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第1章 彼女の香りと天気雨

§3§

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 午後、花穂はマオの指示で使いに出た。
 ハーブガーデンのはずれにはバス停がある。やってきたバスに乗って終点まで行けば目的地に着くと教わった。

 着いた先は、ごくごく普通の街だった。
 駅ビルにはファッションフロアと雑貨とカフェ、それから書店が入っている。
 バスターミナルがあり、ファストフードチェーンがいくつか並ぶ。
 商店街の先は住宅地だ。すごく都会ではないが、田舎というほどでもない。そんなありふれた街だった。

 なんとなく見覚えがある。前にきたことがあるのかもしれない。だけど平凡すぎる風景を見ても知っていると確信はできなかった。

 メモを手がかりに住宅街の中を進むと、小さなエステサロンがあった。届け物はマッサージ用のオイルだ。受け取った女性からはほんのりといい香りがする。

 やっぱり、癒やされるなぁ……。
 こんなにいい香りに包まれてマッサージなんて受けたら、そのときだけでも女優さんみたいに綺麗になった気がしちゃうだろうな……。

 鼻をひくひくさせていると、エステティシャンらしき女性は朗らかに笑って、今度施術を受けにいらしてと言って割引券をくれた。

 用事を終えても花穂はまっすぐに駅に向かわず、近くをふらりと歩いてみた。
 マオから、少し寄り道をしてくるようにと言われたのだ。

 息抜きをしてこいってことかな? 優しいなぁ、マオさんは。

 しばらく歩くと、小さな公園が見えた。カラフルな遊具とベンチには、今は誰もいない。敷地を囲うように低木が植えられ、奥には背の高い常緑樹が枝葉を初夏の空に伸ばしていた。

「あれ……花穂さん。こんなところでお会いするなんて」

 声の主を探すと、木陰に佇む影を見つけた。
 黒ずくめの格好に、黒いこうもり傘をたたんで手に持っている。

「ポーさん! わたしはお使いの帰りなんですよ」

 花穂はポーに駆け寄る。
 木陰は心地好い風が吹いて、うなじや頬を優しく撫でていく。

「ここは涼しいですねぇ」
「そうでしょう。僕は陽の光が苦手なので、この辺りの日陰にはちょっと詳しいんだよ」

 自慢げに言ったあと、ポーは少し照れたように頭を掻く。

「夏は大嫌いだったんだ」
「だった?」
「うん。今は……その、す、好きかな……」

 照れたように言って、ふとポーは顔を上げる。つられて、花穂も視線を上げた。

「あ……」

 ポーが擦れた声を漏らす。

 通りの向こう側を、女の子が歩いていた。
 十八、九歳くらいだろうか。長い髪をポニーテールにまとめ、明るく人懐っこそうな目をしている。
 半袖のTシャツから伸びた引き締まった腕は少し日に焼けている。何かスポーツをしていそうな雰囲気だ。膝丈のスカートを翻して、颯爽と歩いて行く。

 花穂の目から見ても、魅力的な女の子だった。ポーは伸び上がってその姿を目で追う。

「日向子さん……」

「名前、知ってたんですか」
「あっ、うん。前に、友だちが一緒に歩いていて、喋ってるのが聞こえて……」
「声、かけないんですか」
「ま、ままま、まさか。びっくりされるし、怖がられたら……ショックだし」

 確かに、そうかも。一歩間違えばストーカーだし。

「僕はほら、陰気だし、口下手だから……」

 口ごもりながらも、ポーは幸せそうに目を細めている。

「彼女は光が似合う。明るい太陽の下が」

 眩しそうに傘の影から見守り、ポーはそっと唇を綻ばせる。関わることはすっかり諦めている様子で、少し歯痒かった。

 ポーはとても穏やかで優しい。話してみたら、悪い人じゃないってわかってくれると思うのに。
 おつき合いするとか、そこまでいかなくても、ほんの少し言葉を交わせるようになれればいいのにな。
 花穂はもどかしい気持ちを抱きながら、ポーの隣で日向子が通り過ぎていくのを見守った。

「それはおせっかいというものですわ、花穂さん」

 夕食のあと、部屋に戻って今日の出来事をモアに話すと、やんわりと釘を刺された。

「ポーさんはご自身の意思で彼女と関わらないでいるのでしょう。それなら、そのお気持ちを尊重すべきですわ」

 澄ました顔でローズヒップのお茶を飲みながら、モアが言う。
 眠る前の一時、彼女とこうしてお喋りしながらハーブティーを楽しむのがすっかり習慣になっていた。

 花穂も硝子のティーカップに口をつける。少し鼻につく香りと酸味に、思わず顔をしかめた。正直、おいしくない。

「あら、ローズヒップは苦手? 美容によろしいのよ、ビタミンCがたっぷりで」
「う、そうなんだ……」

 それなら、飲まなくちゃ。しかめっ面のまま、花穂は緋色の液体を飲み干す。

「ポーさんは、本当に彼女とお話もできない関係でいいのかな……」

 問いかけるでもなく独りごちると、モアは呆れたようにため息をついた。

「ねぇ……モアさんも、放っておいて欲しいの? おつき合いしたいとか思わない?」
「わたしには関係のないお話でしょう」
「だってモアさんは、マオさんのこと……」

 花穂が言いかけたところで、モアは口をパクパクさせて顔を真っ赤に染める。

「わたし……わたしは……」

 言葉を探して目を白黒させたあと、ふーっと長いため息をついて、モアはじっと花穂を見つめてきた。

「花穂さん……好きになったら、告白したり、おつき合いしなければいけないものですの?」
「えっ……それは、いけないとか、そういうことではないけど……ご、ごめんね。そうだよね、いろんな形があるよね」
「ううん、わたしこそごめんなさい。恋のことはよくわからないの」

 呟いたモアの表情がひどく幼げに見えて、花穂は罪胸が痛んだ。

 しっかりしているけれど、たぶん自分よりも年下だろう。
 彼女は純粋に、マオのことを想っているのだ。
 恋を交際するかしないかでしか考えなかったことが恥ずかしかった。恋の形に優劣などないのに。

 ただ好きでいること。その人を思うだけで胸がいっぱいになること。
 苦しいけれどキラキラした気持ち……。
 嫌だな、もう、自分は失ってしまったのかな……。

「秘密にしてね、わたしが……その、マオさんを好きってこと」
「もちろん」

 女の子同士、これは絶対に破っちゃいけない約束だ。花穂が指切りの形に手を差し出すと、モアは神妙な面持ちで小指を絡めてくる。

 ほっとしたようなモアの顔を見て、花穂はふと思う。
 自分はどんな恋をしていたのだろう。
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