28 / 35
第4章 縒り合わさったもの
§3§
しおりを挟む
熱もすっかり下がったある未明。
ヨネはいつもの黒いワンピースに薄手のトレンチコートを羽織り、小さな鞄を斜めにかけた。
中身は大好きなカカオの割合の高いチョコレート、最低限のお化粧道具や櫛が入っている。左手には錘を持つ。旅支度にしてはあまりに軽装だが、どのみち、荷物など必要のない旅だ。温泉に行くわけでも、ハイキングをするわけでもない。
マチとチャコを起こさないよう、ヨネは静かに門を出た。
連絡などした覚えはないのに、パイロット・ノアが門扉のところで待っていた。いつもの芝居がかった仕草で一礼をして、ヨネに手を差し出す。
「お供いたしますよ。ブルーの罪はわたしが償うと申しましたでしょう」
「いいえ、一人で参ります」
「女性の一人旅は危険です。護衛が必要でしょう」
「一人で行かせてください。わたしが留守の間、マチとチャコをお願いいたします」
「話していないのですか。小さなマドモアゼルたちに」
「ついてくると言って聞かないでしょうからね」
肩を竦め、ヨネは笑う。ノアは困り果てた顔で肩を竦め、大きく嘆息した。
「小さなマドモアゼルたちに、なんと説明をすればよいのですか……。それをご教授いただけなければ、留守を預かることはできません」
情けない嘆願に、ヨネは苦笑を漏らす。紳士然とした振る舞いは堂に入っているし女性のエスコートならばお手の物なのだろうが、子どもは苦手な様子だ。
ヨネはしばし考え、二人に当てた手紙を書いた。しばらく留守にすること、その間の仕事、ヨネの不在中はノアが依頼を取り仕切ってくれること。それから、ノアにはなるべく親切にすること……。
こんなものであの子たちが納得するとは思えないが、少なくともノアを責めたりはしないだろう。いや、八つ当たりくらいはするかもしれないが。
「では、行って参ります」
「どうぞお気をつけて。困ったことがあったら、わたしの名を呼ぶのですよ。マドモアゼルがお呼びなら、どこへでもはせ参じます」
本気なのか冗談なのかわからない大仰な台詞に一応頷いて見せ、ヨネは出立した。
駅前に向かう道をいつも通り歩いていく。風景は変わりない。街灯に照らされた並木道は月もない夜でも明るい。道沿いの塀にはつる薔薇が盛りで零れんばかりに咲いていた。
すれ違う人はなく、街にはどことなくよそよそしい空気が流れていた。そろそろ大通りにさしかかる頃だけれど、行く先はいつまで経っても細い一本道だ。コンビニエンスストアさえなく、ずっと、ずっと同じような道が続いている。
大丈夫。迷ってなんかいない。ヨネは手にした錘を見る。これを持てば、気の向くまま歩いていても必ず目的地に着く。ノアはそう言っていた。
先日、萠衣のガーデン・シアターが終わったあと、ノアを引き留めて話をした。珍しく二人でお酒を飲んで、改めて確かめたのだ。
ブルーをあの暗闇から救う方法を。
本当は、一緒に生きたかった。すべてを思い出して、二人で寄り添って日々を送ることができたら。そう願っていた。
だけど、それとは別の救いもあるのだと、ようやく気づいた。
「それでノアさん、ブルーを送るための服は、どのような素材を使えばよいのでしょう」
「必要な物はすでにお持ちですよ」
観念したように、パイロット・ノアは教えてくれた。
「今まで体験した死を紡ぐのです。目を逸らさず、ありのままに」
いつもお喋りなノアだけれど、その日はあまり喋らなかった。話し終えた後も何杯かお酒を飲んで、酔い潰れてソファーで眠ってしまった。
翌日、ノアは錘を届けてくれた。それを持って、あとは出発すればわかると。
彼のことは相変わらず好ましいとは思わない。だけど信用はしている。彼がそういうのなら、この道を進んでいくしかないのだろう。
ずいぶん歩いた気がする。普段それほど歩かないものだから、ふくらはぎはもうパンパンだし、足の裏は痛いし、どうやら靴擦れもできたようだ。
少し休みたいと思い、どこか座れるところはないかと辺りを見回していると、背後でくすりと笑う人がいた。
『だらしないよ、ヨネさん。運動習慣をつけたほうがいいんじゃない?』
生意気な口調の若い女性の声だ。
萠衣は最初に会ったときのジーンズにジャケット姿で、くるりとターンをして見せる。長い髪がふわりと流れた。改めて、美しい女性だと思った。顔の造作だけではない。立ち振る舞いが美しいのだ。優雅で、凜としていて、どこか張り詰めたような緊張感のある姿にため息が漏れる。
『ありがとう、ヨネさん。最期は愛する人に見送られて、幸せだったわ』
萠衣はヨネに向けて微笑みかける。あの夜と同じ、穏やかな表情にほっとした。だけど、ふいに彼女は背を向け暗い声で呟き始める。
『……本当は死にたくなかったし、もっと踊りたかった。圭司には幸せになって欲しいけれど、他の誰かと家庭を築くなんて想像しただけでイライラする。そんな自分が嫌……』
吐き出すように萠衣は言う。両手でくしゃりと髪をかき混ぜた。自分でもどうにもならない感情が噴出したように、萠衣は吐露する。
『どうしてわたしだったの。事故にさえ遭っていなかったら、バレエを続けていたのに。きっと圭司と別れることもなくて、橋から落ちることだって……』
そうね。本当にそうね。ヨネは答えるけれど、こちらの声は届いていないようだった。
萠衣は思いつくまま自分の不運に悪態をつき、地面を何度も蹴った。ヨネはどうしていいかわからず、ただ見守ることしかできない。
あのとき、どんな思いでこの悔しさを、無念を封じ込めて微笑んだのだろう。
強い、と一言に言ってはいけない気がする。人は、そんなにも他人に強さを求めてはいけないのだ。この人は強いからと、傷から目を背けていては。
ふう、と大きなため息をついて、萠衣は振り返った。
『ごめんね。これはただの愚痴。感謝しているのは本当よ』
だけど不満があるもの本当。萠衣は小さく呟く。
当然だ。何もかも納得ずくのわけがない。
萠衣の指先からするりと白い靄が這い出てきた。ヨネが錘を持ち上げると、それは吸い寄せられるように絡みつく。錘を回しながら、それを巻き取る。
巻き取るたびに萠衣の姿は薄く透けていく。名残惜しく思いながらも、手を振る萠衣にさよならを告げ、最後の一巻きを絡め取った。
糸を紡ぎ終わると、萠衣の姿は完全に消えた。辺りは先ほどよりも一層、暗かった。それでも道は街灯に照らされて迷うことはなさそうだ。
4 生きているうちに
痛む足を宥めながら、さらに歩いていると、どこからか子どもの泣き声が聞こえた。
『ヨネちゃんはどうして急に会えなくなったの。千代が嫌いになったの』
おかっぱ頭の、木綿の着物姿の女の子だ。赤いほっぺたが可愛い。だけど、あどけない顔に笑みはなく、めそめそと泣いている。
『お人形なんかいらない。ヨネちゃんに会いたい、会いたいよぉ』
ヨゼフィーネの部屋にあったスリープアイの人形を胸に押しつけて、千代は泣いた。
こんな思いをさせていたのかと思うと、胸が鬱ぐ。
もう謝ることさえできない。お別れも言えなかった。
年を取らない自分が世間とどう向き合うのか、あの頃にはまったくわからなかった。父と母の教えをすべて吸収しようと必死で、小さな友だちの悲しみまで頭が回らなかったのだ。
なんて酷いことをしたのだろう。あんなに仲良くしてくれたのに。
千代は泣きながら暗闇へと消えていく。追いかけようにも、足は冷たい地面にがっしりとつなぎ止められていて動けなかった。
ほわりと目の前が明るくなる。いつの間にか、千代は年老いていた。ぺったりとちゃぶ台の前に座っている。海松茶色の着物に真っ白な割烹着はステロタイプな日本の母であった。馴染みのないヨネもなんとなく安堵を覚える姿だ。
『喜美江ちゃん、おばあちゃんにはね、外国人のお友だちがいたのよ。わたしよりだいぶお姉さんだったけれど、よく一緒に遊んでくれたのよ』
老いた千代は目を細めて、喜美江と呼んだ少女を見つめる。中学生くらいだろうか、髪を一つに結わえていて少し日に焼けている。活発そうな子だ。
千代は孫娘が可愛くて仕方がないといった様子だった。喜美江は寄り添い、頷きながら聞いている。
『わたしはお手玉をこさえてあげたんだよ。外国人のお嬢様にはつまらないおもちゃかもしれないけど』
今も大事に持っている。可愛い端布をつなぎ合わせたお手玉は、ときどき取り出して気持ちを和ませてくれる宝物だ。
『急に会えなくなってしまってね。おうちに行っても会わせてもらえなかったんだよ。その代わりにって感じでお人形をくれてね。横にしたら目を閉じるお人形だった。当時はそんなハイカラなお人形持っている子はいなくて、とても珍しい物だったんだよ』
人形は長い年月の中で失ってしまったのだろう。千代は寂しげに手のひらへ視線を落とす。
『お人形をもらってからはもう、遊びに行っちゃいけない気がしてね。これまでだって迷惑だったのかもしれないと思うと、悲しくなって。そのうち、わたしも家の手伝いが忙しくなったり、お嫁に行ったりで彼女のことを思い出すことも減って……』
ふと軽くついたため息の中には、千代が送った人生の悲哀が込められている気がした。
『勇気を出して、会わせてくださいってお願いすればよかったねぇ……』
慰めるように喜美江が千代の手を取る。
『ヨネちゃんはわたしのことなんかすぐに忘れちゃったんだろうね。寂しいねぇ』
忘れてなんかいない。学校にも行けなかったヨゼフィーネは、千代の存在にどれだけ救われたか。
なのに、こんなに寂しい思いをさせていたなんて。
だけどもう、伝える術はない。
『喜美江ちゃん、大事なことは生きているうちにちゃんと言葉にするんだよ。恥ずかしがってはいけないよ』
おばあちゃん、大好き。喜美江は千代に抱きつく。そして自分の行動に照れたのか、喉が渇いたからお茶を煎れると言って立ち上がり、そそくさとその場を離れた。千代は割烹着の袖口で涙を拭う。
ふわりと千代の身体から白い綿のようなものが舞い上がる。半透明の羊のようなそれはじゃれて遊ぶように千代の周りを踊ったあと、するすると細く縒れていく。
ヨネは錘を回し糸を絡め取る。ゆっくりと薄れていく千代は優しく微笑んで、こちらを見ているような気がした。
この仕事が終わったら、喜美江とランチにでも行こう。そして、怪しまれても笑われてもいいから、好きだって言おう。彼女だけじゃない。関わりのある人たちすべてに、大切に思っていることを伝えるのだ。マチとチャコ、大好きなパン屋さんやケーキ屋さん。シンブル帽にも感謝を。それから……不本意だけれどノアにも。
考えると恥ずかしくなって、ヨネは速歩に道を進んだ。足の痛みは麻痺してしまったのか、あまり感じなくなっていた。
それからしばらく、道はずっと暗いままで誰も現れなかった。
ヨネは身近な人の死をあまり体験していない。祖父母は両親の故国におり、写真と手紙でしか知らない。身体の弱いヨネは両親の故郷であるドイツには行ったことがなかった。
同じ姿で長い年月を生きる。そのためには、ヨネは人々の記憶に長く留まることはできない。
この街でテーラーを営み、暮らしていくなら必要なことだ。友人など作らないつもりでいた。どうせ忘れられてしまうのだ、関わるのは最低限でいい。
それはとても寂しいことだと、今さらながらに気づかされる。
遠い昔、痩せ衰えて醜い自分を見せたくないからと、千代に会うのを拒んだ。
なんて浅はかで愚かだったのだろう。幼い女の子の胸に傷を残してまで守った些末なプライドのほうがよほど醜い。
死の影を背負った姿で会えば、もしかしたら千代には別の傷を与えてしまったかもしれないけれど、それでも真実を知らぬまま別れるよりは。
関わり、愛した分だけ失えば悲しい。だけどその悲しみを抱けないことこそ不幸なのだ。人は、年を経れば必ず誰かの死を経験するものだ。人は……。
ああ、パイロット・ノアは、ヨネには死神になる資格があると言っていた。
――そうか、自分はもう人ではないのか。今さらながらに突きつけられる。
ブルーを……死神を、愛したから。
後悔などしていない。してたまるものか。
喜美江もマチもチャコもいずれヨネの元を去るだろう。だからなんだと言うのだ。それは愛さない理由になどならない。
これから先の未来が、愛しては失い続けるものだとしても。
ヨネはいつもの黒いワンピースに薄手のトレンチコートを羽織り、小さな鞄を斜めにかけた。
中身は大好きなカカオの割合の高いチョコレート、最低限のお化粧道具や櫛が入っている。左手には錘を持つ。旅支度にしてはあまりに軽装だが、どのみち、荷物など必要のない旅だ。温泉に行くわけでも、ハイキングをするわけでもない。
マチとチャコを起こさないよう、ヨネは静かに門を出た。
連絡などした覚えはないのに、パイロット・ノアが門扉のところで待っていた。いつもの芝居がかった仕草で一礼をして、ヨネに手を差し出す。
「お供いたしますよ。ブルーの罪はわたしが償うと申しましたでしょう」
「いいえ、一人で参ります」
「女性の一人旅は危険です。護衛が必要でしょう」
「一人で行かせてください。わたしが留守の間、マチとチャコをお願いいたします」
「話していないのですか。小さなマドモアゼルたちに」
「ついてくると言って聞かないでしょうからね」
肩を竦め、ヨネは笑う。ノアは困り果てた顔で肩を竦め、大きく嘆息した。
「小さなマドモアゼルたちに、なんと説明をすればよいのですか……。それをご教授いただけなければ、留守を預かることはできません」
情けない嘆願に、ヨネは苦笑を漏らす。紳士然とした振る舞いは堂に入っているし女性のエスコートならばお手の物なのだろうが、子どもは苦手な様子だ。
ヨネはしばし考え、二人に当てた手紙を書いた。しばらく留守にすること、その間の仕事、ヨネの不在中はノアが依頼を取り仕切ってくれること。それから、ノアにはなるべく親切にすること……。
こんなものであの子たちが納得するとは思えないが、少なくともノアを責めたりはしないだろう。いや、八つ当たりくらいはするかもしれないが。
「では、行って参ります」
「どうぞお気をつけて。困ったことがあったら、わたしの名を呼ぶのですよ。マドモアゼルがお呼びなら、どこへでもはせ参じます」
本気なのか冗談なのかわからない大仰な台詞に一応頷いて見せ、ヨネは出立した。
駅前に向かう道をいつも通り歩いていく。風景は変わりない。街灯に照らされた並木道は月もない夜でも明るい。道沿いの塀にはつる薔薇が盛りで零れんばかりに咲いていた。
すれ違う人はなく、街にはどことなくよそよそしい空気が流れていた。そろそろ大通りにさしかかる頃だけれど、行く先はいつまで経っても細い一本道だ。コンビニエンスストアさえなく、ずっと、ずっと同じような道が続いている。
大丈夫。迷ってなんかいない。ヨネは手にした錘を見る。これを持てば、気の向くまま歩いていても必ず目的地に着く。ノアはそう言っていた。
先日、萠衣のガーデン・シアターが終わったあと、ノアを引き留めて話をした。珍しく二人でお酒を飲んで、改めて確かめたのだ。
ブルーをあの暗闇から救う方法を。
本当は、一緒に生きたかった。すべてを思い出して、二人で寄り添って日々を送ることができたら。そう願っていた。
だけど、それとは別の救いもあるのだと、ようやく気づいた。
「それでノアさん、ブルーを送るための服は、どのような素材を使えばよいのでしょう」
「必要な物はすでにお持ちですよ」
観念したように、パイロット・ノアは教えてくれた。
「今まで体験した死を紡ぐのです。目を逸らさず、ありのままに」
いつもお喋りなノアだけれど、その日はあまり喋らなかった。話し終えた後も何杯かお酒を飲んで、酔い潰れてソファーで眠ってしまった。
翌日、ノアは錘を届けてくれた。それを持って、あとは出発すればわかると。
彼のことは相変わらず好ましいとは思わない。だけど信用はしている。彼がそういうのなら、この道を進んでいくしかないのだろう。
ずいぶん歩いた気がする。普段それほど歩かないものだから、ふくらはぎはもうパンパンだし、足の裏は痛いし、どうやら靴擦れもできたようだ。
少し休みたいと思い、どこか座れるところはないかと辺りを見回していると、背後でくすりと笑う人がいた。
『だらしないよ、ヨネさん。運動習慣をつけたほうがいいんじゃない?』
生意気な口調の若い女性の声だ。
萠衣は最初に会ったときのジーンズにジャケット姿で、くるりとターンをして見せる。長い髪がふわりと流れた。改めて、美しい女性だと思った。顔の造作だけではない。立ち振る舞いが美しいのだ。優雅で、凜としていて、どこか張り詰めたような緊張感のある姿にため息が漏れる。
『ありがとう、ヨネさん。最期は愛する人に見送られて、幸せだったわ』
萠衣はヨネに向けて微笑みかける。あの夜と同じ、穏やかな表情にほっとした。だけど、ふいに彼女は背を向け暗い声で呟き始める。
『……本当は死にたくなかったし、もっと踊りたかった。圭司には幸せになって欲しいけれど、他の誰かと家庭を築くなんて想像しただけでイライラする。そんな自分が嫌……』
吐き出すように萠衣は言う。両手でくしゃりと髪をかき混ぜた。自分でもどうにもならない感情が噴出したように、萠衣は吐露する。
『どうしてわたしだったの。事故にさえ遭っていなかったら、バレエを続けていたのに。きっと圭司と別れることもなくて、橋から落ちることだって……』
そうね。本当にそうね。ヨネは答えるけれど、こちらの声は届いていないようだった。
萠衣は思いつくまま自分の不運に悪態をつき、地面を何度も蹴った。ヨネはどうしていいかわからず、ただ見守ることしかできない。
あのとき、どんな思いでこの悔しさを、無念を封じ込めて微笑んだのだろう。
強い、と一言に言ってはいけない気がする。人は、そんなにも他人に強さを求めてはいけないのだ。この人は強いからと、傷から目を背けていては。
ふう、と大きなため息をついて、萠衣は振り返った。
『ごめんね。これはただの愚痴。感謝しているのは本当よ』
だけど不満があるもの本当。萠衣は小さく呟く。
当然だ。何もかも納得ずくのわけがない。
萠衣の指先からするりと白い靄が這い出てきた。ヨネが錘を持ち上げると、それは吸い寄せられるように絡みつく。錘を回しながら、それを巻き取る。
巻き取るたびに萠衣の姿は薄く透けていく。名残惜しく思いながらも、手を振る萠衣にさよならを告げ、最後の一巻きを絡め取った。
糸を紡ぎ終わると、萠衣の姿は完全に消えた。辺りは先ほどよりも一層、暗かった。それでも道は街灯に照らされて迷うことはなさそうだ。
4 生きているうちに
痛む足を宥めながら、さらに歩いていると、どこからか子どもの泣き声が聞こえた。
『ヨネちゃんはどうして急に会えなくなったの。千代が嫌いになったの』
おかっぱ頭の、木綿の着物姿の女の子だ。赤いほっぺたが可愛い。だけど、あどけない顔に笑みはなく、めそめそと泣いている。
『お人形なんかいらない。ヨネちゃんに会いたい、会いたいよぉ』
ヨゼフィーネの部屋にあったスリープアイの人形を胸に押しつけて、千代は泣いた。
こんな思いをさせていたのかと思うと、胸が鬱ぐ。
もう謝ることさえできない。お別れも言えなかった。
年を取らない自分が世間とどう向き合うのか、あの頃にはまったくわからなかった。父と母の教えをすべて吸収しようと必死で、小さな友だちの悲しみまで頭が回らなかったのだ。
なんて酷いことをしたのだろう。あんなに仲良くしてくれたのに。
千代は泣きながら暗闇へと消えていく。追いかけようにも、足は冷たい地面にがっしりとつなぎ止められていて動けなかった。
ほわりと目の前が明るくなる。いつの間にか、千代は年老いていた。ぺったりとちゃぶ台の前に座っている。海松茶色の着物に真っ白な割烹着はステロタイプな日本の母であった。馴染みのないヨネもなんとなく安堵を覚える姿だ。
『喜美江ちゃん、おばあちゃんにはね、外国人のお友だちがいたのよ。わたしよりだいぶお姉さんだったけれど、よく一緒に遊んでくれたのよ』
老いた千代は目を細めて、喜美江と呼んだ少女を見つめる。中学生くらいだろうか、髪を一つに結わえていて少し日に焼けている。活発そうな子だ。
千代は孫娘が可愛くて仕方がないといった様子だった。喜美江は寄り添い、頷きながら聞いている。
『わたしはお手玉をこさえてあげたんだよ。外国人のお嬢様にはつまらないおもちゃかもしれないけど』
今も大事に持っている。可愛い端布をつなぎ合わせたお手玉は、ときどき取り出して気持ちを和ませてくれる宝物だ。
『急に会えなくなってしまってね。おうちに行っても会わせてもらえなかったんだよ。その代わりにって感じでお人形をくれてね。横にしたら目を閉じるお人形だった。当時はそんなハイカラなお人形持っている子はいなくて、とても珍しい物だったんだよ』
人形は長い年月の中で失ってしまったのだろう。千代は寂しげに手のひらへ視線を落とす。
『お人形をもらってからはもう、遊びに行っちゃいけない気がしてね。これまでだって迷惑だったのかもしれないと思うと、悲しくなって。そのうち、わたしも家の手伝いが忙しくなったり、お嫁に行ったりで彼女のことを思い出すことも減って……』
ふと軽くついたため息の中には、千代が送った人生の悲哀が込められている気がした。
『勇気を出して、会わせてくださいってお願いすればよかったねぇ……』
慰めるように喜美江が千代の手を取る。
『ヨネちゃんはわたしのことなんかすぐに忘れちゃったんだろうね。寂しいねぇ』
忘れてなんかいない。学校にも行けなかったヨゼフィーネは、千代の存在にどれだけ救われたか。
なのに、こんなに寂しい思いをさせていたなんて。
だけどもう、伝える術はない。
『喜美江ちゃん、大事なことは生きているうちにちゃんと言葉にするんだよ。恥ずかしがってはいけないよ』
おばあちゃん、大好き。喜美江は千代に抱きつく。そして自分の行動に照れたのか、喉が渇いたからお茶を煎れると言って立ち上がり、そそくさとその場を離れた。千代は割烹着の袖口で涙を拭う。
ふわりと千代の身体から白い綿のようなものが舞い上がる。半透明の羊のようなそれはじゃれて遊ぶように千代の周りを踊ったあと、するすると細く縒れていく。
ヨネは錘を回し糸を絡め取る。ゆっくりと薄れていく千代は優しく微笑んで、こちらを見ているような気がした。
この仕事が終わったら、喜美江とランチにでも行こう。そして、怪しまれても笑われてもいいから、好きだって言おう。彼女だけじゃない。関わりのある人たちすべてに、大切に思っていることを伝えるのだ。マチとチャコ、大好きなパン屋さんやケーキ屋さん。シンブル帽にも感謝を。それから……不本意だけれどノアにも。
考えると恥ずかしくなって、ヨネは速歩に道を進んだ。足の痛みは麻痺してしまったのか、あまり感じなくなっていた。
それからしばらく、道はずっと暗いままで誰も現れなかった。
ヨネは身近な人の死をあまり体験していない。祖父母は両親の故国におり、写真と手紙でしか知らない。身体の弱いヨネは両親の故郷であるドイツには行ったことがなかった。
同じ姿で長い年月を生きる。そのためには、ヨネは人々の記憶に長く留まることはできない。
この街でテーラーを営み、暮らしていくなら必要なことだ。友人など作らないつもりでいた。どうせ忘れられてしまうのだ、関わるのは最低限でいい。
それはとても寂しいことだと、今さらながらに気づかされる。
遠い昔、痩せ衰えて醜い自分を見せたくないからと、千代に会うのを拒んだ。
なんて浅はかで愚かだったのだろう。幼い女の子の胸に傷を残してまで守った些末なプライドのほうがよほど醜い。
死の影を背負った姿で会えば、もしかしたら千代には別の傷を与えてしまったかもしれないけれど、それでも真実を知らぬまま別れるよりは。
関わり、愛した分だけ失えば悲しい。だけどその悲しみを抱けないことこそ不幸なのだ。人は、年を経れば必ず誰かの死を経験するものだ。人は……。
ああ、パイロット・ノアは、ヨネには死神になる資格があると言っていた。
――そうか、自分はもう人ではないのか。今さらながらに突きつけられる。
ブルーを……死神を、愛したから。
後悔などしていない。してたまるものか。
喜美江もマチもチャコもいずれヨネの元を去るだろう。だからなんだと言うのだ。それは愛さない理由になどならない。
これから先の未来が、愛しては失い続けるものだとしても。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
とべない天狗とひなの旅
ちはやれいめい
歴史・時代
人間嫌いで悪行の限りを尽してきた天狗、フェノエレーゼ。
主君サルタヒコの怒りを買い、翼を封じられ人里に落とされてしまう。
「心から人間に寄り添い助けろ。これ以上悪さをすると天狗に戻れなくなるぞ」
とべなくなったフェノエレーゼの事情を知って、人里の童女ヒナが、旅についてきた。
人間嫌いの偏屈天狗と、天真爛漫な幼女。
翼を取り戻すため善行を積む旅、はじまりはじまり。
絵・文 ちはやれいめい
https://mypage.syosetu.com/487329/
フェノエレーゼデザイン トトさん
https://mypage.syosetu.com/432625/
ユメ/うつつ
hana4
ライト文芸
例えばここからが本編だったとしたら、プロローグにも満たない俺らはきっと短く纏められて、誰かの些細な回想シーンの一部でしかないのかもしれない。
もし俺の人生が誰かの創作物だったなら、この記憶も全部、比喩表現なのだろう。
それかこれが夢であるのならば、いつまでも醒めないままでいたかった。
秘密部 〜人々のひみつ〜
ベアりんぐ
ライト文芸
ただひたすらに過ぎてゆく日常の中で、ある出会いが、ある言葉が、いままで見てきた世界を、変えることがある。ある日一つのミスから生まれた出会いから、変な部活動に入ることになり?………ただ漠然と生きていた高校生、相葉真也の「普通」の日常が変わっていく!!非日常系日常物語、開幕です。
01
十七歳の心模様
須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。
喫茶うたたねの魔法
如月つばさ
ライト文芸
幼い頃から幽霊が見えるせいで周りとうまく馴染めない鷹取敦士が、唯一心休まる場所。
それは福井県・綾瀬の森公園の片隅にひっそりと佇む『喫茶うたたね』だった。
マスターのシンさんと、店を訪れる客。季節ごとに美しい色を魅せる綾瀬の森公園で出会う人々。
悲しみや寂しさを抱えつつも、自分の居場所、心の在処を探していく物語。
※福井県のとある場所をモデルとしたフィクションです。
登場人物・建物・名称・その他詳細等は事実と異なります。
月曜日の方違さんは、たどりつけない
猫村まぬる
ライト文芸
「わたし、月曜日にはぜったいにまっすぐにたどりつけないの」
寝坊、迷子、自然災害、ありえない街、多元世界、時空移動、シロクマ……。
クラスメイトの方違くるりさんはちょっと内気で小柄な、ごく普通の女子高校生。だけどなぜか、月曜日には目的地にたどりつけない。そしてそんな方違さんと出会ってしまった、クラスメイトの「僕」、苗村まもる。二人は月曜日のトラブルをいっしょに乗り越えるうちに、だんだん互いに特別な存在になってゆく。日本のどこかの山間の田舎町を舞台にした、一年十二か月の物語。
第7回ライト文芸大賞で奨励賞をいただきました。ありがとうございます、
お飾り王妃の死後~王の後悔~
ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。
王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。
ウィルベルト王国では周知の事実だった。
しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。
最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。
小説家になろう様にも投稿しています。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる