踊り子は二度逃げる

キザキ ケイ

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別れ

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 最初は、自分の状況を理解できなかった。
 目を開けた先には柔らかな色の布に覆われた天井。
 横には大きなクッション。
 自分の体はいくつものクッションが重ねられた場所に横たわっていて、体中どこもかしこも痛いような重いような感覚に包まれていた。
 めちゃめちゃ怠い。こんな目覚めは初めてだ。
 なんとか上半身を起こして、部屋を見渡す。

「そうだ、俺、ルー様と……いてて」

 腕の力がかくんと抜けて、クッションに逆戻りしてしまった。
 昨夜、俺は気絶するように寝てしまい、それからのことは覚えていない。
 体を見下ろしてみたが汚れはなかった。ルー様が清めてくださったのか、そうではないのか、考えるのが怖い。
 そして服も着ていた。
 しかし奇妙なことに、この服は自分のものではあるが、昨日着ていたものではない。昨日の衣装は絨毯の上にきれいに畳んで置いてあった。
 なぜ着てこなかった服を今着ているのか……。

「……深く考えないほうがよさそうだ。よし、宿に帰ろう」

 全身が鉛のように重くなっていて、あらぬところにまだ異物が入っているような感覚が半端なかったが、心を無にしてなんとか立ち上がる。
 よろよろしている自覚はあったが、ここは貴人の部屋だ。俺がずっと寝ていていい場所ではない。

 決死の覚悟で梯子を降りると、なんと村長が待っていた。
 まさか一晩中ここにいたんだろうか?

「おはようございます、アリスさん。宿に戻りましょうか」
「あ……はい……」

 村長の満面の笑みをまっすぐ見られない。
 昨夜なにがあったか絶対に知られている。
 商売柄、貴人に召し上げられてなにもないことのほうが奇異なんだから、これは一般的にはむしろ当然のことであって、悪いことでもおかしなことでもない。村長もそれをもちろん弁えているはずだ。
 だからこれはそういうアレではない。俺がいたたまれなくなる義理はない。ないんだけど……。

(恥ずかしい……無理……)

 村長の慈愛に満ちた視線が、目を合わせなくともわかるくらいびしびしと突き刺さる。
 正直、俺は踊り子とはいえ男だから、今まで貴族のお客などにそういう誘いをかけられても冗談めかして逃げてこられた。
 しつこい客がいなかったからというのもあるだろうけど、俺はどこかでそれらの声掛けが真剣な誘いだと思っていなかった。
 だからこういうことは初めてなんだ。
 どうすればいいか、わかるわけもない。

 岩影の外には、だいぶ高い位置で輝く太陽があった。
 そろそろ昼を過ぎようかという時間まで寝ていたことに衝撃を受ける。
 そういえば朝食どころか昨晩の夕食も食べていないのでお腹が空いた。宿の方に食べ物が残っているといいけど……。
 今にも鳴きだしそうな腹を押さえて村長の後ろを歩いていると、ゆっくりした足取りはそのままに村長が言った。

「尊き方からの言伝で、エベラ舞踊団の公演は昨日の晩で終了とされるそうです」
「───あ……」

 これで、終わり。
 そうか、そうだった。ルー様がここに滞在している間だけの仕事。
 彼は気まぐれな王族で、今夜の公演がないということは、もうここにはいないんだろう。
 目が覚めたとき誰もいなかった部屋の、寒々とした空気を思い出す。
 ずきりと痛んだような気がして、胸を押さえた。
 どうしてこんなにつらい気持ちになるんだろう。
 こんなのは知らない。
 知りたくもなかった────。

 村長がその後もなにか言っていたような気はしたけど、俺の意識は内側に向いていて耳に入らなかった。
 どうせ舞踊団の撤収話とか報酬の話だろうし、それなら団長にも伝えられるはずだ。
 上の空になった俺を村長が気遣わしげに見ていた気はするが、それに対応する余裕がなくてそのまま歩く。
 宿に着いて、村長は物言いたげにしながらも何も言わずに立ち去った。

 宿の扉を開くと、広間には誰もおらず、静かだった。
 物音はしているので、団員たちがそれぞれの部屋で荷造りをしているんだろう。
 家具などに掴まりながらふらふらと男部屋に入る。

「ただいま……」
「アリス!」

 部屋にはサミエルがいた。弾かれたように荷物から顔を上げ駆け寄ってきた仲間を見て、知らずに張り詰めていた気が抜ける。
 体を支えていた力が抜けてずるずると床に座り込んでしまった。
 ひっくり返りそうになった俺の腕を、サミエルが慌てて掴んで支えてくれる。

「アリス、つらい? ベッドまで歩ける?」
「だ、だいじょぶ。ちょっと安心しただけだから」
「……アリス」

 痛みを堪えるような顔をするサミエルに笑みを向けたのに、もっと痛そうな表情をさせてしまった。
 そっと肩を抱き寄せられる。

「無理しないで。きみが心配なんだ」
「……ありがとサミエル。でも俺、ほんとに大丈夫だよ」

 ぱたぱたとサミエルの背中を叩いて安心してもらう。
 暴力を振るわれたわけじゃない、むしろ優しくしてもらったほうだと思う。
 踊り子として生きるのなら、遠からずいつか起こっていたことだ。
 苦しくも悲しくもない。
 ただ、虚しいだけだ。

「サミエル、団長はいつ出発するって?」
「……っ、アリスが、戻ってきたらすぐにと。もう荷物もまとめてあるよ」
「悪い、ありがとな。団長に戻ったこと伝えてくる」

 がくがくする足腰はさっきよりマシになっていた。
 俺は努めて明るく振舞って、舞台の片付けをしているであろう団長を探しに宿を出た。



 それから少しだけ日が傾いた頃、俺たちは来た時と同じ荷車に仕事道具と団員を満載して村の出口にいた。

「エベラ団長、そして舞踊団の皆さん。素晴らしい演技をありがとうございました。村を代表して御礼申し上げる」
「こちらこそ、歓待を感謝いたします」

 村長を筆頭にたくさんの村人たちが見送りに来てくれた。
 皆手を振ってくれて、涙ぐむ人までいる。心から受け入れてもらえていたことに、俺の涙腺もゆるみそうになってぐっと耐える。

 過ぎるほどの声援を受けて村を出た。
 荷車に揺られながら、知らずに指先が首筋を辿る。
 身繕いをしているとき、鏡に映った顔の下から胸元のあたりまでは、夥しい数の赤い痕が残されていた。
 身体中至るところに唇を寄せられていたことは覚えているけど、まさかこんな有り様になっていたとは。
 踊り子の体に傷をつけるなんて。そう憤慨してもいいはずなのに。
 たった一夜の関係で、まがいものだったとしても……執着のように刻みつけられたあの人の痕跡を、厭うことはできなかった。
 頬を一筋、想いのかけらが伝う。でも、それだけだった。

 進む道を仰ぎ見る。
 この時間にこのペースであれば、日没までにはあの小さなオアシスに着くことができるだろう。
 そして、すっかり遠くなってしまった村の方を振り返る。
 わずかに見える建物と、依然として大きく聳え立つ岩山が目に映った。
 砂漠特有の空気の揺らぎの向こうの風景を、俺はしっかりと目に焼きつけた。
 もう来ることはないだろうから。

「次の仕事はどんなところでやるのかな。なぁサミエル?」
「楽しみだね、アリス」

 明るく振る舞う俺の様子を察してくれたのか、団員たちもなにも触れずにくだらないおしゃべりに付き合ってくれた。
 大声で歌って、笑って、楽しさで空虚を押し流す。
 本当にこの舞踊団は居心地が良くて、大好きだ。

 だから離れるのはつらい。でも、仕方のないことだ。

 それから俺は三年間、エベラ舞踊団の一員として、踊り子として生き、四年目の春に彼らと別れた。
 たくさんの涙の見送りを受けて、俺も号泣しながら、しかし未練だけは残さないようにしっかりと別れを告げた。



 建物の影に入り、見送りの団員たちの視線がなくなって、もう少しだけ薄暗い路地を進む。周囲に人目がないのを確認する。
 俺はつめていた息をたっぷり吐いた。

(さぁ、最後のひと仕事だ)

 後ろで一括りにした、腰まで届きそうなほど伸ばしていた髪を手にとって払う。
 束ねられた赤茶色の髪は先端から粒子になって空気に溶け、消さなかった分は根本から濃い灰色に変わった。
 手持ちの鏡を見ながら毛先の微調整をして、耳にかかる程度の長さにする。
 仕事のためとはいえ、あれだけ苦労して伸ばした髪を短くするのはちょっと残念に思ったが、背に腹は変えられない。男の長い髪は目立つ。

 鏡に映る顔を見つめる。
 目は大きいが、それ以外は平凡な顔だ。
 これは「昔どこかの村で会った少年から借りた顔」だった。

「さようなら、アリス」

 十年ほど世話になったこの顔に笑顔で別れを告げ、手のひらで大きく顔を覆う。
 手を離したあとの俺の顔は────全く別のものになっていた。
 つり目がちのやや細い目に、すっと通った鼻筋。
 しかし全体でみれば凡庸な顔立ちだ。これは以前世話になった商人の次男の顔を参考にさせてもらった。涼しげな目元を気に入っていたから。

 服の上から体に触れ、体型も変える。
 控えめにしていた肩幅を少し寛げて、背も少し高めに。小さかった足を平均程度に広げる。そして指を長めに伸ばした。
 砂漠の男の平均よりはまだ小柄だが、踊り子よりはしっかりとした大人の男に見える体型になっただろう。

 空中で腕を振ると、手に収まったのは楽器だった。
 サミエルが扱っていたものに少し似ているが、もっと小ぶりで繊細な作りだ。
 爪弾くのではなく、弦を擦り合わせて音を出す。砂漠の国ではまったく流通していない、西方の国の楽器。
 サミエルから三年かけて楽器の演奏を習って、「次」は楽士になろうと決めていた。
 楽士になろうと思った時に最初に思い浮かんだのがこの楽器だった。
 弦楽器の基本の動きは学んだし、サミエルからもお墨付きをもらっている。この楽器でしばらく生きていこう。きっと楽しく暮らしていける。

 長く集団生活をしていたからか、仲間と身を寄せ合う暮らしは居心地がいいと知ってしまった。
 しかし元々俺は風に任せて流れる運命の存在だ。
 風が吹けば、隣の誰かがどんなに強く掴んでも、俺は流れていくしかない。
 しばらくは一人旅でいいだろう。

 集団に所属しないので、自分の身は自分で守らなければならない。
 空を手で切って武具を取り出す。
 握りを手に収めると、腕に沿うように曲がっている強靭な鋼の刃が鈍く輝く。
 揺らめく炎の一瞬を切り取ったような刀身を持つ、変わった形状の両刃の武具は、防御を主目的とした武器だ。物騒な見た目で相手を怯ませる効果もある。
 これを握るのはずいぶん久しぶりだ。よく手に馴染む。
 服の中で腰に下げるとずっしりとした重みが加わった。

 足元に置いていた荷物を肩にかけて、建物の影を出る。
 さっき涙の別れをしたエベラ舞踊団の団員たちは、すれ違っても誰も俺に気づかなかった。
 ちゃんと「次」になれたみたいだ。
 この瞬間はいつも寂しさが込み上げる。俺だよ、と言って彼らに縋りたくなる。
 でもダメなんだ。
 今から向かえば日没までには隣村に移動できるだろう。
 気ままな旅であちこち巡り、楽器を弾いて日銭を稼いで、見たことのない景色を探したり、行ったことがない地を目指してみるのも良いかもしれない。

 「アリス」として生きた時間が頭の中に蘇った。
 踊り子になりたくて、大きな街で他の踊り子たちを見よう見まねで練習した日々。
 エベラ団長が俺を見出してくれて、舞踊団で過ごした楽しい毎日。
 そして───忘れることなどできない、朱色の混じった金の瞳の男。

「さよなら……みんな」

 足早に街を通り過ぎる。
 十年生きてきた「踊り子のアリス」が死んだ今日という日を、きっと忘れることはない。
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