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第2章 泣き虫の死神ブルー
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ヨゼフィーネから病魔は去ったが、老いることもなく死ぬこともないヨゼフィーネが人間の世界で普通に生きていくことは叶わない。人目を忍んで、これからの生き方を考える必要があった。
ヨゼフィーネは父から仕立て屋としての手ほどきを受けた。一人で紳士物のスーツやシャツを仕上げるまでには何年もかかった。
仕事となると父は厳しかった。病気の頃は優しい顔しか見たことなかったから、新鮮だった。母からは生活全般のことを学んだ。同じく母も厳しかった。思えば、老いることなく生きていくヨゼフィーネが困らないよう、なるべく多くのことを教えようとしてくれたのだろう。
やがて両親は老い、逝った。寂しくて悲しくて堪らなかったけれど、両親を見送ることができたのは誇らしい気持ちにもなった。
そんな日がくるなんて、病に伏していた頃は想像もできなかった。自分が先に死ぬのだと思っていたから。時と共に悲しみの激情が去ると、子としての務めを少しは果たせたのだと安堵も覚えた。
死神スノーの手引きで、ヨゼフィーネが仕立て屋を始めたのは百年ほど前。日本では元号が明治から大正に変わる頃だった。
海辺の居留地にあった店を引き払い、自宅を店として改装した。本当は父の店をそのまま継ぎたかったけれど、人通りの多すぎる場所ではヨゼフィーネが店を営むには不向きだとスノーに助言されたのだ。
ブルーを奪った彼のことを恨んでいた。憎らしいと思っていた。だけど、ヨゼフィーネがどれほど嫌おうと、スノーは常に紳士的に接してきて、この世で生きる術を教えてくれた。
そうして、好きにはなれないものの、信用に足る人物だとは思うようにはなっていた。
今思えば、彼も死神なのだ。何か、やむにやまれぬ事情があって、人間の世界を逸脱してしまった一人だということだ。
彼はヨゼフィーネのために尽力を惜しまなかった。普通のテーラーではなく、もっと特別な服を扱う店にしてはどうかと提案したのは彼だ。
例えば、人ならざる者の依頼も受けるだとか。客の願望を叶える服を仕立てるだとか。それならば、本当に必要としている者にしか辿り着けない店にするといい、そのためには、妖精の国で育った木で看板を作るのだ、とか。
それから、人間との関わり方も教わった。老いることも死ぬこともない人間はいない。数年もすれば、不自然だと気づく人間もいるだろう。
住処を変えるという手もあるが、店を構えるには不便だろう。スノーが提案したのは『適度に忘れられる』ことだった。ヨネと関わった人間は、数年でヨネのことを忘れてしまう。
忘れんぼうの羊からできた布で、ヨネはスタンドカラーの黒いワンピースを縫って、それを制服のように着ることにした。お下げ髪はやめて、動きやすいようにシニョンにまとめた。
ヨゼフィーネは寺田ヨネと名乗り、店の名はテーラー・ヨネとした。スノーからの紹介で、普通の布だけではなく不思議な力を持つ布を仕入れた。そして、彼の仲介でやってきた様々な客……例えば、一つ目のタイタンの紳士や人魚の娘などがやってきて、彼らの望む衣装を提供した。
そうして、ヨネはたくさんの服を縫ってきた。
スノーは人の世界を気に入ったのか、副業だと言って水先案内人を始め、パイロット・ノアと名乗った。
何でも望むものを案内すると言った。だからヨネは、彼にブルーを救う方法を依頼した。
彼の報告はいつもノーだ。本当に見つからないのか、それとも隠しているのか、わからない。それでも、繰り返し依頼した。
方法が皆無だとは思わない。……思いたく、ない。
何度も依頼するうち、ノアの報告を虚偽だと疑う気持ちは薄れていった。
ノアはブルーのことを怒っているけれど、それは憎しみからではない。それが、長いつき合いのうちにわかったから。
想像していた未来とは違っていた。ブルーはそばにいなかった。だけど、仕立て屋になる夢は叶った。
苦しいときもあるけれど、服を縫うのは楽しかった。望み通りの服を手に入れて幸せそうな客を見ると、ヨネも満たされた気持ちになった。
今は、死んでしまったバレエ・ダンサーために服を縫っている。萠衣の死因と本当の望みをようやく聞き出すことができた。辛い話をさせてしまったけれど、自分が何を縫うべきかわかった。これで満足のいく物ができるはずだ。
方針が決まったところで、ヨネは久しぶりに青い公園を訪れたのだ。
本当に久しぶりだ。ブルーが消えてからは、しばらくは何度もきてみた。一人でも簡単に行き来できたけれど、愛しい人の姿はどこにもなかった。
荒れ果てた公園に絶望するばかりだった。それでもブルーの痕跡を求めて公園を彷徨い、その度に泣いた。
それを見かねたのか、ノアは公園に行くことを禁止した。いつになく厳しい態度で言いつけるノアの言葉に、少しだけほっとした。
自分の意志でやめることに罪悪感があったから。情けなくて悲しかったけれど、ヨネはノアに従った。
だけど、萠衣に現実と向き合うことを促した手前、いつまでも目を逸らしているわけにはいかないと思ったのだ。
魔女の言葉も気になっていた。ショックを受けるかもしれないと。それから、時間がないとも言っていた。
美しかった思い出の公園は、ぞっとするような冷たい世界に変わり果てていた。確かに、胸が潰れるようなショッキングな光景だ。
花は死んでいた。水は濁り、月は見えない。
だけど、この風景なら以前に見た。ブルーを失った直後と変わらない。
そう思いながら歩いていると、急に足を取られた。足首に、何か黒いものが絡みついてヨネを引き留めたのだ。それは手だ。黒い……男の手だった。
息を呑む。想像もしていなかった事態に、急に恐怖がこみ上げてきた。
こんなに怖いと思ったのは、本当に久しぶりだ。長い間生きていると、たいていのことには恐怖を感じなくなっていたから。
「な、何かしら……」
絡みつく何かに、声をかけてみる。
まさか、まさかと思いながら。だけど、確かにブルーの気配がしたのだ。
「……ごめん。人の姿を見たのは久しぶりだから、つい」
ブルーの声だ。ずいぶんと疲れて元気がないけれど、確かにブルーの声。
それはそろりと手を放した。
つぷりと手はぬかるみの中に沈んで、代わりに頭が浮かび上がってきた。黒いヘドロにまみれて髪はひどく汚れていた。
伸びすぎた髪のせいで、顔がよく見えない。辛うじて、戸惑いに震える唇が見えるだけだ。
「本当に、ごめんね。驚かせてしまって。久しぶりで……久しぶりすぎて、どうしていいかわからなかった」
ブルー……本当にブルーなの。問いかけたいのを堪えた。
自分はもう、彼の愛してくれたヨゼフィーネではない。病弱で死にかけのか弱い娘ではないのだ。老いず死なず人の世界を百年以上生きてきた。もう、あの頃の何も知らない少女ではないのだ。
変わったのだ。ブルーも。自分も。
ヨネは深呼吸をして、努めて穏やかな声で言った。
「いいのですよ。少しびっくりしましたけれど、平気です」
「君は、誰? 僕のことを知っているの?」
幼子のような問いかけに胸が詰まる。もう、ヨゼフィーネのことなど覚えていない。
彼は、何もかも失ったのだ。仕事も、記憶も、あんなに美しかった青い公園も。
「わたしは、寺田ヨネと申します」
ゆっくりと発音して、ヨネは自己紹介した。動揺はもうずいぶん収まっていた。見た目は変わらずとも、過ごした年月の分だけ、強かになっていた。
「ヨネさん……ていうんだ。何をしにきたの?」
「あなたに会いに」
ブルーは不思議そうに首を傾げる。相変わらず目元は見えないけれど、なんとなく想像ができた。澄んだ青い瞳が、見えたような気がする。
「わたし、あなたの服を縫おうと思っておりますの」
「僕の? どうして君が?」
いつかの夜、約束した。晴れた空のようなシャツを縫ってあげると。明るい色もきっと似合うと思って。
あの約束を、果たすときが迫っている。そう感じた。
「服を作るのがわたしの仕事なのです。色々な方に服を縫ってきました。わたしには、どんな服でも縫えますのよ」
「へぇ……どんな、服でも」
興味深そうに頷いて、ブルーは少し身を乗り出した。
「あなたには、服が必要だと思います」
「そうかもしれない。服を着ないと、レディーの前に出られない」
くすりと笑みを漏らして、肩を揺らす。振動でヘドロが落ちて、白い肌が見えた。
「ここはずいぶん寒いのね」
「そうかい? ごめんね、レディにかけてあげられるブランケットもなくて」
「あら、お気持ちだけで少し温かくなりましたわ」
ヨネの軽口に、ブルーはくすくすと笑う。その明るい声にほっとした。
「君と話をしていると、とても穏やかな気持ちになるよ。うん、でもね、だから……」
口ごもり、迷うように沈黙する。唇を嚙んで、何かに耐えている。その姿が痛々しくて、今すぐ抱き締めたくなる。
ブルーは決意したように、ヨネを見上げて言う。
「……だから、もうこないでくれるかな」
穏やかだけれど頑なな拒絶の声に、ヨネの背後にじわりと絶望が迫る。
ダメだ。諦めないと決めたのだ。
ようやく再会できたのに、諦めてたまるものか。
「どうしてですか。わたしたち、いいお友だちになれそうですのに」
「僕は、罰を受けているんだ。楽しい思いをしたら、罰にならない」
「何の罰なのですか」
「ある女の子を不幸にしたらしい。とても、とても酷いことをした」
「不幸かどうかは、その方に聞いてみないとわかりませんわ」
ヨゼフィーネは不幸ではなかった。辛いことはたくさんあったけれど、それは生きていれば誰にでも降りかかることなのだ。
少なくとも、夢を叶えたのだ。仕立て屋になるという夢を。
「人の幸不幸というのは、他人が決めることではありませんよ」
ブルーは首を横に振って、擦れた声で呟く。
「何もかも忘れてしまったけれど、わかるんだ。とても悲しい思いをさせたんだ。全部、僕が悪い」
「だから、それは……」
「僕はもっと、もっと苦しまなくちゃいけない」
ブルーにはヨネの言葉は届かない。あの日の、か弱い少女ではなくなったヨネの言葉など。今、彼の前にいるのは、強かに百年あまりを生きてきた女だ。
「服はいらないよ。でもありがとう、君の気持ちはとても嬉しかった」
そう言ってブルーは微笑んで、またぬかるみの中に戻っていった。とぷん、と音がしてそれきり、あたりは冷たい静寂に包まれる。
ブルーの消えたあたりをそっと手のひらで触れてみた。鈍色の澱みはひどく冷たい。手が凍ってしまいそうだった。こんなところにブルーはたった一人、自分の罪状も知らずにただ罰を受けていたというのか。
痛みと怒りと悲しみが混じり合って、ヨネを襲った。
どろりと暗い感情に囚われそうになる。
一体、彼がどれほどの罪を犯したというのか。
百年以上もこんな孤独な罰を受けねばならないほど、彼は罪深いのだろうか。
どのような罪人も悔い改めたのならば救われなければいけない。たとえどのような手段を使っても、彼を救う。
「縫うわ。どんなに拒まれても……ブルー、あなたの服を」
あんなに冷たい泥濘に沈んでいてはいけない。彼にはまず、その身を覆う清潔で心地好い服が必要だ。
そう決意して、ヨネは絶望に満ちた公園を後にした。
ヨゼフィーネは父から仕立て屋としての手ほどきを受けた。一人で紳士物のスーツやシャツを仕上げるまでには何年もかかった。
仕事となると父は厳しかった。病気の頃は優しい顔しか見たことなかったから、新鮮だった。母からは生活全般のことを学んだ。同じく母も厳しかった。思えば、老いることなく生きていくヨゼフィーネが困らないよう、なるべく多くのことを教えようとしてくれたのだろう。
やがて両親は老い、逝った。寂しくて悲しくて堪らなかったけれど、両親を見送ることができたのは誇らしい気持ちにもなった。
そんな日がくるなんて、病に伏していた頃は想像もできなかった。自分が先に死ぬのだと思っていたから。時と共に悲しみの激情が去ると、子としての務めを少しは果たせたのだと安堵も覚えた。
死神スノーの手引きで、ヨゼフィーネが仕立て屋を始めたのは百年ほど前。日本では元号が明治から大正に変わる頃だった。
海辺の居留地にあった店を引き払い、自宅を店として改装した。本当は父の店をそのまま継ぎたかったけれど、人通りの多すぎる場所ではヨゼフィーネが店を営むには不向きだとスノーに助言されたのだ。
ブルーを奪った彼のことを恨んでいた。憎らしいと思っていた。だけど、ヨゼフィーネがどれほど嫌おうと、スノーは常に紳士的に接してきて、この世で生きる術を教えてくれた。
そうして、好きにはなれないものの、信用に足る人物だとは思うようにはなっていた。
今思えば、彼も死神なのだ。何か、やむにやまれぬ事情があって、人間の世界を逸脱してしまった一人だということだ。
彼はヨゼフィーネのために尽力を惜しまなかった。普通のテーラーではなく、もっと特別な服を扱う店にしてはどうかと提案したのは彼だ。
例えば、人ならざる者の依頼も受けるだとか。客の願望を叶える服を仕立てるだとか。それならば、本当に必要としている者にしか辿り着けない店にするといい、そのためには、妖精の国で育った木で看板を作るのだ、とか。
それから、人間との関わり方も教わった。老いることも死ぬこともない人間はいない。数年もすれば、不自然だと気づく人間もいるだろう。
住処を変えるという手もあるが、店を構えるには不便だろう。スノーが提案したのは『適度に忘れられる』ことだった。ヨネと関わった人間は、数年でヨネのことを忘れてしまう。
忘れんぼうの羊からできた布で、ヨネはスタンドカラーの黒いワンピースを縫って、それを制服のように着ることにした。お下げ髪はやめて、動きやすいようにシニョンにまとめた。
ヨゼフィーネは寺田ヨネと名乗り、店の名はテーラー・ヨネとした。スノーからの紹介で、普通の布だけではなく不思議な力を持つ布を仕入れた。そして、彼の仲介でやってきた様々な客……例えば、一つ目のタイタンの紳士や人魚の娘などがやってきて、彼らの望む衣装を提供した。
そうして、ヨネはたくさんの服を縫ってきた。
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何でも望むものを案内すると言った。だからヨネは、彼にブルーを救う方法を依頼した。
彼の報告はいつもノーだ。本当に見つからないのか、それとも隠しているのか、わからない。それでも、繰り返し依頼した。
方法が皆無だとは思わない。……思いたく、ない。
何度も依頼するうち、ノアの報告を虚偽だと疑う気持ちは薄れていった。
ノアはブルーのことを怒っているけれど、それは憎しみからではない。それが、長いつき合いのうちにわかったから。
想像していた未来とは違っていた。ブルーはそばにいなかった。だけど、仕立て屋になる夢は叶った。
苦しいときもあるけれど、服を縫うのは楽しかった。望み通りの服を手に入れて幸せそうな客を見ると、ヨネも満たされた気持ちになった。
今は、死んでしまったバレエ・ダンサーために服を縫っている。萠衣の死因と本当の望みをようやく聞き出すことができた。辛い話をさせてしまったけれど、自分が何を縫うべきかわかった。これで満足のいく物ができるはずだ。
方針が決まったところで、ヨネは久しぶりに青い公園を訪れたのだ。
本当に久しぶりだ。ブルーが消えてからは、しばらくは何度もきてみた。一人でも簡単に行き来できたけれど、愛しい人の姿はどこにもなかった。
荒れ果てた公園に絶望するばかりだった。それでもブルーの痕跡を求めて公園を彷徨い、その度に泣いた。
それを見かねたのか、ノアは公園に行くことを禁止した。いつになく厳しい態度で言いつけるノアの言葉に、少しだけほっとした。
自分の意志でやめることに罪悪感があったから。情けなくて悲しかったけれど、ヨネはノアに従った。
だけど、萠衣に現実と向き合うことを促した手前、いつまでも目を逸らしているわけにはいかないと思ったのだ。
魔女の言葉も気になっていた。ショックを受けるかもしれないと。それから、時間がないとも言っていた。
美しかった思い出の公園は、ぞっとするような冷たい世界に変わり果てていた。確かに、胸が潰れるようなショッキングな光景だ。
花は死んでいた。水は濁り、月は見えない。
だけど、この風景なら以前に見た。ブルーを失った直後と変わらない。
そう思いながら歩いていると、急に足を取られた。足首に、何か黒いものが絡みついてヨネを引き留めたのだ。それは手だ。黒い……男の手だった。
息を呑む。想像もしていなかった事態に、急に恐怖がこみ上げてきた。
こんなに怖いと思ったのは、本当に久しぶりだ。長い間生きていると、たいていのことには恐怖を感じなくなっていたから。
「な、何かしら……」
絡みつく何かに、声をかけてみる。
まさか、まさかと思いながら。だけど、確かにブルーの気配がしたのだ。
「……ごめん。人の姿を見たのは久しぶりだから、つい」
ブルーの声だ。ずいぶんと疲れて元気がないけれど、確かにブルーの声。
それはそろりと手を放した。
つぷりと手はぬかるみの中に沈んで、代わりに頭が浮かび上がってきた。黒いヘドロにまみれて髪はひどく汚れていた。
伸びすぎた髪のせいで、顔がよく見えない。辛うじて、戸惑いに震える唇が見えるだけだ。
「本当に、ごめんね。驚かせてしまって。久しぶりで……久しぶりすぎて、どうしていいかわからなかった」
ブルー……本当にブルーなの。問いかけたいのを堪えた。
自分はもう、彼の愛してくれたヨゼフィーネではない。病弱で死にかけのか弱い娘ではないのだ。老いず死なず人の世界を百年以上生きてきた。もう、あの頃の何も知らない少女ではないのだ。
変わったのだ。ブルーも。自分も。
ヨネは深呼吸をして、努めて穏やかな声で言った。
「いいのですよ。少しびっくりしましたけれど、平気です」
「君は、誰? 僕のことを知っているの?」
幼子のような問いかけに胸が詰まる。もう、ヨゼフィーネのことなど覚えていない。
彼は、何もかも失ったのだ。仕事も、記憶も、あんなに美しかった青い公園も。
「わたしは、寺田ヨネと申します」
ゆっくりと発音して、ヨネは自己紹介した。動揺はもうずいぶん収まっていた。見た目は変わらずとも、過ごした年月の分だけ、強かになっていた。
「ヨネさん……ていうんだ。何をしにきたの?」
「あなたに会いに」
ブルーは不思議そうに首を傾げる。相変わらず目元は見えないけれど、なんとなく想像ができた。澄んだ青い瞳が、見えたような気がする。
「わたし、あなたの服を縫おうと思っておりますの」
「僕の? どうして君が?」
いつかの夜、約束した。晴れた空のようなシャツを縫ってあげると。明るい色もきっと似合うと思って。
あの約束を、果たすときが迫っている。そう感じた。
「服を作るのがわたしの仕事なのです。色々な方に服を縫ってきました。わたしには、どんな服でも縫えますのよ」
「へぇ……どんな、服でも」
興味深そうに頷いて、ブルーは少し身を乗り出した。
「あなたには、服が必要だと思います」
「そうかもしれない。服を着ないと、レディーの前に出られない」
くすりと笑みを漏らして、肩を揺らす。振動でヘドロが落ちて、白い肌が見えた。
「ここはずいぶん寒いのね」
「そうかい? ごめんね、レディにかけてあげられるブランケットもなくて」
「あら、お気持ちだけで少し温かくなりましたわ」
ヨネの軽口に、ブルーはくすくすと笑う。その明るい声にほっとした。
「君と話をしていると、とても穏やかな気持ちになるよ。うん、でもね、だから……」
口ごもり、迷うように沈黙する。唇を嚙んで、何かに耐えている。その姿が痛々しくて、今すぐ抱き締めたくなる。
ブルーは決意したように、ヨネを見上げて言う。
「……だから、もうこないでくれるかな」
穏やかだけれど頑なな拒絶の声に、ヨネの背後にじわりと絶望が迫る。
ダメだ。諦めないと決めたのだ。
ようやく再会できたのに、諦めてたまるものか。
「どうしてですか。わたしたち、いいお友だちになれそうですのに」
「僕は、罰を受けているんだ。楽しい思いをしたら、罰にならない」
「何の罰なのですか」
「ある女の子を不幸にしたらしい。とても、とても酷いことをした」
「不幸かどうかは、その方に聞いてみないとわかりませんわ」
ヨゼフィーネは不幸ではなかった。辛いことはたくさんあったけれど、それは生きていれば誰にでも降りかかることなのだ。
少なくとも、夢を叶えたのだ。仕立て屋になるという夢を。
「人の幸不幸というのは、他人が決めることではありませんよ」
ブルーは首を横に振って、擦れた声で呟く。
「何もかも忘れてしまったけれど、わかるんだ。とても悲しい思いをさせたんだ。全部、僕が悪い」
「だから、それは……」
「僕はもっと、もっと苦しまなくちゃいけない」
ブルーにはヨネの言葉は届かない。あの日の、か弱い少女ではなくなったヨネの言葉など。今、彼の前にいるのは、強かに百年あまりを生きてきた女だ。
「服はいらないよ。でもありがとう、君の気持ちはとても嬉しかった」
そう言ってブルーは微笑んで、またぬかるみの中に戻っていった。とぷん、と音がしてそれきり、あたりは冷たい静寂に包まれる。
ブルーの消えたあたりをそっと手のひらで触れてみた。鈍色の澱みはひどく冷たい。手が凍ってしまいそうだった。こんなところにブルーはたった一人、自分の罪状も知らずにただ罰を受けていたというのか。
痛みと怒りと悲しみが混じり合って、ヨネを襲った。
どろりと暗い感情に囚われそうになる。
一体、彼がどれほどの罪を犯したというのか。
百年以上もこんな孤独な罰を受けねばならないほど、彼は罪深いのだろうか。
どのような罪人も悔い改めたのならば救われなければいけない。たとえどのような手段を使っても、彼を救う。
「縫うわ。どんなに拒まれても……ブルー、あなたの服を」
あんなに冷たい泥濘に沈んでいてはいけない。彼にはまず、その身を覆う清潔で心地好い服が必要だ。
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