青い死神に似合う服

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第4章 縒り合わさったもの

§3§

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 熱もすっかり下がったある未明。

 ヨネはいつもの黒いワンピースに薄手のトレンチコートを羽織り、小さな鞄を斜めにかけた。
 中身は大好きなカカオの割合の高いチョコレート、最低限のお化粧道具や櫛が入っている。左手には錘を持つ。旅支度にしてはあまりに軽装だが、どのみち、荷物など必要のない旅だ。温泉に行くわけでも、ハイキングをするわけでもない。

 マチとチャコを起こさないよう、ヨネは静かに門を出た。
 連絡などした覚えはないのに、パイロット・ノアが門扉のところで待っていた。いつもの芝居がかった仕草で一礼をして、ヨネに手を差し出す。

「お供いたしますよ。ブルーの罪はわたしが償うと申しましたでしょう」
「いいえ、一人で参ります」
「女性の一人旅は危険です。護衛が必要でしょう」
「一人で行かせてください。わたしが留守の間、マチとチャコをお願いいたします」
「話していないのですか。小さなマドモアゼルたちに」
「ついてくると言って聞かないでしょうからね」

 肩を竦め、ヨネは笑う。ノアは困り果てた顔で肩を竦め、大きく嘆息した。

「小さなマドモアゼルたちに、なんと説明をすればよいのですか……。それをご教授いただけなければ、留守を預かることはできません」

 情けない嘆願に、ヨネは苦笑を漏らす。紳士然とした振る舞いは堂に入っているし女性のエスコートならばお手の物なのだろうが、子どもは苦手な様子だ。

 ヨネはしばし考え、二人に当てた手紙を書いた。しばらく留守にすること、その間の仕事、ヨネの不在中はノアが依頼を取り仕切ってくれること。それから、ノアにはなるべく親切にすること……。

 こんなものであの子たちが納得するとは思えないが、少なくともノアを責めたりはしないだろう。いや、八つ当たりくらいはするかもしれないが。

「では、行って参ります」
「どうぞお気をつけて。困ったことがあったら、わたしの名を呼ぶのですよ。マドモアゼルがお呼びなら、どこへでもはせ参じます」

 本気なのか冗談なのかわからない大仰な台詞に一応頷いて見せ、ヨネは出立した。

 駅前に向かう道をいつも通り歩いていく。風景は変わりない。街灯に照らされた並木道は月もない夜でも明るい。道沿いの塀にはつる薔薇が盛りで零れんばかりに咲いていた。

 すれ違う人はなく、街にはどことなくよそよそしい空気が流れていた。そろそろ大通りにさしかかる頃だけれど、行く先はいつまで経っても細い一本道だ。コンビニエンスストアさえなく、ずっと、ずっと同じような道が続いている。

 大丈夫。迷ってなんかいない。ヨネは手にした錘を見る。これを持てば、気の向くまま歩いていても必ず目的地に着く。ノアはそう言っていた。

 先日、萠衣のガーデン・シアターが終わったあと、ノアを引き留めて話をした。珍しく二人でお酒を飲んで、改めて確かめたのだ。

 ブルーをあの暗闇から救う方法を。

 本当は、一緒に生きたかった。すべてを思い出して、二人で寄り添って日々を送ることができたら。そう願っていた。

 だけど、それとは別の救いもあるのだと、ようやく気づいた。

「それでノアさん、ブルーを送るための服は、どのような素材を使えばよいのでしょう」
「必要な物はすでにお持ちですよ」

 観念したように、パイロット・ノアは教えてくれた。

「今まで体験した死を紡ぐのです。目を逸らさず、ありのままに」

 いつもお喋りなノアだけれど、その日はあまり喋らなかった。話し終えた後も何杯かお酒を飲んで、酔い潰れてソファーで眠ってしまった。

 翌日、ノアは錘を届けてくれた。それを持って、あとは出発すればわかると。

 彼のことは相変わらず好ましいとは思わない。だけど信用はしている。彼がそういうのなら、この道を進んでいくしかないのだろう。

 ずいぶん歩いた気がする。普段それほど歩かないものだから、ふくらはぎはもうパンパンだし、足の裏は痛いし、どうやら靴擦れもできたようだ。

 少し休みたいと思い、どこか座れるところはないかと辺りを見回していると、背後でくすりと笑う人がいた。

『だらしないよ、ヨネさん。運動習慣をつけたほうがいいんじゃない?』

 生意気な口調の若い女性の声だ。

 萠衣は最初に会ったときのジーンズにジャケット姿で、くるりとターンをして見せる。長い髪がふわりと流れた。改めて、美しい女性だと思った。顔の造作だけではない。立ち振る舞いが美しいのだ。優雅で、凜としていて、どこか張り詰めたような緊張感のある姿にため息が漏れる。

『ありがとう、ヨネさん。最期は愛する人に見送られて、幸せだったわ』

 萠衣はヨネに向けて微笑みかける。あの夜と同じ、穏やかな表情にほっとした。だけど、ふいに彼女は背を向け暗い声で呟き始める。

『……本当は死にたくなかったし、もっと踊りたかった。圭司には幸せになって欲しいけれど、他の誰かと家庭を築くなんて想像しただけでイライラする。そんな自分が嫌……』

 吐き出すように萠衣は言う。両手でくしゃりと髪をかき混ぜた。自分でもどうにもならない感情が噴出したように、萠衣は吐露する。

『どうしてわたしだったの。事故にさえ遭っていなかったら、バレエを続けていたのに。きっと圭司と別れることもなくて、橋から落ちることだって……』

 そうね。本当にそうね。ヨネは答えるけれど、こちらの声は届いていないようだった。

 萠衣は思いつくまま自分の不運に悪態をつき、地面を何度も蹴った。ヨネはどうしていいかわからず、ただ見守ることしかできない。

 あのとき、どんな思いでこの悔しさを、無念を封じ込めて微笑んだのだろう。

 強い、と一言に言ってはいけない気がする。人は、そんなにも他人に強さを求めてはいけないのだ。この人は強いからと、傷から目を背けていては。

 ふう、と大きなため息をついて、萠衣は振り返った。

『ごめんね。これはただの愚痴。感謝しているのは本当よ』

 だけど不満があるもの本当。萠衣は小さく呟く。

 当然だ。何もかも納得ずくのわけがない。

 萠衣の指先からするりと白い靄が這い出てきた。ヨネが錘を持ち上げると、それは吸い寄せられるように絡みつく。錘を回しながら、それを巻き取る。

 巻き取るたびに萠衣の姿は薄く透けていく。名残惜しく思いながらも、手を振る萠衣にさよならを告げ、最後の一巻きを絡め取った。

 糸を紡ぎ終わると、萠衣の姿は完全に消えた。辺りは先ほどよりも一層、暗かった。それでも道は街灯に照らされて迷うことはなさそうだ。

4 生きているうちに

 痛む足を宥めながら、さらに歩いていると、どこからか子どもの泣き声が聞こえた。

『ヨネちゃんはどうして急に会えなくなったの。千代が嫌いになったの』

 おかっぱ頭の、木綿の着物姿の女の子だ。赤いほっぺたが可愛い。だけど、あどけない顔に笑みはなく、めそめそと泣いている。

『お人形なんかいらない。ヨネちゃんに会いたい、会いたいよぉ』

 ヨゼフィーネの部屋にあったスリープアイの人形を胸に押しつけて、千代は泣いた。
 こんな思いをさせていたのかと思うと、胸が鬱ぐ。

 もう謝ることさえできない。お別れも言えなかった。
 年を取らない自分が世間とどう向き合うのか、あの頃にはまったくわからなかった。父と母の教えをすべて吸収しようと必死で、小さな友だちの悲しみまで頭が回らなかったのだ。

 なんて酷いことをしたのだろう。あんなに仲良くしてくれたのに。

 千代は泣きながら暗闇へと消えていく。追いかけようにも、足は冷たい地面にがっしりとつなぎ止められていて動けなかった。

 ほわりと目の前が明るくなる。いつの間にか、千代は年老いていた。ぺったりとちゃぶ台の前に座っている。海松茶色の着物に真っ白な割烹着はステロタイプな日本の母であった。馴染みのないヨネもなんとなく安堵を覚える姿だ。

『喜美江ちゃん、おばあちゃんにはね、外国人のお友だちがいたのよ。わたしよりだいぶお姉さんだったけれど、よく一緒に遊んでくれたのよ』

 老いた千代は目を細めて、喜美江と呼んだ少女を見つめる。中学生くらいだろうか、髪を一つに結わえていて少し日に焼けている。活発そうな子だ。

 千代は孫娘が可愛くて仕方がないといった様子だった。喜美江は寄り添い、頷きながら聞いている。

『わたしはお手玉をこさえてあげたんだよ。外国人のお嬢様にはつまらないおもちゃかもしれないけど』

 今も大事に持っている。可愛い端布をつなぎ合わせたお手玉は、ときどき取り出して気持ちを和ませてくれる宝物だ。

『急に会えなくなってしまってね。おうちに行っても会わせてもらえなかったんだよ。その代わりにって感じでお人形をくれてね。横にしたら目を閉じるお人形だった。当時はそんなハイカラなお人形持っている子はいなくて、とても珍しい物だったんだよ』

 人形は長い年月の中で失ってしまったのだろう。千代は寂しげに手のひらへ視線を落とす。

『お人形をもらってからはもう、遊びに行っちゃいけない気がしてね。これまでだって迷惑だったのかもしれないと思うと、悲しくなって。そのうち、わたしも家の手伝いが忙しくなったり、お嫁に行ったりで彼女のことを思い出すことも減って……』

 ふと軽くついたため息の中には、千代が送った人生の悲哀が込められている気がした。

『勇気を出して、会わせてくださいってお願いすればよかったねぇ……』

 慰めるように喜美江が千代の手を取る。

『ヨネちゃんはわたしのことなんかすぐに忘れちゃったんだろうね。寂しいねぇ』

 忘れてなんかいない。学校にも行けなかったヨゼフィーネは、千代の存在にどれだけ救われたか。

 なのに、こんなに寂しい思いをさせていたなんて。
 だけどもう、伝える術はない。

『喜美江ちゃん、大事なことは生きているうちにちゃんと言葉にするんだよ。恥ずかしがってはいけないよ』

 おばあちゃん、大好き。喜美江は千代に抱きつく。そして自分の行動に照れたのか、喉が渇いたからお茶を煎れると言って立ち上がり、そそくさとその場を離れた。千代は割烹着の袖口で涙を拭う。

 ふわりと千代の身体から白い綿のようなものが舞い上がる。半透明の羊のようなそれはじゃれて遊ぶように千代の周りを踊ったあと、するすると細く縒れていく。
 ヨネは錘を回し糸を絡め取る。ゆっくりと薄れていく千代は優しく微笑んで、こちらを見ているような気がした。

 この仕事が終わったら、喜美江とランチにでも行こう。そして、怪しまれても笑われてもいいから、好きだって言おう。彼女だけじゃない。関わりのある人たちすべてに、大切に思っていることを伝えるのだ。マチとチャコ、大好きなパン屋さんやケーキ屋さん。シンブル帽にも感謝を。それから……不本意だけれどノアにも。

 考えると恥ずかしくなって、ヨネは速歩に道を進んだ。足の痛みは麻痺してしまったのか、あまり感じなくなっていた。

 それからしばらく、道はずっと暗いままで誰も現れなかった。

 ヨネは身近な人の死をあまり体験していない。祖父母は両親の故国におり、写真と手紙でしか知らない。身体の弱いヨネは両親の故郷であるドイツには行ったことがなかった。

 同じ姿で長い年月を生きる。そのためには、ヨネは人々の記憶に長く留まることはできない。
 この街でテーラーを営み、暮らしていくなら必要なことだ。友人など作らないつもりでいた。どうせ忘れられてしまうのだ、関わるのは最低限でいい。

 それはとても寂しいことだと、今さらながらに気づかされる。

 遠い昔、痩せ衰えて醜い自分を見せたくないからと、千代に会うのを拒んだ。
 なんて浅はかで愚かだったのだろう。幼い女の子の胸に傷を残してまで守った些末なプライドのほうがよほど醜い。

 死の影を背負った姿で会えば、もしかしたら千代には別の傷を与えてしまったかもしれないけれど、それでも真実を知らぬまま別れるよりは。

 関わり、愛した分だけ失えば悲しい。だけどその悲しみを抱けないことこそ不幸なのだ。人は、年を経れば必ず誰かの死を経験するものだ。人は……。

 ああ、パイロット・ノアは、ヨネには死神になる資格があると言っていた。

 ――そうか、自分はもう人ではないのか。今さらながらに突きつけられる。

 ブルーを……死神を、愛したから。

 後悔などしていない。してたまるものか。

 喜美江もマチもチャコもいずれヨネの元を去るだろう。だからなんだと言うのだ。それは愛さない理由になどならない。

 これから先の未来が、愛しては失い続けるものだとしても。
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