りはなく、誰にも発見されていない様子だ。

「花穂ちゃん! どうしよう、お母さん倒れちゃって……どうしよう、どうしたらいいの?」

 動揺してしがみついてくるエウを宥める余裕もなく、携帯電話も持っていない花穂は近くのコンビニに飛び込み一一九番をしてもらえるようお願いした。
 倒れているのは妊婦だということも忘れずに伝えてもらえるよう言い残し、有紗の元に戻る。前に会ったときに、何週目か訊いておくべきだったと後悔が掠めた。

「有紗さん、しっかりしてください。もうすぐ救急車がきます!」

 声をかけると、うっすらと有紗が目を開いた。だが、花穂の顔など見ていない。

「生まないと……今度こそ、生まないと……。あのときは失敗だった。無事に生まないと、もうわたしの居場所なんて……っ」

 有紗はうわごとのように呟かれた言葉に吐き気がした。
 こんなふうに彼女を追い込んだ人たちが恐ろしかった。それが、伴侶やその家族だということも。
 震えるばかりのエウの手をぎゅっと握って、遠くから聞こえてくるサイレンに耳を澄ませた。

 救急車に一緒に乗り込み、花穂は有紗につき添う。
 辛うじて意識のある有紗に、救急隊員が生年月日や持病、それから妊娠週数を確認する。熱、それから血圧と脈を計ると、病院へ向けて走り出した。

「僕のせいだ……」

 エウの声がする。姿は見えないけれど、救急車のどこかにいるのだ。

「お母さんが、僕のせいで……」

 僕のせい、僕のせいだとエウは繰り返す。
 花穂以外には聞こえていない声。救急隊員は有紗の心拍数に気を配りながら、大丈夫ですよと声をかけている。

「僕のせい――」
「……違う!」

 思わず、声が出た。エウの自責に反論せずにはいられなかった。
 救急隊員に訝しげな目で見られ、花穂は唇を嚙む。滲んだ涙を袖口で拭った。

「……すみません」

 違う。違うよエウ君。あなたのせいなんかじゃない、絶対。

 花穂が声を上げたあとは、エウは黙り込んでしまった。
 本当はもっと安心させることを言ってあげたいし、ぎゅっと抱き締めてあげたい。だけど今はそれも叶わない。
 サイレンを響かせ、救急車は走っていく。外の景色は見えない。

 病院で一通りの検査を終えたあと、有紗は病室で休むことになった。とりあえず、おなかの子どもに影響はないらしいが、大事を取って数日入院することになったようだ。
 花穂は看護師に案内され、有紗のいる病室に通された。

「たいへんでしたね」
「あなた……この間の」
「はい。たまたま通りかかったら、倒れていらしたので……」
「ご近所にお住まいなのね。……ご迷惑をおかけしてすみません」

 救急車に乗り込む前に言っていたことは、本人は覚えていないようだ。
 有紗は手元にサッシェを置いていた。布地は少し薄汚れて、くったりとしている。

 日々、持ち歩いていたのかもしれない。そんなに大事にしていたのかと思うと、回収にきたとは言いづらい。

 花穂がどう切り出すか迷ってると、カーテンが開きスーツ姿の男性が入ってきた。

「……きてくれたの」

 どこか意外そうな声音で、有紗は男を見上げる。彼は、有紗の伴侶のようだ。
 有紗は軽く身体を起こし、微笑む。手にはあのサッシェがお守りのように握られていた。

「なんだ、その薄汚い布きれは」
「え……」
「あなたがくれたんじゃ、ないの」
「いや、覚えがない。こんなもの選ぶ時間なんかないのは知っているだろう」

 具合の悪い身重の妻に向かってなんて言い草だ。
 花穂は驚いて有紗の夫……エウの父親を見る。一見、物腰の柔らかそうな男性だ。シャツの襟はピンとしていて、身だしなみにも気を遣うタイプだろう。

 だけど感じが悪い。他に言うことはないのか。もやもやとした気持ちを必死に押さえ、花穂は二人から少し距離を取った。

「だって、枕元に置いてあって……だからてっきり」
「俺じゃない。じゃあ……母さんかな。なんだ、仲が悪いのかと思っていたが。有紗の誤解だよ、母さんはやっぱり君に優しくしているじゃないか」

 有紗の顔がさっと曇る。それだけで義母との関係を察することができた。赤の他人の花穂がわかることを、人生の伴侶は理解していない。

「じゃあ、俺は仕事に戻るよ」
「ま、待ってください……!」

 堪らず、花穂は声をかけた。おなかに赤ちゃんがいるのに、自分の子どもなのに、あまりにも冷たい。

「そばにいてあげないんですか」
「ここにいたって有紗の体調がよくなるわけではない。患者の管理は医者や看護師の仕事だ。気になるなら、君がつき添ってやればいいだろう。時間はあるようだし」
「な――」

 憤りを呑み込むのが精一杯だった。花穂は拳をきつく握り締める。爪が食い込んで痛かった。

「その人は親切に救急車を呼んでつき添ってくれただけよ」

 力なく、有紗は呟く。彼女の伴侶は片方の眉を上げてため息をついたあと、無言で病室を出て行った。

「ごめんなさい。あなたにまであんな言い方……」
「わたしなら大丈夫です。そんなことより、今は休んでください」

 花穂の言葉に素直に頷き、有紗は身を横たえ、しばし目を閉じた。
 有紗の身じろぎで、さっきまで大事に手元に置いていたサッシェがぽたりと床に落ちる。
 花穂はそれを拾い上げ、有紗に見せる。

「あの、これ……」
「いらない……見たくないわ。ごめんなさい、捨てておいてもらえる?」

 つれなく言い、有紗は目をそらす。
 本当は、あなたが生むはずだった男の子からのプレゼントなんですよ……。

 そう告げたかった。どのみちこれは回収するけれど……それでも、小さな男の子からの心の籠もったプレゼントだと知ったら、それだけでも気持ちが温まると思うのに。

 花穂が困惑したまま佇んでいると、有紗は力なく微笑み、頭を下げた。

「ありがとうございます。わたしならもう大丈夫だから……ここには、お医者様も看護師さんもいるから」

 あの人の言う通り。有紗は寂しげに微笑んで呟く。

 これ以上は踏み込めない。他人の家庭のことだ。言われた通り、花穂は少し汚れたサッシェを引き取って、鞄にしまった。

 回収完了。これで花穂の仕事は終わりだ。だけど達成感など皆無で、ただ疲れだけが身体中に絡みついている。

 廊下に出ると、ようやくエウがちょいと花穂の手に触れてきた。だが、言葉は発しない。花穂はエウの手を繋ぎ、病院の廊下を足早に歩く。

 苛立ちが募る。こんなに……こんなに小さな子どもが苦しんでいるのに、何もしてあげられない。慰めの言葉もかけられないでいた。

 そんな自分が嫌だ。なんの役にも立たない自分が。

 花穂は知らず速歩になる。視界は魚眼レンズのように歪んで、すれ違う人はみんなのっぺらぼうだ。耳に届く音もおかしい。水の中にいるみたいに不安定で、遠くから聞こえてくる。

「花穂ちゃん……痛い」
「ご、ごめんね……ほんと、ごめん……」

 いつの間にか、繋いだエウの手を強く握り締めてしまっていた。

「ごめん……」

 何もできない。何も言ってあげられない。こんなに小さな子が、悲しい思いをしているのに。

「花穂ちゃんは悪くないよ」

 小さな手がきゅっと指に絡みついてくる。花穂を気遣う言葉に、泣きそうになった。

 そのまま、花穂はエウの歩調に合わせてゆっくりと歩く。
 入院病棟を出て、病院の外に出た。外はいつの間にか暮れていて、藍色に僅かに朱が混じる空は不穏な雲が垂れ込めていた。

「また君か。何度きたって同じことだ」
「お願いします、本当に少しだけでいいんです!」

 門のところで、男性二人が何やら声を荒げている。
 一人は白髪交じりで壮年の、もう一人は若い男だ。距離を取って通り過ぎようとしたとき、彼らの会話が耳に入る。

「すぐに、帰りますから……どうか、会わせてください……!」
「帰ってくれ、娘に会わせる気はない。娘の友だちの話では、君との関係はもう終わっているそうじゃないか」
「それは……」

 若い男性が口ごもる。年嵩のほうは、煮え切らない相手の態度にさらに怒りを募らせたのか、眉をつり上げている。

「娘は君に捨てられたショックで――」
「捨てたなんて、そんな……」

 違うと、若い男性は首を横に振る。だが、それ以上反論はしなかった。

「お願いします……っ、一目だけでもいいんです。どうか……」

 悲痛な声だった。若い男性は膝を折り、頽れるようにして頭を下げる。

「どうか、かほさんに会わせてください……ッ!」

 若い男性が叫んだ名に、花穂はビクリとして足を止めた。

 え、今、かほって言った?
 偶然……だよね。ありふれた名前だし。

 花穂は二人の男を交互に見たけれど、特に記憶が刺激されることはなかった。

「……花穂ちゃん?」
「あ、ごめんね。ちょっとびっくりしちゃって」

 他人の言い争いに興味を示している場合ではなかった。早く帰って、有紗が無事であったことを伝えなければ。
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