青い死神に似合う服

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第4章 縒り合わさったもの

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第4章 縒り合わさったもの

 零時過ぎ、濃いお茶を深い時間に飲むのはよくないとわかってはいるけれど、気分には逆らわない主義だ。
 マチやチャコは独特の薫香を嫌って飲まないラプサン・スーチョンを煎れ、こっそり食べようと隠しておいたラム酒をたっぷりと含んだドライフルーツが鏤められたケーキを出した。
 ほんの一口でもどっしりと重く、そして甘かった。ヨネは抽斗の奥からとっておきのビターチョコレートも取り出す。美容のことなど知ったことか。

 ありがたいことに仕事は途切れずに入ってきていた。ノアの紹介だけではなく、噂を聞いたとやってくるお客様もいる。忙しいのは幸いなことだった。

 しかし、休息も充分に取らなければ。いくら死なない身体であっても、不眠不休では働けない。

 幸い、魔女の時間の中にいれば、たっぷりと休むことができた。ここは時間の流れが違うから、いくら怠けても現実の時間は進んでいない。

 のんびりと真夜中のお茶を楽しんでいると、不意に足元に何かが忍び寄る気配がした。

 ひんやりとした感触が素肌に触れる。ヨネはそれにそっと手を伸ばした。
 黒いタールのようなものが糸状に伸び、ヨネの足首に絡みついている。

 ここは魔女の時間。誰にも邪魔されない特別な空間のはずだった。こんなものが現れた試しはない。

 数日前までは。

「困った人ですわね」

 くすりと笑いながら声をかけると、黒い糸はするするとヨネの身体を這い上がってくる。触れられるたび、ドライアイスにうっかり触れたときのような痛みが走る。

 このところ、毎日のようにやってくる。最初は部屋の隅で様子を見ているだけだった。二日目には床中を這い回っていた。三日目には、ヨネの周囲を取り囲んでいた。

 恐ろしいとは思わない。自分に興味を示していることを嬉しくさえ思ったのだ。

 これはブルーのなれの果てだ。青い夜の公園から漏れ出した彼の孤独と悲しみだ。そう思うと無下にはできない。

 魔女が「時間がない」と言っていたのはこういうことだろう。公園の中には留まり切れないブルーの苦悩が、外界にも溢れ出しているのだ。本人の意志をは無関係に。魔女の時間の中ならばまだいい。だけど、現実の世界にまで及んでは。

 これは自分と親しいものだ。生きとし生けるものの世界からはみ出した存在。ヨネも絶望の果てにはこうなってしまうのかもしれない。

 黒い糸はヨネの足に絡みついて、ぐいぐいと引っ張る。どこかに連れていこうとするみたいに。

「もう少しお待ちになって。お茶をもう一杯飲んでから……」

 少し醒めた紅茶をカップに注ぎ、ドライフルーツのケーキをもう一切れ皿に出した。バターの風味が効いた生地とお酒が染みたレーズンやアプリコットは鼻がつんとするほど甘く、出過ぎた紅茶は頬がきゅっとしぼむくらい苦い。

 ゆっくりと味わいながら、這い上がる黒い糸を肌に感じていた。肉の薄いふくらはぎや手首をらせん状に絡みついてくる。襟から胸元へのそれは忍び寄る。身体中が冷えていく。

 カップを持つ指にも、ケーキを咀嚼する唇にも、それは這い回る。ついにはカップは手から離れ、ヨネのスカートを汚して床に落ちた。取っ手が割れ、カラリと転がる。染みになってしまう……そう思いながらも、もうヨネの身体は自由には動かなかった。

 そんなに焦らなくても、逃げたりしないわ……ブルー。

 心の中で呟く。すでに口の中にも黒い糸は侵入し、呼吸を塞ぐ。目の前が暗くなる。
 黒い糸に身を委ねながら、ゆっくりと意識は奪われていった。



 気がつくと、夜の公園にいた。黒い糸はもう絡みついていないけれど、身体は冷えたままで、肌は凍傷にかかったのか変色し、感覚があまりなかった。

 乱れた髪を手で簡単に整え、スカートの裾を直す。それから、陰鬱な風景に視線を巡らせた。

 この間見たときよりも、荒廃は進んでいた。空気は澱み、少し歩いただけでも息が上がる。黒い地面が不穏に波打ち、空には黒い雲が恐ろしい速さで流れていた。

 そばにブルーがいる。少しずつ近づいてくる……それがわかった。ヨネはじっとその場に佇み、待った。

 やがて目の前の泥が盛り上がり、頭部が現れる。髪の毛には朽ち果てた草花の残骸が絡みついていた。以前見たときよりもひどい有様だ。

「君か……もうこないでって言っただろう」

 戸惑いを含んだ声だった。黒い地面から顔を出し、汚れた髪の隙間から青い目でじっとヨネを見つめている。

「ここは危ないよ。とても。最近、荒れているんだ。どうしてだかわからないけど」
「ええ、そうみたいですわね」

 あなたが連れてきたのじゃない。そう言っても詮ないこととわかっていたから、口には出さなかった。あの黒い糸は確かにブルーだけれど、もう彼の元を離れて自由に動き回るのだ。

「落ち着いているね。怖くはないの?」
「怖くはないわ」

 だって、どんな姿になったとしても、ブルーだもの。あなたの花嫁になるって、決心したのよ。

 心の奥底に閉じ込めていた少女が顔を出す。夢を見ていた、愚かな少女が。

 懐かしい恋心。何も知らずに幸せな未来を思い描いていた。胸がさざ波を立てる。もうこんなことはずっと、ずっと長い間なかった。締めつけるような甘い痛みにヨネはそっと胸に手を引き寄せる。

「……なんだか、僕もおかしいんだ。この間、君と会ってから」

 黒いタールまみれの手で、頭を抱える。肘のあたりからトロトロと黒い粘液が垂れている。思わずくすりと笑いが漏れた。

「……どうして笑っているの? 僕、やっぱり変かな」
「いいえ」

 おかしくて笑っているわけではない。こんな姿になってさえ、ブルーを愛おしいと感じてしまう。それに安堵したのだ。自分の愛は偽りではなかったと。

「どこがおかしいのですか。よかったらわたしに教えてくださいませんか」
「うーん……。うまく説明できないけれど、ざわざわするんだ。身体中が熱くて、落ち着かない気分で……じっとしていられない」

 話しながらも、ブルーはそわそわとしていた。髪をいじったり鼻を撫でたり、沈んでは浮き上がったり。確かにこの間会ったときとは違う。

「ダメだ……」

 やがて低く呟いたあと、汚れた髪の隙間からヨネを見つめてきた。

「やっぱり、ダメだよ。君と話していると僕はおかしいんだ。だから帰って、もうこないで。僕にはやることがあるから……じゃあね」

 忘却の彼方の罪と向き合わなければいけないから。

 そんなことはもうしなくていいと叫びたかった。あなたは病気の娘に同情し、夢を叶えただけなのだ。何も、罪など犯していないのだと。

 ……叫んだところで、届きはしない。こんなに近くにいるのに。

「そう……ですわね」

 ヨネの答えを聞いたあと、少しだけ名残惜しそうに伸び上がったあと、とぷん、と音を立ててブルーは泥濘に沈んでいった。

 やっぱり、彼自身の意志とは無関係なのだ。この黒い糸は。彼と話しているうちにも、それはヨネの足に絡みついていた。

 行くな、帰るなと言わんばかりに。まるで母を恋しがる幼子のようだ。そんなふうに思うと愛おしさがこみ上げてくる。ブルーから生まれたならば、この悲しみの糸は彼の子だ。

 そう思い、身を委ねていた。もしかしたらこの黒い糸に取り込まれたら、ずっとブルーと一緒にいられるのかしら。

 恋の罪と痛みにたゆたいながら、永遠にブルーとこの暗い泥濘を漂い続けるのなら。

 それでもいい。彼に罪があるのならば、自分も同じだけの罰を受けるべきだ。
 沈んでいく。ずぶずぶと粘性の液体にゆっくりと身体が浸っていく。

 混濁した意識の中、ヨネは遠い昔の夢を見ていた。

 丘の上には青い花が咲き乱れている。デルフィニウム、ネモフィラ、勿忘草、サルビア、露草、他にも名も知らぬ花で埋め尽くされている。空は澄んだ藍色、白く輝く月が昇っている。星は明るく瞬き、風は優しく肌を撫でていく。

 丘には一本の道があった。ヨネはふらふらと何かに導かれるようにその道を歩いた。ふと両隣に気配を感じて視線を巡らせると、見知った人がいた。

 父と母だ。ヨネが少女の頃の若い姿で、正装をしていた。両親はヨネの姿を見て、顔を綻ばせる。ふと自分の足元を見ると、真っ白なレースの裾が見えた。

 ああ、ウエディングドレスだ。柔らかなドレープがたくさん入った、クラシカルで可憐なシルエット。視界が霞むのは、頭からヴェールを被っているせい。ブーケは青い花の濃淡でまとめられていた。

 ヴェールガールはマチとチャコ、それから千代もいた。妖精のようなドレスを着て、澄ました顔でヴェールの裾を摘まんでいる。

 父と母にエスコートされて、ヨネは一本道を歩いた。丘の上に建つ硝子で出来た小さなチャペルは、澄んだ鐘の音を響かせていた。

 中は光が降り注ぎ、昼間のように明るい。参列者の中には喜美江の姿があった。それから萠衣と圭司。次はあなたたちの番ね。そう思ってヨネは彼らに目配せをした。

 祭壇の前には花婿が待っていた。背の高いシルエットに鼓動が速くなる。

 ブルーはフロックコートを着て、胸には一輪の青い薔薇を刺していた。遠目からも、面映ゆそうに微笑んでいるのがわかる。

 両親の手を離れ、差し出されたブルーの腕を取った。胸に灯火が小さく、だけど確かに燃ゆる。ブルーは神妙な顔で一歩一歩、ヨネを気遣うようにゆっくりと進む。

 神父はバイロット・ノアだ。いつも通り王子様のような優雅な笑みを湛えている。

 この人も祝福してくれるのか。安堵が胸に満ちる。今まで煙たがって申し訳なかった。

 たくさんの人に祝福されるというのは、こんなにも満ち足りた気持ちになるのか。

 ノアは誓いの言葉をブルーに促す。病めるときも健やかなるときも……反響するノアの声に、ブルーは厳かに応える。次はヨネの番だ。高鳴る胸の鼓動を宥めて、ヨネは神妙にうつむいて待っていた。

 だけどノアはいつまで経ってもヨネに問いかけてくれない。

 どうしたのかしら。忘れてしまったの。それとも、やはりブルーとの結婚を祝ってはくれないのかしら。

 鐘の音は鳴る。光は降り注ぐ。ブルーは微笑んで、包み込むようにヨネを見つめている。

「マドモアゼル……、ヨネ、ヨゼフィーネ!」

 久しぶりにその名で呼ばれた。軽く頬を叩かれ、煩わしくてそれを払う。

 起こさないで。幸せな夢を見ているのに。

「ヨゼフィーネ! 起きなさい! ブルーを救うのでしょう!」

 ブルー……を、救う? どうして。ブルーは隣にいる。今、永遠の愛を誓うところ。
 突然、パンッという音と共に頬に痛みが走った。

「っ……」

 目を開けると、額に汗を滲ませたノアの顔があった。頬がじんじんと熱い。

「ノアさん……」
「ああ、よかった。ご無事で……」

 ノアはまた微睡みに呑まれそうになるヨネを抱き上げる。彼が触れると、ヨネを浸食していた黒い影は渋々といった様子で引いていった。

「ここにいてはいけません。あなたまで取り込まれてしまいますよ」

 それでもかまわない。そんな言葉が喉元までせり上がった。だけど声にはならず、ヨネは微笑む。

「ヨゼフィーネ……?」

 一旦姿を消したブルーが、頭を少しだけ出して呟く。

「ねぇ、そこの帽子の人。ヨゼフィーネって誰?」
「あなたには関係のない方ですよ」

 冷ややかな声でノアは告げる。そして、ブルーから目を逸らし、ヨネを腕に抱いたまま歩き出した。

 ブルーはヨゼフィーネの名前を呟き続ける。わずかにでも心にひっかかるのだろうか。

 それは、完全に記憶が無に帰すよりも残酷だ。わけがわからないまま、囚われてしまう。

 痛ましさに胸が鬱ぐ。わからないということは、存外に不幸なことなのだ。彼は自分が何者かも、何をしてきたのかも、どうしてあの陰鬱な公園で冷たい泥の中に沈んでいるのかも、わからないのだ。
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