青い死神に似合う服

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第4章 縒り合わさったもの

§5§

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 ゆっくりと、母の姿が消えていく。残ったのは、シュトーレンの甘い香りだけだった。

 いつの間にか、キッチンの様子は変わっていた。ボウルや鍋の種類が変わり、作業台には傷が増えた。窓ガラスは曇り、オーブンには煤がついたままだ。

 どうやら、母の死から何年か過ぎたらしい。

 父と二人では、キッチンを母がいた頃のように保てなかった。食事は交代で作った。ヨネは母から教わったからそれなりに品数を作れるけれど、父はサンドイッチとポテトサラダしか作れなかった。いつもすまなそうにしていたけれど、サンドイッチは芥子が効いておいしかったし、ポテトサラダは優しい味がした。

 ヨネはキッチンを出て、父の姿を探した。書斎にはおらず、次に寝室を覗いた。

 老いた父はベッドに横たわっていた。乾いた咳を一つして、寝返りを打つ。髪も髭も白く、目はずいぶんと悪くなって、灰色に濁っていた。

 この頃にはテーラーの仕事は引退して店も畳んでいた。視力が落ちては仕立ての仕事はできない。それが何よりも辛そうだった。それでも、残された時間をすべて娘のために使うと決めていたのか、父は病床にいながらも仕事を教えてくれた。

 それもやがては難しくなり、起きているよりも眠っていることが多くなった。

 母のときとは違い、それはゆっくり、ゆっくりとやってきた。その瞬間はいつだろうと、ヨゼフィーネはいつも戦々恐々としていた。知らぬうちにいなくなってしまうのではないかと思うとほんの少しそばを離れるのも苦痛だったけれど、父はよく一人にしてくれと言った。

 ヨゼフィーネは一人で大抵の物は縫えるようになっていた。それでも父はヨゼフィーネに度々課題を出した。忘れてはならない初歩的なテクニックから生地の種類や産地、テーラーの歴史に至るまで。今頃、ヨゼフィーネは自分の部屋で課題をこなしているのだろう。

 ベッドの中で父は天井を見上げていた。

『ヨゼフィーネが、一人になってしまう……』

 ぽつりと漏らされた声は弱々しい。こんな不安げな父の声は初めて聞いたから、少なからずショックを受けた。娘の前では、気丈に振る舞っていたのだろう。

『あの子にちゃんと教えてやれただろうか。生きていく術を。伝え忘れたことはないだろうか』

 震える手を目の前に翳し、指を折ったり伸ばしたりした。恐らくはもうよく見えていないのだろう。

『あの青い服の若者は……一体どうしたのだろう。あの子と一緒になると言っていたのに』

 心配そうに呟いたあと、急に苦しそうに呼吸を喘がせる。

『ヨゼフィーネ……!』

 父が虚空へ手を伸ばす。ヨネは思わず駆け寄り、その手を握ろうとした。しかし触れることは叶わなかった。背後からお下げの少女が走ってくる。

『お別れのようだ、ヨゼフィーネ』

『嫌よ、お父様。まだ教えていただきたいことがたくさんあるわ』

 涙声でヨゼフィーネが訴える。父は苦しそうに笑みを浮かべていた。

『……お前に見送られるなんて、思ってもみなかった。ありがとう、ヨゼフィーネ。お前は親孝行な娘だ。親より先に死ななかった』

 ヨゼフィーネは首を振って泣きじゃくるばかりだ。

 ダメよ、そんなふうに嘆いては、お父様が不安になってしまう。どうか、笑って差し上げて、お願い――最期に、笑顔を見せてあげて。

 そんな思いが伝わるはずもない。ヨネは固唾を呑んで見守るしかできなかった。

 ふと、父が視線を娘から逸らした。濁った灰色の目がまっすぐこちらを見ている。不思議そうな顔をして、ゆるゆると首を振る。それから、また目の前の娘に視線を戻した。

『もしも、あの青い死神に再び会うことがあったら、よろしく伝えておくれ。ヨゼフィーネとの時間をありがとうと――』

 そっとヨゼフィーネの頬を包む、痩せた大きな手。あのぬくもりは今でもはっきりと思い出せる。その手から力が失われて、ぱたりとベッドの上に落ちたときの音さえ、耳に残っていた。

 泣き崩れるかつての自分を、ヨネは見つめた。

 亡骸からは、淡い光が立ち上る。それはまるでヨゼフィーネを宥めるように彼女を包んだあと、光の軌跡を描きながらヨネの手元に集まってきた。錘にはまるで晴れた空のような鮮やかな青い糸が巻きつく。

 父は充分な財産と家、何よりもテーラーとしての技術を娘に残してくれた。たくさんのことを教えてもらって、最期のその瞬間までそばにいられた。

 すべて、ブルーが与えてくれた幸せだ。彼がいなければ、ヨゼフィーネはこんな大切な悲しみさえ知らずに逝った。

 これからも、誰かを愛すれば必ず別れはくる。ヨネはいつも見送る側だろう。

 後悔などしていない。後悔など。

 強く、強く言い聞かせる。少なくとも父と母に娘を失う不幸を経験させずに済んだのだ。

 覚悟はしていたつもりでも、続けざまに両親の死を再びなぞるのは胸を抉られるようだった。

 ヨネは泣き続けるヨゼフィーネを残し、家を出た。一人で立ち上がるには、気の済むまで泣くことも必要なのだと、ヨネは知っていた。

 再び、朝のこない夜道を歩き続ける。疲れ果てたときに足が棒のようだと言うけれど、本当にそんなふうに感じるものだと思いふと笑いが漏れた。

 マチとチャコの元気な顔が見たかった。喜美江と他愛のないおしゃべりがしたい。普段は煩わしいパイロット・ノアにさえ、会いたいと思った。

 もう少し、もう少し……自分を励ましながら歩を進めた。闇夜は深く道は朧で心許ない。ときおり、蛍火のようなものがヨネにまとわりつき、錘をくるりと一周して糸となった。

 やがて、生い茂る木々の向こうに、仄かに灯る家の明かりが見えた。そこが終着点なのだろうと、ヨネは重い足を引きずって歩いた。実際の時間はそれほど経っていないのだろう。だけど心は疲弊していた。

 その家の門扉の塗りは剥げ、庭には雑多な植物が鬱蒼と生い茂る。壁も屋根も色褪せて、元の色などわからなくなっていた。

 ノックをする前に扉は開く。家の主は歓待の笑顔を見せてくれた。
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