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第四章

66.あるべき二匹に

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 嵐のようだった。
 タビトは膝の上の花籠を見下ろし、横のレグルスを見上げる。

「レグルス、ふられちゃったの?」
「そうらしい。いつの間にそんなことになってたんだ……」
「どうすればいいのかな……アルシャウから取りなしてくれるよう頼もうか?」
「いや、両家合意の上なら覆らない。なによりブルーシアが決めたことだ、きっと元に戻ることはない。……だから、タビトにもらってほしい」

 花籠が奪われ遠くに置かれる。
 思わず追いかけた手を握られ、真摯なオレンジ色の瞳と見つめられた。

「メスライオンにふられるようなオスは嫌?」
「そんなの気にしないけど、でも」
「気になることがあるなら言って。全部直すから」
「レグルスに直すようなとこないよ。強くて賢くて優しいもの」
「ありがと。オレも強くて賢くて優しいタビトが好きだ」

 ちゅっと唇に吸い付かれたのは、どう考えても魔素の供給ではない。
 タビトはいまいち事態が飲み込めず、大丈夫なのかと繰り返し問うことしかできない。

「婚約は破棄された。山岳ライオン側からの申し出ならオレの咎にはならない」
「レグルスは草原ライオンの跡取りとして育てられたんじゃ? 結婚相手がいなくて大丈夫なの?」
「平気だ」
「どうしてそう言い切れるの?」
「オレは父様の本当の子じゃないから」

 衝撃的なその答えを、知っていたような気がする。
 霞む視界と思考の中で、密猟団のリーダーがなにやら興奮気味にまくし立てたのを聞いていた。
 何度も叫ばれた「荒野ライオン」という種名。

「オレは父様の姉の子なんだ。父様は本当はオレの叔父だ」

 本当の父親は、かつて荒野を支配した最強の種族「荒野ライオン」の末裔だった。だからレグルスはラサラスとはあまり似ていない。
 両親は事故で亡くなったと聞いている。
 レグルスは幼児のうちにラサラスに引き取られ養子となったが、所詮は近縁他種の子、しかもオスだ。
 ライオンの本能に刻まれた「子殺し」を防ぐために、レグルスはラサラスや、やがて生まれる義弟妹たちから離れた場所で育てられた。
 幼いレグルスが親きょうだいのぬくもりを欲しがって鳴いても、中途半端に血が近い家族には何もしてやることはできなかった。

「でもタビトが来てくれた。オレがあの屋敷に住んでいたからタビトと出会えた。小さい頃はさみしい思いもしたけど、全部このためだったんだと思えた」
「僕と会うため……? 僕のせいで、さみしかった?」

 レグルスは苦笑して、俯くタビトの髪を撫でた。

「そんな後ろ向きなことじゃない。タビトが来てくれなければオレはずっとさみしいまま、さみしいオトナになっていたと思う。それをタビトが救ってくれたんだ」
「それまではずっと……」
「うん。でもタビトがいっしょにいてくれた時間が楽しすぎて、さみしかったときの頃なんてもう忘れちゃった」

 タビトも同じだ。危機感を抱くくらい、かつてつらかったことや悲しかったことを思い出さなくなっている。
 それが母やラナへの、苦しんで消えていったものたちへの裏切りに思えて仕方なかったが、レグルスも同じだというのなら、少し気が楽だ。
 耳の下の髪を優しく梳く指先に頭を擦り寄せると、ふと空気が変わる。

「タビト……好きだ」

 ごく近い場所にある夕陽色に目を奪われ、時間が止まったように思えた。
 かろうじて頷く。「僕もだよ」の言葉は半分ほど、やわらかな唇に食べられてしまった。

「オレの好きは、重い。タビトを独り占めしたい。誰にも触らせたくない。誰にも笑いかけたりしないでほしい。全部ぜんぶオレだけにしたい。そういう意味の『好き』なんだ」

 でも婚約者ブルーシアが、と言いかけて理解する。
 彼らの婚約は破棄されている。
 さっき真剣ながらも軽い口調で「もらってくれる?」と言ったのが、偽らざるレグルスの本心だと。
 そして同時に、タビト自身も押さえつけ飲み込んできた想いが、胸の中で爆発するようにせり上がってくるのを感じていた。
 抑えられない。

「僕も、僕だってっ……レグルスをひとりじめしたかった。ずっと、僕だけのレグルスにしたかった……っ」

 愛したものが次々と命を奪われる残酷な世界。
 そこから逃れた先だとしても、同じことが起こらないと誰が保証してくれる?
 楽園は平和じゃなかった。
 タビトの命は何度か脅かされた。そのたびに誰かが救ってくれたとしても、求めるものが必ず手に入るなんて幻想はとても願えない。
 だってずっとそうだった。
 ずっと求め続けたものはとっくに誰かに権利があって、タビトはただ何番目とも知れない優先順位にしがみついているだけで満足しろと突きつけられて。
 周囲が目まぐるしく変化していく中で、自分も変わらざるを得なくて。
 それなのに、いっそ捨ててしまいたいものばかり変わらない。

 ラナから奪ったなにもかも。
 許されない相手レグルスへの想い。
 ────母の命を踏み台に生き残った自身さえ。

「ひどいよ……いまさら、こんな……っ」
「ごめん、タビト、ごめん……見捨てないでくれてありがとう……」

 声をあげてわんわん泣くなんて考えられないような醜態を、ただ黙って受け止められる。
 ぼろぼろと零れ落ちる涙をぬぐわれ、レグルスの胸に抱き込まれると、余計に泣けてくる。

「好き、すき……う、うぅ……だいすき、レグルス……っ」
「あぁタビト、嬉しい。オレも大好きだ」

 びしょびしょの唇に贈られたキスはしょっぱいばかりで、止まる気配のない涙は不快だったけど、なぜかレグルスは満足そうだった。
 一回り大柄なレグルスにすっぽり抱きしめられ、ゆらゆらと揺らされているうちにタビトの激情も収まってきた。
 もうオトナになったとされる年齢なのに、あんなに大声で喚いたりして恥ずかしい。
 ぐしゃぐしゃになっているであろう顔もみっともなくて、目の前の胸に顔をうずめると嬉しそうに含み笑われて、頭を撫でられる。まるっきり子ども扱いだ。
 いつもはレグルスのほうがよほど子どもっぽいのに、こういうときだけ卑怯だ。
 思えば彼は昔から、なんだかんだと遠回りしながらも自分の要求を通してしまうところがあった。

「そうだ、これからのことを話しておかなきゃならないんだった。そのままでいいから聞いて」
「ん……」

 耳だけを動かして聞いていると意思表示する。
 副都守備隊の実習期間中に、密猟団に攫われた前代未聞の実習生タビトの処遇は、守備隊の管理不行き届きによる事故という扱いになっていた。
 副都のほうでも例の密猟団の調査は内密に行われていたが、彼らはよほど狡猾だったのかアジトの特定ができておらず、実習生および留学生たちの独断専行は咎められることはなく、むしろ拠点を発見したことで感謝されたほどだった。
 調査の専門家でも見つけられなかったあの場所をどうやって見つけたのか、それとなく探りをいれられたが、レグルスはメイサとその仲間たちのことは最後まで言わなかった。
 あの場に立ち会った他の生徒たちも詳細は口にせず、唯一「俺様の優秀な嗅覚のおかげだ」と言い張ったイヌ科の実習生がいたため、調書にはそのように書かれたとのことだった。

「プロキオンらしいね」
「おかげで助かった。代わりに今回の大捕物は彼の功績ということになった」
「そっか。僕はそれでいいと思うけど、メイサが納得してくれるかな……」
「メイサにはなにか美味しいものでも差し入れればいいんじゃないか」
「そうだね。よくお礼を言わないと」
「オレには? オレもがんばったんだけど?」
「ふふ。ありがとうレグルス」

 リゲルとプロキオンは引き続き守備隊の実習へ戻ったが、タビトはケガのこともあり、実習から外れることになった。
 予期せぬ事故のため、実習満了分の単位がもらえるらしい。
 卒業に絶対に必要な単位なので、タビトはほっと胸をなでおろす。

「ただ、実習が終わった扱いになってるから守備隊の寮には戻れないんだって。だから本来の実習期間が終わるまでうちに来られるよう手配しといた。明日あたりアルシャウが迎えに来るよ」
「わかった。でも学校の寮に戻らなくていいのかな」
「ハカセから伝言。『魔素不足の予後を確認したいので帰るな』だそうです」
「はぁい……」
「オレもいっしょに帰るから」
「え、なんで?」

 レグルスは実習生ではないし、ブルーシアを探すという目的も果たしたのだから、騎士学校に戻らなければならないのではないか。
 こてんと首を傾げるタビトに、苦笑しながらレグルスは言う。

「父様に新しい婚約者を紹介しなきゃ」
「……あたらしい、婚約者?」

 誰だろうと思い、どうしてか胸が痛んだ。
 タビトをレグルスだけのものにしてくれると約束したのはついさっきだ。もしかして、ブルーシア以外にも婚約者がいたのだろうか。

「そう。雪みたいに白くて、子ネコみたいに元気でかわいくて、なのに強さは百獣の王を超えるほどで、なのに子ネズミみたいに臆病でいつもどこかさみしそうで……オレがずっといっしょにいたい相手」

 指折り挙げられる要素とともに、レグルスの顔がどんどん近づいてくる。
 ついには鼻がくっついて、キスするみたいに擦り合わされて、タビトはぱちぱちとまばたきした。

「僕?」
「そうだよ。一瞬『他の誰か』って疑っただろ」
「うん」
「ほら、そういうところが臆病なんだ。獣型はあんなに強いトラなのに」

 こつんと額を合わせられ、すくい上げるように両手を握られて、まつ毛が触れ合いそうな距離で見つめられる。
 吸い込まれそうなオレンジの瞳に、タビトの姿が曖昧に映り込んでいる。

「学校を卒業したら、オレと『ツガイ』になってほしい」
「プライドのメンバーじゃなくて?」
「ツガイにプライドみたいな主従はない。一匹に一匹だけしかいない。だからタビトには子どもを持たせてあげられない。異種族とつがって変なやつだって言われるかもしれない。それでも離してあげられない。オレの唯一に、なってほしい」

 レグルスの唯一。タビトだけが。
 そんなのタビトにとってはずっと前から────出会ったときからそうだった。
 一番や唯一というものを、ほしがってはいけないんだと思っていた。
 もう我慢しなくていいんだ。

「なるよ、なる。レグルスの唯一……」

 だからこれからはタビトの唯一もレグルスだけだ。
 そっと寄せた唇は、まるではじめからそうなるためだったかのように触れ合って、気の済むまで離れることはなかった。
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