踊り子は二度逃げる

キザキ ケイ

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終末を告げる竜

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「蛇毒の谷に竜が棲む」───。
 まことしやかに噂され、しかし畏れから誰も真偽を確かめることができない、夢物語のような話。
 それが真実だということは、俺が一番よく知っている。
 何を隠そう俺こそが、「蛇毒の谷の竜」だから。

 竜の姿になって80年ほど経ったという。
 昨日酒盛りをして、今朝旅立っていったサミエルがそう教えてくれた。
 この姿が安定してきた頃から、俺は一度眠ると何日も目を覚まさないことが多くなって、日付の感覚はとうに曖昧だ。
 数年に一度必ずここを訪れてくれるサミエルの存在がなければ────意思も理性も失った、本物の竜になってしまうかもしれない。
 馬鹿げていると思うが、その狂気的な妄想を捨てきれずにいる。

 蛇毒の谷へサミエルと一緒にやってきたあの日。
 吹き上がる水柱を呆然と眺めた俺たちは、谷が湖になるまえに水の流れをどうにかすることにした。
 幸い俺は水の神を両親に持つので、水の制御は得意だ。
 手のひらに全神経を集中させて水を抑え込むイメージを展開しながら力を使った。
 力を放出しつづける指先がびりびりと痺れはじめる頃、水柱はやっと湧き水程度になり、そのまま小さな泉になった。

「つ…………つかれた」
「お疲れさま、アリス。晩ごはんにしよう?」
「おま、サミエル、あの水柱の横で晩飯作りとは……度胸あるな」
「もはやこんな程度で驚いてたらアリスの友達やってられないなと思って」

 昔と比べてすっかり図太くなってしまった親友の隣で、ケジェ村で仕入れた野菜と干し肉のスープを啜る。
 落ち着いたようすの水面を眺めていたが、ゆらゆらと天上の星々を写す以外、新しくできたばかりの泉に特に変化はないようだった。
 これなら放置してもよさそうだ。

「で、どうだった? この渓谷の『力』っていうのは」
「俺の自前の力とは比べ物にならないほど強いものが一帯に満ちてるよ。この濃度のものが端から端まであるとしたら……ここで死んだ蛇神ってのはとんでもない存在だな」
「そっか。やっぱりすごい場所なんだね……僕も力を使ったらなにか起きないかな?」
「んー……サミエルの力は元々大したものじゃないし、やってみるか? 『春の賛歌』で花が咲いたりしてな」
「いやいや、あり得るかもよ?」

 スープと固いパンだけの晩飯のあと、サミエルが弾いた「春の賛歌」で本当に小さな花が咲いたときは、二人で腹を抱えて笑い死ぬところだった。
 ────あのとき生まれた花は、今もこの渓谷で息づいている。
 不毛だった砂地を、一面の花畑に染め上げた原因だ。

 谷に到着した次の日、俺は竜となるべく依代を呼び寄せた。
 いつもは母なる洋上にぷかぷか浮かべて放置している俺の本体、浮雲だ。
 離れた場所に依代を呼ぶのは難しいことじゃない。感覚的には、ギリギリ届かない場所にあるものを手足を伸ばして取ろうとするようなものだ。
 雲というのは本来、人間が歩く速さの100倍くらいで移動することができる。そこまで本気を出さないときは、人間の徒歩の倍くらいのスピードだ。
 数日後には、地上から見ればのんびりした動きの雲が空の向こうからやってきた。
 近づくにつれて異常に気づく。
 昔より大きくなっているのは知っていたが、自分の体……というか本体であるはずの依代が、ここまでデカくなっているとは思わなかった。

「これ、積雲ってやつだね? アリス」
「うーん……デカい」

 俺の依代は、最後に見かけた数百年前に比べて何十倍にもデカくなっていた。
 なんでだろう。放置してたからまったく知らなかった。
 雲ひとつない青空で、巨大で重そうな雲が一心不乱に西へ向かっていく光景が人々に不安を与えていないといいんだが……。
 俺は両腕を広げて、依代を呼び寄せた。

「戻れ」

 遥か上空にあった大きな雲が、細い糸を紡ぎだすように地上に垂れていく。
 谷の地面に触れる前に、俺の体が乾いた海綿のように雲を吸収していった。
 すべてを納めきると、力が満ちているのを感じたが、体が水を飲みすぎたときのようにちゃぽちゃぽと重い。

「依代ぜんぶ吸収するの何百年ぶりだろ……逆に落ち着かないわ」
「なんか、アリスが神だっていうの今すごく実感したよ」
「えっ? 遅くない?」

 依代の雲が意外と大容量だったので、俺はさっそく竜の体とやらを作ってみることにした。
 慣れ親しんだ人間の形は核として残しつつ、エーベアルテの下手くそな絵になるべく沿った大蜥蜴を頭の中に想像する。
 できるだけ細かい部分まで描写できると完成度が上がる。
 体色がまったくわからないので、最初は白で作ることにする。

「よし、俺いまから変身するから。人間より大きいものになるの初めてだからあんまり自信ないけど」
「わかった。変身ってなんかドキドキする言葉だね。少し離れて見てるよ」

 岩壁に身を寄せたサミエルが妙なテンションだった気がするが、無視して神経を集中させる。
 体の内側から、依代の雲が膨らんで無限に湧き出るイメージに、俺の容姿を変形させる力と、谷に満ちている力を混ぜて雲に形を与えていく。
 その上で、人間の肉体に完成させてある視覚などの五感を竜の体にも伸ばしていく。体の薄皮を引っ張って無理やり伸ばすような感覚だ。ちょっと痛い。
 次に体表に爬虫類の鱗を形作る。
 その細かい作業が終わると、手足の爪と口内の牙を竜っぽく整える。
 今の俺はさながら彫刻家だ。
 一通り完成したと思ったので、端のほうで小さくなっているサミエルに声をかけた。

「どうかな? サミエル」
「うわっ、アリス声低くなってるね。体は……細かいところがぼんやりしてて、粘土細工みたいだ」
「なるほど……微調整が必要だな」

 それからは、サミエル監修のもと竜の体を作るための作業が数日続いた。
 幸いそのための力は余るほど周囲にあるし、蛇神の力を吸収するのはエーベアルテの依頼通りのことだから、俺は力をどんどん使って体を仕上げた。

 竜らしい細部が出来ていくにつれ、俺の竜の体は大きく重くなっていった。
 80年経ったいまでは、渓谷の面積の半分を俺の体が占めている。
 とにかく翼がかさばる。たまに空へと広げなければカビてしまいそうで怖いくらいだ。
 のこり半分の大地には花と泉がある。
 いかにもファンタジーな光景だが、俺は寝返りを打てないのでかなり不自由な暮らしを強いられている。
 エーベアルテの言う「機を待つ」というのは、いつまでのことなんだろうか……。

 俺の体が、数日かけてエーベアルテの想像図より洗練された竜になった頃、サミエルは自分の街へ帰った。
 彼には彼を待つ人々がいて、俺にずっとかかずらっているわけにはいかない。
 サミエルは最後までここに留まると言ってくれたが、居場所がある彼を帰らせたのは俺のエゴみたいなものだ。故郷を奪うような真似はしたくなかった。
 それに、サミエルが「信仰の根源」である街に留まることは、彼の神としての寿命を延ばすことでもある。
 特定の個人の長生きを望むなんてエゴの極致みたいなことを考えてしまう。俺も人間らしい感情が備わってきたということだろう。
 今は竜だけどな。

(竜というのは……不自由な存在だな)

 少しだけ眠気にうつらうつらとしながら、取り留めもなく考える。
 まず自分で体を作ってみて感じたのは、竜の体は合理的にできていないということだ。
 強いのも大きいのも構わないが、この巨体を維持するには猛烈な量の食物を必要としただろう。
 俺は実体が雲なので水だけで生きていけるが、本物の竜がいたのなら人間を食っていただろう。簡単に仕留められるエネルギー源として。
 大きな爪や牙もふつうに暮らすのにはあまり向いていないので、本来は本当に蜥蜴に似た控えめな見た目の生き物なんだろうと思う。
 極め付けはこの翼。
 このサイズの翼を維持するなら根元はもっと胴体と密接に接続していなければ、ちょっとした風圧でもげそうだ。巨大な翼を羽ばたかせるために必要な胸筋の量は計り知れない。
 創世竜、きっと相当な巨乳だっただろうな。

 過去にこの世界に竜がいたのだとしたら、それは他人からのイメージの押し付けの産物だっただろうというのが俺の考えだった。
 今の俺もエーベアルテの妄想を押し付けられた存在だし。

(はやく仕事を片付けて、ぐっすり眠りたい……)

 この谷は悪夢を見せる。
 力を吸収するあまり、大昔に死んだはずの蛇神の記憶のようなものが夢を見せてくる。あまり楽しい内容ではない。
 それが嫌で、俺はもう何年も微睡みと気絶でしか睡眠を取れていなかった。
 今日もまた、気を失うように眠るのだろう───そう諦めた時。

 今までに一度も聞いたことのない、鈴に似た大音量が俺の鼓膜を突き抜けた。

「うわぁ!?」

 びっくりして飛び退いたせいで、背後にあった岩壁に翼がぶつかって痛い。
 振り乱した尻尾が弾き飛ばした大岩がものすごい地響きを鳴らして谷の外に吹き飛んだ。近隣住民の皆さんごめんなさい。
 今度は声を出さないようにゆっくりと姿勢を戻す。
 俺の首元には岩があり、それをくり抜いた穴の中に荷物が収められている。
 俺たちがここに来た時に背負っていた袋の中身だ。吹きさらしだと瞬く間に風化してしまうので、普段はしまい込み、サミエルが来たときに手入れしてもらっている。
 その岩の中から音がしている。
 俺はそっと手を持ち上げて、鋭い爪をちょいと動かした。
 岩の中から中身が転がり出てくる。
 音の正体は、もはや忘れかけていた……エーベアルテが渡してきた「仕事道具」、透明で緑がかった小さな石だった。
 大きな音を発し続ける石がうるさくて、爪先でつんつんつつくといきなり音が止んだ。

『久しぶりじゃの、アンフィス。元気に竜をやっておるか』

 音の代わりに石から聞き覚えのある声が発せられて、俺は今度こそ飛び上がって驚いた。

「姐さん!?」
『おぉ、元気そうじゃの』
「えっ!?」

 からからと笑う声が石から出ている。
 間違いなくエーベアルテの声だ。しかも……会話が成り立っている。
 声を届ける力のある石だったのか。しかしそんなものの存在は聞いたことがない。
 やはりこの女神はなにもかも規格外だ。

「これ、ただの石じゃなかったの? 俺の声聞こえてる?」
『ただの石を仕事道具として渡すわけないじゃろ。こうして使うために預けておいたのよ。あとで返却してもらうからの』
「それって、もしかして……」
『そうじゃ。機は満ちた。アンフィス、ひと仕事やってもらうぞ』
「って言ったって、この姿でなにを……」

 俺は首を曲げて体を見下ろした。
 両手には鋭く太い爪が光っている。口唇から覗く牙はなにもかもを噛み砕く。他者が触れることを許さない、ひとつひとつが刃物のような尖った白い鱗。それに覆われた強靭な尾と、羽ばたき一つで岩山をも吹き飛ばす大きな翼。
 そして、縦に裂けた瞳孔が圧倒的な存在感を齎す爬虫類の青い眼。

 破壊をするためだけのこの姿で、仕事内容を察するなというほうが難しい。
 ただ、俺はそれを言われるまで信じてはいなかった。

 誰よりも世界と平和を愛する月女神が、破壊を望むということを。

『時は来た。アンフィス、その力を持って王都ルジェに舞い降り、王宮を破壊しろ』

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