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番外編
石室にて
しおりを挟むまるで作りかけのまま放置されたような、白い石が半分だけ積まれた壁と、途中から青い空になってしまう天井。
王都月神殿の敷地内にありながら、喧騒とは無縁の忘れられたような石室に、サミエルは座っていた。
この場所の主はまだいない。
約束の時間までに、勝手に使って良いと言われた戸棚から茶葉を取り出し二人分のお茶を淹れる。
無造作に置かれた水差しのような容器に、冷める様子のない熱湯がなみなみと入っていたのには驚いた。
(最近はなんにでも驚かされているけど……)
サミエルは自分を無感動だとか、好奇心が薄い人間だと感じたことはいままでに一度もなかった。
だからこそ、毎日の生活にこれほど気づきや発見が多く隠されていたということには驚いたし、常に驚かされている。
神になるということは、そういうことなのだろうか。
大砂漠の人々は常に神を身近に感じ、時に恐れ、時に敬い、力を貸してもらいながら生きている。
それはサミエルも同じことだった。
神は常に人間のすぐ隣に座している存在だが、両者には埋めることのできない隔たりがある。
多くの人は「あると思っている」。
自分の意思とは関係なく、人間ではなくなってしまったサミエルも、そう考えていた一人だった。
自分の人生が地続きのまま、別のものに変貌し、二度と元の道に戻れなくなったと知ったとき、サミエルの胸に去来したのは悲しみと恐怖だった。
人に戻れないという悲しみと、未知の生き方を始めなくてはならない恐怖。
流れの旅楽士であった自分を受け入れてくれた街。
打ち解けた住民も多く、サミエルが演奏すれば皆喜んで聞き入ってくれていた。
自分の演奏が病や災いを退ける力があると持て囃されはじめたときも、それが偶然であると知りながら、特に否定はせず曖昧に笑うだけに留めた。
砂漠の暮らしは厳しい。
なにかに縋りたい人々の気持ちは痛いほど分かっていた。
だから恩返しのように、街の人々がそんな幻想で安心するのならと、祭り上げられることも拒否はしなかった。
その結果、サミエルに神格が与えられるなどと、誰が知っていただろう。
サミエルはあのときから、本物の民の心の拠り所になってしまった。
もう100年以上も昔のことである。
神になったと気づいたばかりの頃は、自棄になったり暴力的になったりしたこともあったが───まだ人だった頃に慣れ親しんだ人間をすべて見送る頃には、サミエルの心は落ち着いて現状を受け入れることができるようになっていた。
街の住人の拠り所として心を落ち着け、少しずつ容姿が若返っていることに気づいた時期から、サミエルは昔の仲間を思い出すことが多くなっていった。
特に、ある人物を。
彼はかつて旅一座のメンバーで、一緒に過ごした時間は決して長くはなかった。
それでも彼のことをよく覚えているのは、ひとえに彼が特殊だったからだ。
一座のメンバーは誰も口になどしなかったが、アリスと名乗る彼が神の一柱であることは皆薄々察していたと思う。
ただサミエル含め誰も、彼が何を司る神なのかは把握していなかった。
この世界の神は、強大な力を持つものからそうでないものまでとても多種多様だ。普通の人間とそう変わらないような力の弱い存在も珍しくない。
弱い神は寿命も短い。
彼はもうこの世にはいないかもしれないと思いながらも、サミエルはアリスに会いたいと思うようになっていた。
それが実は、神々の中でも至高とされる自然現象を司る神で、何千年も生きていて、さらに恋人が太陽神だなんて……昔の自分に教えても信じないだろう。
まだ熱いお茶を冷ましながら飲んでいると、草地に設えられた台座に一陣の風が舞い踊り、黒衣の女性が姿を現した。
「待たせたな、サミエル」
「いいえ、エーベアルテ様。お茶が入ってますよ」
「いただこう」
優雅に歩み寄って椅子に座った女性は、新月の女神だ。
細い指でカップを持ち上げお茶を飲む仕草は、まるで彫像のように完成されている。サミエルが画家や彫刻家であれば、いてもたってもいられず彼女の姿を写し取りたいと思っただろう。
月女神とお茶をする自分……これも信じがたい事柄のひとつだ。
浮雲の神アンフィスと、太陽の神ルーが晴れて結ばれ、ルーの見識を深めるための旅……もとい、新婚旅行に出てから一週間が経っていた。
サミエルは彼らが王宮を破壊したという騒動の決定的な瞬間を見ていないので、その後どういった顛末があったのかは当事者の一人───女神エーベアルテから聞くこととなった。
「残念じゃのう、お前があの場にいればすぐに叙事詩を書いて歌ってもらったものを」
これは何度も言われた。
サミエルとしては、そんな世界の終末みたいな場面に遭遇したら心臓が持たないと思うのだが……すべてを見通す月の女神にそんなことを言っても鼻で笑われそうなので、苦笑いを浮かべるだけだ。
竜の姿が崩れたアンフィスと王宮の地下から助け出されたルーが、エーベアルテによってジェディーヤ村に飛ばされた直後。
駆けつけてきたサミエルと一仕事終えたエーベアルテはどういうわけか、茶飲み友達になった。
自分のなにが気に入ったのか、エーベアルテから再びお茶会に招待されたのが今日のことである。
「サミエル、お前いつまで王都にいられるんじゃ?」
「えぇと……予定では今日を含めて四日くらいは。今回は街の人にも空けることを伝えてあるので、多少伸ばせますが」
「そうか。あいつらが一度王都に寄るようなのでな、もう何日かしたらここへ来る。お前も会いたいじゃろうと思うてな」
「そうなんですね、教えてくださりありがとうございます」
エーベアルテの空になった器にお茶のお替わりを注いで、自分の器を再び啜る。
王宮での事件のあとに一度だけ会ったアンフィスとは、あまり話すことができなかった。今度はもう少し話したいし、可能であれば彼の恋人を改めて紹介してもらいたいものだが。
お茶を飲みながらのんびりを考え事をしていたサミエルは、そういえばとエーベアルテに向き直る。
「エーベアルテ様。ルー様の救出に皆既日食を利用するつもりだったのなら、なぜアリス……アンフィスの力を借りたんですか?」
「……あぁ、そのことか」
エーベアルテは何度か頷いて腕を組む。
「二つある。ひとつは、我らは物質に干渉する力があまりない。太陽のが封じられておったのは、頑丈な箱であった。あれを破壊する力のあるものが必要じゃった」
「なるほど……。アンフィスがあんなに恐ろしい力を持っているなんて、思ってもみませんでした」
「あの雲は……本来恐ろしい存在じゃ」
銀の瞳が伏せられる。いつも堂々としたエーベアルテの面に影が射し、サミエルは驚いた。
アンフィスが、危険な存在?
「我らはこの星に降りる前からこの星を見つめておった。監視、と言い換えても良い。あるときあの浮雲が生まれ、我らはその特異性を恐れた。奴は雲であるのに、水に戻ることも巡ることもない。不変であった」
「それは、おかしなことなのですか……?」
「我ら星の神は、一見なにも変わらず在るように見えるじゃろ? 速度が遅いから見えぬだけで、絶えず時間は流れておる。無限ではない。しかしあの浮雲には、限りがない」
「不死、ということですか?」
「そうかもしれんな。なんにせよ規格外の存在じゃ。我らが手を下すことができなかった二つ目の理由はそれじゃ。我らは我らの上位存在に危害を加える行動は取れない」
「上位存在……」
つまり、ルーに攻撃が当たるかもしれないという状況でそれでも手を下すことができるのは、特異な存在であるアンフィスしかいないということだ。
エーベアルテがアンフィスに仕事を依頼したとき、まるで彼が無職で暇そうだから頼んだような飄々とした態度だったが、今思えば彼女ははじめからアンフィスを待っていたのだろう。
エーベアルテは、ルーのことを「現存する最古の最高神」だと言った。
月の神であるエーベアルテより古い、力を持った神だということだろうか。
星の歴史は、元人間のサミエルには果てしなく途方もない話に思えるが、彼らの中では厳格に線引きのある定義らしい。
「星は年齢を重ねただけ強く、力も溜め込む。太陽は、この緑の星が生まれるより前から存在しておった。太陽神がどれほどの力を持ち、いつから存在しておったか知っているものは本人しかおらぬ。もしくは始祖竜様はご存知だったかもしれぬな」
「始祖竜……創世竜ですか」
「そう! お前、なぜ始祖様を創世竜などと他人行儀な呼び方をする!」
「えっ」
全く予想していなかったエーベアルテの詰問に、サミエルの目が点になる。
創世竜は、さまざまな伝承伝説に必ず登場するこの世界を作り上げた存在だ。子供でも知っている。
しかし創世竜のことを「始祖竜」と呼ぶものは、エーベアルテ以外に会ったことがなかった。そんな別名があることも知らなかったし、知られていない。
「始祖様がこの世界に力を及ぼしてくださったおかげで、我ら神が在るのじゃ。いわば我らの祖先。なんなら父とでも、祖父とでも呼んで良い存在じゃぞ!」
「そう、なんですか……すみません、知りませんでした」
「……ふん。まぁお前は神になって日が浅いしな、知らんでも無理はない」
「エーベアルテ様は始祖竜様のことを慕っておいでなのですね」
そう言ってサミエルが微笑むと、エーベアルテの顔が真っ赤に染まった。
おや?
「エーベアルテ様、もしかして……」
「えぇい見るな! これは、茶が熱かったのじゃ! 火傷じゃ!」
「もうだいぶぬるいと思いますけど」
「茶のせいじゃ!」
サミエルが顔を覗き込もうとするのをあからさまに避けて、エーベアルテはそっぽを向いてしまった。
背けた頰はまだ赤い。
年若い乙女のような仕草に、サミエルは微笑みを深くする。
エーベアルテは創世竜を、さまざまな意味で慕っていたのだろう。上位存在として、父として、そして───。
しかしどうやら彼女はそのことを深く追求してほしくないようだった。
「素直じゃないですね、エーベアルテ様って」
「な、な、なんじゃ! わ、わたしが茶で火傷をするのが、そんなにおかしいか!?」
いつもは月女神を総じて自らのことを「我ら」と呼ぶ彼女には珍しく、素が出ているようだった。サミエルの笑みはますます深くなってしまう。
「そんなことはありませんよ。このお茶はおいしいですからね、急いで飲んで火傷してしまったんですよね」
「そ、そうじゃ!」
「僕がふーふーしてあげましょうか?」
「なーっ!? 子ども扱いするでないわ! 調子に乗りおって~!」
今度こそ耳まで赤くなってしまったエーベアルテは、残っていたお茶を飲み干してがちゃんと乱暴に器を置いた。
腕を組んで外方を向いてしまった女神のご機嫌は、これ以上ないほど損ねてられている。
あまりからかいすぎるのもよくないと、サミエルは心にもない謝罪を並べて機嫌を取った。
超然としているこの月女神が、こんなふうに喜怒哀楽の激しい少女のような御方であることを知っているのは、サミエルやアンフィスなど限られた者だけだろう。
それがサミエルにはなにより嬉しかった。
「ふん! お前のような、生意気で敬いというものを知らん元人間ごときにな、新月の神からありがた~いお言葉じゃ! 心して聞けぃ!」
「謹んで賜ります」
「……アンフィスはお前の存在に、ずいぶん救われておった。彼奴を気にかけてくれていたこと、感謝する」
はっと顔を上げたサミエルは、やはり彫刻のような、それでいて慈悲に溢れた母のようなエーベアルテの面を見た。
浮雲を危険だといい、星の監視を担っていると言ったエーベアルテの言葉は、一見、神の役割のみから出た冷たさしか感じないものだったように思う。
しかし彼女が決して義務感だけでアンフィスのことを気にかけていたわけではないことが、サミエルにもしっかりと伝わってきた。
本当にアンフィスのことを、弟のように思ってくれているのだろう───。
(果報者だな、アリスは)
サミエルは自然と胸に手を当て、慈悲深い月の女神に頭を垂れた。
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